212.平穏な日々
エウクレイア家の館では平穏な日々が続いていた。
学習室の机に齧りつき、ペンを走らせているのはアルゴだ。
真剣な様子で用紙に文字を書き込んでいく。
静かな部屋。聞こえるのはペンが走る音だけ。
「そこまで」
と言ったのは、侍女長ベアトリクス。
「ふぅ」
と息を吐き、アルゴはペンを置いて背もたれに背中を預ける。
「では坊ちゃま、採点致しますのでしばらくお待ちを」
「はい、お願いします」
ベアトリクスは用紙を取り上げ、記入された内容に目を走らせていく。
それからしばらくして声を上げた。
「素晴らしい。全問正解です」
「……よかった」
ベアトリクスは小さく拍手する。
「坊ちゃまは本当に聡明であらせられる。歴史学、数学、政治学……すべて高水準を維持されている。ワタクシは素直に驚いております」
「ありがとうございます。でもそれは、ベアトリクス先生の教えのお陰です」
「坊ちゃま……大変ありがたきお言葉。ああ、いけません……涙が」
ベアトリクスはハンカチを取り出して涙を拭う。
「な、泣くほどのことでしょうか……」
「泣くほどのことです。ワタクシの家は、代々エウクレイア家に仕えて来た家系です。エウクレイア家の繁栄こそが我が家の栄光。坊ちゃまがいらっしゃる限り、エウクレイア家は安泰でございますね」
「言い過ぎのような気がしますが……褒めてもらえるのは嬉しいです」
その返事にベアトリクスは微笑み、パンと手を打ち鳴らした。
「さて、本日はここまでと致しましょう。では坊ちゃま、ワタクシはこれで失礼致します」
「はい、今日もありがとうございました」
ベアトリクスは一つ頷くと、身を翻してこの部屋から出て行った。
退出するベアトリクスと入れ替わるように、部屋に入ってきた者が居る。
「頑張っているようだな、アルゴよ」
そう言って部屋に入ってきたのは、この家の家長メガラ・エウクレイア。
「どうかな? 必死ではあるけどね」
「フフフッ。疲れたか? どれ、肩を揉んでやろう」
「肩? いやいいよ。そんなに疲れてないし……」
「まあそう言うな。そのまま座っていろ」
そう言ってメガラは、アルゴの肩を揉み始めた。
「ありがとう……」
「構わん。どうだ? 気持ちいいか?」
メガラは力を込めてアルゴの肩を揉み続ける。
その力は弱く、正直に言うと物足りなさがある。
だが、勿論そんなことは言わない。
「うん、気持ちいいよ。でもこういうの、ふつう逆じゃない? 主がシモベに奉仕してどうするのさ」
「よいではないか。いまさら余とお前の間で、そのようなことを気にする必要があるか?」
「まあ……そうだね」
その後、アルゴは続けて言う。
「メガラ、訊きたいことがあったんだ」
「うん? 何だ?」
「俺の出番は……いつなのかな?」
「……」
「俺の体はもう完全に治っている。俺は戦えるよ。俺に戦う許可を―――」
「アルゴ、その話はもう終わったはずだぞ。大連合軍は巨大な軍隊だ。あの軍が負けるはずがない。戦のことは奴らに任せておけばいい。ゆえに、お前の出番はもうない」
「でも、でも俺は……」
口ごもるアルゴ。
アルゴが続きを言う前に、メガラは後ろからアルゴを抱きしめた。
顎をアルゴの左肩に乗せて、メガラは言う。
「その話は、もう終わりだと言っただろう? それよりも、余から言うべきことがある」
「……言うべきこと?」
「アルゴ、お前は正式に余の養子となれ。そうすればお前に家督を譲れる。お前はエウクレイア家の家長としてこの家を盛り立て、余は魔族連合の盟主として君臨し続ける。二人でこの国を繁栄させようではないか。……どうだ?」
「……うん」
「なんだ、不服か? それとも余の王配を望むか? だが余とお前の関係はそういうのではなかろう」
「いや、そうじゃないよ。ありがとうメガラ。俺のために色々と考えてくれて。俺はメガラとずっと一緒にいたい。だから、その提案は嬉しいよ。だけど……」
「だけど?」
「今も戦いは続いている。俺は……戦いに征きたいんだ。だからその提案は、戦いに決着がついてから決めたい」
「アルゴ……」
「分かってるよ、メガラ。俺のことを心配してくれる気持ちは本当に嬉しい。わがままを言って申し訳ないとも思っている。だけど、それでも俺は戦いたい」
「……嫌だ」
「え?」
メガラはアルゴを抱きしめる力を強めた。
「嫌だ。お前が余から離れていくのは嫌だ。お前は余の傍に居ろ。いや、居てくれ……」
アルゴはメガラの左手にそっと自分の右手を添えた。
「頼むよ、メガラ。ベアリルとの約束があるんだ。マティアスさんの恨みを……スキュロスさんの思いを……死んでいった人たちの魂を……俺は連れていかないといけないんだ」
「嫌だ。嫌だと言った。余は一度間違えた。危うくお前を失うところだった。今度は間違えん。絶対に、絶対にだ」
アルゴはルキフェルとの賭けに負けて死にかけた。
そのことをメガラは強く後悔している。
「もう二度とヘマはしない。それを約束する。絶対に生きて帰る」
「嫌だ。頼む、アルゴ……余の言う事を聞いてくれ……頼むから……」
メガラの声が震えていた。
それは体も同様で、メガラの不安が直接伝わってくる。
「……うん。分かったよ、メガラ。俺が悪かった……」
この時、アルゴはそう言うしかなかった。




