2.紫の瞳
再び、アルゴに絶望の季節が訪れた。
アルゴは右脚を損傷してしまった。
原因は分からないが、おそらく骨の疲労。
栄養状態は良くなく、過酷な労働環境では稀にあることだった。
働けなくなったアルゴは不良品と化してしまった。
貴重な労働力とはいえ、高い治療費を払ってまで助ける理由は領主にはない。
それよりも、不良品を処分して新たな奴隷を買った方が安上がりだ。
領主はそう判断した。
アルゴは最悪に分類される形で処分された。
冒険者。そう呼ばれる、主にダンジョン探索を生業とする者たちにアルゴは売り払われた。
冒険者が奴隷を買う理由は、それほど多くない。
特に、弱りきった少年を買う理由などは、更に限られる。
アルゴが冒険者に買われた理由、それは囮だ。
ダンジョンは凶悪な魔物が蠢く危険地帯。
いざという時にアルゴを囮にして、自分たちだけはダンジョンから脱出する。
冒険者たちはそう考えていた。
「おら、しっかりと歩け!」
坊主頭の冒険者にそう怒鳴られ、アルゴは少し歩く速度を上げる。
だが、それほど速度は上がらない。
何故ならアルゴは右脚を損傷している。
棒切れを杖代わりにして歩調を速めるが、それでも健常者の歩行速度より遅い。
アルゴの左腕には縄が括りつけられている。
坊主頭の冒険者は、その縄の先を手に握り、アルゴを引いて歩いている。
縄がなくとも、片足が不自由なアルゴが逃げ出せるはずもないのだが、用心深いのか冒険者が縄を離すことはなかった。
前方にはアルゴを引っ張る坊主頭の冒険者と、長髪の冒険者。
どちらも男で年齢は三十代ぐらいか。
荒々しい雰囲気が、荒事に従事する者たちであることを思わせる。
縄で引っ張られているのはアルゴだけではなかった。
長髪の冒険者も縄を握っている。
その縄と繋がれているのは、十歳にも満たないであろう小柄な姿。
フードをかぶっており、顔はよく見えない。性別も分からない。
だが、両側のこめかみの辺りにツノが生えているをアルゴは見た。
魔族か……。
初めて見たが、この小柄な人物の正体は魔族で間違いないだろう。
魔族とは、頭部にツノを持つ者、肌が青や緑や紫の者、額に第三の目を持つ者など、人族とは違った外見的特徴を持つ者たちの総称。
それらの特徴的な外見を持つ魔族は、このアルテメデス帝国では軽蔑の対象。
可哀想にな。
この魔族の子供の年齢は分からないが、おそらくは十歳以下だろう。
そんな子供が、これから魔物に無惨に食い殺されるのだ。
俺たちが何をしたというんだ。
どうして神はこうも試練を課す。
嘆くような、憤るような感情がアルゴの胸中に浮かぶ。
だが、それは一瞬だけだった。
まあ、いいか……。
その過酷な試練も、もうすぐ終わる。
このまま生き続けるよりはいいのかもしれない。
死ねば、この苦しみから解放される。
それも悪くないじゃないか。
アルゴは絶望の中で、絶望の終焉という希望を見たのであった。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
冒険者二人とアルゴと謎の魔族の子供は、森の中で小休憩を取っていた。
冒険者二人は革袋に入った水を飲み、干し肉を齧っている。
当然ながら、アルゴと魔族の子供に水と食料が施されることはない。
アルゴは冒険者二人の背中を見つめていた。
アルゴの左腕には、相変わらず縄が括りつけられている。
その縄の先は、坊主頭の冒険者の左腕に結ばれている。
そして魔族の子供は両腕を縛られていた。
両手首を縄で縛られ、その縄の先は長髪の冒険者の右手へと。
「久々のダンジョンだ。しっかり稼ごうや」
「ああ、そうだな。このガキどもが居るからな。多少深く潜っても大丈夫だろう」
冒険者二人が下卑た笑い声を上げて会話をしている。
「だな! 奴隷なんてよお、どうせ碌な人生じゃねえんだ。なら、せいぜい俺たちのために、華々しく死んでくれよなあ!」
坊主頭がアルゴの方へ顔を向け、唾を飛ばしながらそう言った。
アルゴはそれに反応することはしなかったが、内心、坊主頭の言う事にも一理あると思った。
どうせ碌な人生じゃない。その通りだった。
「おいおい、ジョセフ! そこまで言うか! 可哀想じゃねえかよ!」
長髪の男がそう言って、大口を上げて笑い始めた。
その言葉とは裏腹に、心底楽しそうに。
「かははッ! でもよお、ハンク。この世の中、強い奴が生き残るんだ! 俺たちは強い! だから生き残る! それだけさ!」
坊主頭のジョセフ。長髪のハンク。
二人は楽しそうに笑い始めた。しらふだというのに、まるで酒に酔っているかのようだった。
その時、アルゴは目の端で捉えた。
