183.戯言
作戦会議が終了した。
アルゴは自室に戻るため、ヴェラトス砦内の通路を歩いていた。
混成軍に於けるアルゴの地位は、明確に定まっていない。
アルゴは軍の指揮系統には組み込まれていないし、そもそもの話、軍属ではない。
飽くまで盟主の騎士であり、アルゴに命令できるのは盟主のみ。
混成軍の者たちは、そういった認識を持っている。
しかし、盟主の騎士であるからには敬意を払うべき存在であるため、アルゴは一般兵に比べて優遇されていた。
自室を与えられているのは、そう言った理由があるからだ。
自室には簡素なベッドと机と椅子があるだけだが、アルゴはそれで満足だった。
「部屋に戻ったら、少し勉強だな……」
アルゴは最近になって勉強を始めていた。
計算、歴史、軍事に関することなど、学ぶべきことは多い。
全てはこの戦に勝つため。
できることは全てやるつもりだった。
「感心じゃのう、坊や」
艶やかな声が後ろから聞こえた。
それが誰であるのかは明白だった。
「ミレト様……」
ミレトはアルゴへと近付いて、指先をアルゴの頬に添えた。
「様、なんてよしてくりゃれ。妾と坊やの仲じゃないかえ。呼び捨てでも構わんぞ?」
「い、いえ……そういうわけには」
「フフフフッ。可愛いのう、坊やは」
「そ、それで、何か用でしょうか?」
「なんじゃ、用がないと駄目なのかえ?」
「そんなことは……ないですが」
「ああそうじゃ、勉強じゃったな。どれ、妾が勉強を見てやろうか?」
「え、でも……」
「遠慮するな。妾は暇なのじゃ。それに、妾は高度な教育を受けておるからのう。多少は教えられると思うぞ?」
「いや、でも、メガラに怒られますので……」
ミレトは溜息を吐いて首を振った。
「盟主様のう……。盟主様と言えば、さっきのあれは何じゃ。坊やが前線に出るというのに、労いの言葉もないとはのう。相変わらず冷徹じゃ、あのお方は」
「それは……違います。メガラは、冷徹なんかじゃないです」
「そうかえ? 妾には、そうは思えんがのう。坊や、妾ならば、温もりを与えてやることができるぞ。温かくて、まどろむような……本当の温もりをのう」
耳元で囁くように言うミレト。
それは甘い囁き。
甘く危険な悪魔の囁きだ。
その時だ。
その囁きを断ち切る声が聞こえた。
「余は言ったはずだぞ、ミレト。余の騎士に触れるなと」
アルゴとミレトの背後に現れたメガラ。
メガラの声は静かだった。
だがメガラの表情には、明確な怒りの感情が浮かんでいる。
ミレトは、咄嗟にアルゴから離れた。
「これはこれは、盟主様」
「ミレト、何か申し開きがあるか?」
「いいえ。特には」
「……あまり余を舐めるなよ、小娘」
鋭い刃を突きつけられたような嫌な感覚。
それをミレトは明確に感じた。
メガラが放つ怒気には、強い殺気が込められていた。
ミレトは観念して頭を深く下げた。
「申し訳ありません、盟主様。妾の不徳の致すところじゃ」
メガラは、そのミレトの姿を見て少しだけ殺気を抑えた。
「次はないと思え。分かったなら去れ」
ミレトは、また頭を下げて足早に退散する。
ミレトが姿を消して数秒後、アルゴはポツリと言う。
「ごめん……メガラ」
「何を謝る?」
「いや……その……なんだろう……」
メガラは、少し表情を緩めて言う。
「いや、謝るのは余の方だな。ミレトに言われただろう? 自分の騎士に対して、あんまりな態度だとな」
「それは……」
「アルゴ、余はどうかしているのだ」
「そ、そんなことはないよ! 俺はメガラが冷たいなんて思ってない! 俺たちの間に、もう余計な言葉はいらない。それぐらいは分かってるから!」
「違うのだ。どうかしていると言ったのはな、そういう意味ではないのだ」
「どういう……こと?」
「ネロの言う通り、お前は最高の戦士だ。ゆえに、最も危険で最も重要な役目をお前は担うべきだ。それは、その通りなのだ……。だが……」
「……」
「だが……お前に行って欲しくない。お前に……死んで欲しくないから……」
「メガラ……」
「だから、余はどうかしている。多くの兵士が命を懸けているというのに、余は我が騎士可愛さに、お前が戦場にいくことを否定しようとしている。そんなものは、上に立つ者が考えていいことではない。余は……おかしいのだ。おかしくなってしまったのだ……」
それを聞いて、アルゴは膝を曲げてメガラの体をそっと抱きしめた。
「違うよ。おかしくなんてない」
優しく声を掛けるアルゴ。
そこでアルゴは気付いた。
メガラの体が、わずかに震えていることに。
「余は……余は怖いのだ。大切な者たちが……居なくなってしまうことが。サラミス……アトロン……スキュロス……。皆……逝ってしまった。アルゴ……お前まで居なくなってしまったら……余は……」
「大丈夫。俺は死なない。俺は居なくなったりしない」
メガラはアルゴを強く抱きしめ返した。
「一度だけ……戯言を言ってもいいか?」
「いいよ」
「今から言う事は、聞かなかったことにしてくれ。だから……返事はしなくていい……」
「……」
「アルゴ、余と共に……ここから離れよう。全てを忘れて、どこか遠くへ行こう。誰にも邪魔をされないような静かな場所で……慎ましく、穏やかに……暮らそう」
メガラの体を抱きしめながら、アルゴは思った。
メガラが本当に、心の底から望むのならば、その提案をすぐに実行してもいいと思った。
だが、メガラにはやらなければならないことがある。
ここで投げ出したら、全てが無意味となってしまう。
戦死していった兵士たち。苦しみ続ける奴隷たち。
レイネシアとカーミラから奪ったもの。その罪を。
それらを放り出すことはできない。
だから、ここでやるべきことは、メガラと一緒に逃げ出すことじゃない。
本当にやるべきことは、メガラと共に戦い続けることだ。
アルゴは、それを強く心に誓った。




