210.その思いを
それから数日が経過した。
アルテメデス帝国との戦の戦況は、依然として膠着状態にあった。
両軍、自陣で守備を固め、力を溜めている状態。
ここ数か月は大きな戦は起きていない。
だがそれは、大戦が再開されるまでの仮初の平穏。
再び大戦が始まろうとする機運は、確実に高まっていた。
そんな中、アルゴはエウクレイア家館で穏やかな日常を送っていた。
朝は庭園で木剣を振るなどの自主訓練。
昼はベアトリクスから授業を受ける。
夕方の自由時間には館の者たちの手伝いをするか、自主勉強をする。
夜は食事を取ったあとは館の者たちと少し談笑し、自室に戻る。
するとすぐに眠気に襲われ、ベッドに潜り込むとそのまま朝を迎える。
ときおり館に訪れる客の相手をすることもあるし、メガラと共に領内へ出かけたりもする。
そこそこ忙しくはあるが、平和で穏やかな日々だった。
そんなある日の休息日のこと。
アルゴは歓談室で読書をしていた。
歓談室には革張りの椅子と黒塗りの机が置かれている。
床には暖色の絨毯が敷かれ、壁の配色は落ち着いた深緑。
アルゴにとってこの歓談室は、館でもっとも落ち着ける場所だった。
今日は休息日だ。
今日は戦闘訓練も勉強もなし。
体を休めることも重要、という教えはルタレントゥム内では一般常識だった。
アルゴの目の前には、暖かい飲み物と焼き菓子が置かれている。
これは侍女たちが準備してくれた物だが、焼き菓子に手を付けているのは主にその侍女たちだった。
茶髪のクラーラは、焼き菓子を齧りながら笑い声を上げた。
「先日、休暇を頂いて実家に帰った時のことなんすけどね、父ちゃんも母ちゃんも爺ちゃんも近所のおばちゃんたちも、ワタシのことを崇め奉ってくるんすよね。そりゃあ、ワタシは栄えあるエウクレイア家に勤めてるっすけど、ワタシはワタシじゃないっすか? ワタシはべつになーんにも変わってないのに、あんな風に扱われても困るっすよ」
それに反応したのは青髪のユッタ。
「クラークは庶民の出だから、まあ無理もないかも。ああ、これは嫌味とかではない。気を悪くしたなら謝る」
「まあ、そうなんすけどね。ワタシの家族も知り合いもみーんな庶民っすから。あとべつに気を悪くしたとかはないんで、謝る必要はないっす。 確かユッタは名家の令嬢っすよね? ユッタの家ではどんな感じなんすか?」
「わたしの家はどちらかと言えば重圧。我が家の名に恥じない働きをしなさい、だとか、盟主様に対し失礼のないように、とか。そんな感じ」
「なるほっどすなー。名家は名家で大変なんっすねー。ところで、坊ちゃまはその辺りどう思うっすか?」
急に話を振られ、アルゴは本を読むのを止めて視線を上げた。
「あの……俺の勘違いだったらすみません。クラーラさんとユッタさんは、今日はお休みじゃないですよね? 仕事とか……いいんですか?」
「もーう、坊ちゃまー、今日は侍女長も盟主様も居ないんすよ? 仕事なんていいに決まってるじゃないっすかー」
いや、駄目だろう……。
「アハハッ」と笑うクラーラの様子に、アルゴは心の内でツッコみを入れた。
「坊ちゃま、侍女長や盟主様にわたしたちのこと、告げ口……する?」
ユッタが首を傾げてそう尋ねた。
「まさか、そんなことしませんよ。俺はただ、お二人のことを心配しただけです」
「心配?」
「はい。だって、与えられた仕事が終わってなかったら、怒られるのはお二人ですから。それを心配しました」
それを聞いてユッタとクラーラは顔を見合わせた。
そして、ユッタは少しだけ笑みを浮かべた。
「坊ちゃまは、本当に優しい。本当に……いい子」
と言って、ユッタはアルゴの頭を撫でた。
「―――なッ!?」
突然のユッタの行動に驚くアルゴ。
同時に照れ臭くなり顔が赤くなっていく。
「あー、坊ちゃま、顔が赤くなってるー。坊ちゃまは、本当に可愛いっすねー。そんな可愛い坊ちゃまには、焼き菓子を食べさせてあげるっす!」
と言ってクラーラは焼き菓子をつまみ、アルゴの口元へ運ぶ。
「はい、あーん、してっす」
「い、いや、その……」
「坊ちゃま、わたしのも……食べて?」
クラーラに張り合うように、ユッタもアルゴに焼き菓子を食べさせようとする。
クラーラとユッタから差し出される焼き菓子を交互に見比べ、どうするべきか悩むアルゴ。
な、なんだこの状況……どうすればいい……?
