173.ほんの少しの
よく生きていてくれた。
もう大丈夫だ。お前の安全は、余が保障する。
そして、すまない。お前の家族を救うことはできなかった。
それは余のせいだ。余が愚かであったからだ。
奴らの動きを察知することが遅れてしまったのだ。
……すまない。全て言い訳だ。
許せとは言わん。余のことを恨んでも構わない。
だが生きろ。これから様々な苦痛がお前を襲うだろう。
だがそれでも、生きるのだ。
辛くとも、苦しくとも、お前は生きなければならん。
よいな?
「盟主……さま……?」
リリアナは、闇の中で主の声を聞いた。
それは、もう随分と過去の記憶だ。
子供の頃、無力だった自分の、闇の中で強烈に輝く黄金の記憶だ。
リリアナは薄く目を開けた。
そして、己の状態を確認する。
自分は今、うつ伏せで床に倒れている。
体は……動かない。
辛うじて指先だけは動く。
呼吸を整えながら、もう一度体に命令を送る。
指先、前腕、二の腕、肩。
順番に動かしていく。
動く。この調子なら、まだ戦える。
やるべきことがある。
意識はハッキリとしている。直前の記憶もある。
神ベリアルに操られ、クロエと戦わされていた。
おぼろげながら、その記憶が残っている。
この場にその二人は居ない。
決着がついたとは思えない。
この広間から出て、通路で交戦中なのだろう。
自分もいかなければならない。
無論、クロエに加勢するためだ。
そう強く意を決するが、異常が起きた。
背筋に悪寒が走る。
感覚で分かった。
再び、体の制御が奪われようとしている。
ベリアルの影響は、まだ生きているらしい。
このままでは、また操り人形となってしまう。
「まずい……ですね。このままでは……」
その時、ベリアルの言葉が頭によぎった。
信仰するのはどの神でもいいんだ。アンジェラでも、ルキフェルでも、誰でもいいんだ。
そうすれば加護が得られるはずなんだ。悪いものから身を守ってくれる加護がね。
「私に信仰心があれば、こうはならなかったと……そう仰るのですね」
リリアナは拳を握りしめる。
湧き上がるのは、怒り。
煮えたぎるような強い憤怒。
「ふざけるなあッ! 私の信仰心を、舐めるなよ!」
リリアナは誰よりも信じている。
自らの神のことを。深く深く、信じていた。
「ああああああああああッ!」
リリアナは頭部を床にぶつけた。
勢いよく、何度も。
痛みが悪いものを遠ざける。
ベリアルの影響を己から追い出す。
だがそれは、一時的なものにすぎない。
またすぐにベリアルの影響に囚われてしまう。
だからリリアナは決めた。
中途半端な痛みでは駄目だ。
リリアナは息を吸い込んで、思いっきり吐き出した。
「あああああああああああああああああッ!」
再び、頭部を床にぶつけ始める。
何度もぶつけ、やがて何かが罅割れる音が聞こえた。
それは、頭部から生えた右側のツノが割れる音だった。
リリアナは、それでも頭を床にぶつけ続ける。
正確には、ツノを床にぶつけ続ける。
そして、とうとうツノが折れてしまった。
リリアナはそのツノを握り、寝返りをうって仰向けとなった。
「私の神よ……加護は要りません。私に、ほんの少しの……勇気を」
静かに祈りを捧げ、リリアナはツノを自分の腹に突き刺した。
先の尖ったツノが、腹の中心を貫く。
「ぐああああああああッ!」
激しい痛み。脳が焼き切れるような激痛。
だがその痛みこそが、リリアナの求めていたものだった。
痛みが、体の制御を奪い返してくれた。
リリアナは、ゆっくりと立ち上がった。
口から大量の血を流しながら、リリアナは言う。
「いま……いきます……」