今まで静かにしていた魔族の子供が、ゆっくりと動き始めたのだ。
ゆっくりと、冒険者二人に気付かれぬように。
冒険者二人は、こちらに背を向けた状態で、尚かつ会話が白熱しており、魔族の子供が動いたことには気付いていないようだ。
アルゴは固唾を呑んで魔族の子供の様子を見続けた。
ここでアルゴが声を上げれば、魔族の子供の企みが冒険者に気付かれてしまうだろう。
アルゴには魔族の子供が何をしようとしているのか分かった。
長髪の冒険者ハンクの腰に装備してある短剣。
魔族の子供は、その短剣を奪うつもりのようだ。
つまりは、魔族の子供はこの場から逃げ出そうとしている。
音を立てずゆっくりと忍び寄り、手を伸ばせば短剣を奪える距離まで近づいた。
魔族の子供はそろりと手を伸ばし、短剣の柄を掴もうとする。
「―――と、そこまでだ、ガキ」
そう言って、ハンクが魔族の子供の腕を掴んだ。
ハンクに気付かれてしまった。
ハンクは眉間に皺を寄せ、小さく呟いた。
「ガキだからって舐めてたぜ」
そして、怒声を張り上げて右拳を突き出した。
「クソガキがあッ!」
ハンクの右拳は魔族の子供の腹に命中。
魔族の子供は吹き飛んだ。
土の上を転がり、魔族の子供は倒れ込んだ。
魔族の子供は腹を押さえ、激しく咳き込んでいる。
もろに拳を喰らい、立ち上がれないのだ。
「おい、ガキ。これで終わると思うな」
ハンクは倒れ込む魔族の子供に近付き、自分の右脚を上げた。
ハンクの右脚が魔族の子供の背中に振り下ろされるその時、アルゴは動いた。
「―――ぐッ!」
アルゴが呻き声を上げた。
ハンクの右脚はアルゴの背中に命中。
アルゴが魔族の子供を庇ったのだ。
「ああん? 何してんだてめえ?」
ハンクは怒りを露わにして、アルゴの顎先を蹴り上げた。
「―――がはッ!」
アルゴは大きく仰け反り、背中から倒れ込む。
そのアルゴの様子を見て、ハンクは唾を吐いた。
「ペッ! 邪魔すんじゃねえ。俺はこっちのガキをいたぶらなきゃ―――」
ハンクの言葉が途中で止まった。
ハンクは見たのだ。
地面に倒れ込む魔族の子供。その子供の顔を。
フードが外れ、魔族の子供の顔が露わになる。
長い水色の髪だった。瞳は宝石の如く輝く紫。
性別が明らかになった。性別は女。
その少女の容姿は息を呑むほどに美しかった。
ハンクはしゃがみ込んで魔族の少女の顎を持ち上げる。
「へえ……。魔族のガキには興味なかったからよう、ちゃんと面を見てなかったが……。ククッ、これはこれは」
ハンクは厭らしい笑みを浮かべて魔族の少女を品定めしている。
「これだけ上玉なら、囮に使うのは惜しいか……。まだガキだが、あと数年もすりゃあ……。とりあえず、ボロを引ん剝いて状態を確認してみるか」
そう呟くハンクの様子にジョセフは声を上げる。
「おいハンク、本気か? 魔族の肌を見ると穢れると聞くぞ」
「うるせえ。お前は黙ってろ」
「やれやれ……」
ハンクは魔族の少女の腕を掴み、無理やり仰向けに寝かせた。
アルゴは悲鳴を上げる体を無理やり動かした。
地面を這いつくばり、ハンクの足首を掴んだ。
「やめ……ろ」
「なんだてめえ?」
ハンクは苛立たし気な声を上げて、アルゴの顔面を殴りつけた。
アルゴは鼻の骨が折れる音を聞いた。
鼻血が噴き出し、脳が大きく揺れた。
それでも、アルゴはハンクの足首を握り続けていた。
「このッ! 放せや!」
ハンクは怒声を上げ、アルゴの顔面を殴り続ける。
しかし、アルゴは決して手を放さなかった。
「はぁ……はぁ……てめえ、どうしてそこまで……」
ハンクが息を乱し、目を見開いてアルゴを見つめている。
そのハンク表情には、不可解の色が浮かんでいる。
先程のハンクの問い。どうしてそこまで。
自分でも分からなかった。
確かに、何で俺は殴られ続けているのだろう。
何故、痛みに耐え、必死に抗っているのだろう。
痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。
だったら何故。
ふいに視線を感じ、その方向へ目を向ける。
魔族の少女の紫の瞳が、こちらを見ていた。
美しい宝石のような輝きだった。
その瞬間、アルゴの疑問は氷解した。
まあ、いいか。
あれほど美しいものを守れるのなら、多少の痛みはどうだっていい。
「ちっ!」
ハンクの舌打ちが聞こえた。
ハンクは立ち上がり、罵声を吐いた。
「てめえのせいで興が削がれた」
ハンクはそう言って、体を翻してジョセフの傍らへと歩き出した。
諦めてくれたか、とアルゴは胸を撫でおろした。
そして気付いた。
紫の瞳が、こちらを見続けていることに。