「ほら、坊ちゃま、食べてっす!」
「わたし、坊ちゃまに食べて……欲しい」
明るく言い放つクラーラと、上目遣いで見つめてくるユッタ。
慣れない状況に戸惑うアルゴ。
思考停止に陥りそうになった時、この部屋の扉が開け放たれた。
「お前たち、アルゴが可愛いのは分かるが、その辺にしておけ」
そう言って部屋に入ってきたのは、エウクレイア家の家長メガラ・エウクレイアだ。
メガラの姿を見て、クラーラとユッタは慌てて立ち上がった。
「め、盟主様! きょ、今日は戻らないと伺っておりましたが!?」
「ああ。その予定だったが、思いのほか話が早く纏まったのでな」
「そ、そうだったんすね!」
クラーラとユッタは直立の姿勢で動かない。
その様子を見て、メガラは言う。
「ふむ。クラーラ、ユッタよ、余は別にお前のたちの行動を咎めるつもりはない。休憩は必要だし、ほどほどに手を抜くのは必ずしも悪いことではない」
それを聞いて、クラーラとユッタは僅かに緊張を解いた。
「だが」
クラーラとユッタにまた緊張が走る。
「与えられた仕事はキッチリとこなしてもらわねば困る。今日はお前たちに書類整理を命じていたはずだ。進捗を聞かせてもらおうか?」
クラーラとユッタは顔を見合わせて、同時に走り出した。
「し、仕事に戻るっす!」
「仕事、する!」
と言って、クラーラとユッタは部屋から出て行った。
「いや、余は詰めているのではなく、純粋に進捗を聞きたかったのだが……」
とこぼすが、クラーラとユッタはもういない。
「アハハッ」
と笑うアルゴ。
その笑顔を見て、メガラも笑みを浮かべた。
そしてメガラはアルゴの隣に座った。
「お疲れ様、メガラ」
「うむ」
と返事してメガラは焼き菓子に口を付ける。
そして思い出したように言う。
「そうそう、ベアトリクスがお前のことを褒めていたな。お前は飲み込みがいいそうだ」
「本当? それは嬉しいな」
「ああ。その調子なら、任せられそうだな」
「ん? 何を?」
「余の仕事の一部をお前にやってもらおうと思う。折を見てお前に余の仕事を教えよう」
「え、俺にできるかな?」
「そうだな……。政治……というものは、ある意味では戦場よりも過酷だ。だが、お前なら大丈夫だ。お前は余の見込んだ男のなのだから」
「……うん、分かった。俺、頑張ってみるよ」
「頼りにしてるぞ」
「ところで……」
「ん?」
「戦場と言えばだけど、俺はいつ戦場に出れる?」
「何を言う、アルゴ。戦の勝敗はほぼ決した。我ら東西の大連合軍はアルテメデス帝国の兵力に勝る。アルテメデス帝国が倒れるのは時間の問題。あとは軍の者たちに任せればいい。少なくとも、戦に於いては余とお前の出番はもうない」
「でも……」
メガラは、右手でアルゴの左手を握りしめた。
「アルゴ、そもそもお前は死にかけたのだぞ? お前にはしばらく休息が必要だ」
「体なら大丈夫だよ。星彩の雫の効果はすごい。もうなんともないんだ。本当に―――」
「アルゴ、余の言う事を聞いてくれ。頼む……余を安心させてくれ……」
アルゴの右手を強く握りしめ、祈るように言うメガラ。
その姿に、アルゴは何も言えなくなってしまった。
でも……でも俺は……戦いたいんだ。
俺はもう、たくさんの思いを背負っている。
たくさんの人たちから、たくさんの物を託された。
それは願いや希望だけじゃない。
恨みや、憎しみさえも……。
その思いを連れていかないといけない。
戦場に……連れていかないといけない。
だから俺は……戦いたいんだ。
メガラの小さな掌から伝わる確かな温度。
それを肌で感じ、その思いを口にすることができなかった。
これで六章は終わりです。ここまで読んで頂きありがとうございます。
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次回七章が最終章となります。最後までよろしくお願いします!




