167.前夜
クロエが調合した痛み止めの効果は抜群だった。
苦味の強い粉薬だったが、その効果はすぐに表れた。
「すごい。全然痛くない……」
「治ったわけじゃないから、そこは勘違いしないことニャ」
「はい。ありがとうございます」
ベリアル城。
個室のベッドの上で、アルゴはクロエから治療を受けた。
塗り薬を傷口に塗られ、痛み止めと治癒力が上昇する薬を処方された。
アルゴは自分の左脇腹にそっと手を添える。
これなら戦える。
と胸を撫でおろした。
明日はベリアルと戦わなければならない。
左脇腹を負傷した状態で十全に戦えるのか内心不安だったが、これなら心配なさそうだ。
「クロエさんって、本当に薬師だったんですね」
「むう。本当にってなにニャ」
クロエはふくれっつらでアルゴの頬をつねった。
「クロエは腕のいい薬師だニャ」
「じょ、じょうだんべす。ごべんばざい……」
「よろしい」
頬が解放され、アルゴは改めて礼を述べる。
「クロエさん、本当にありがとうございます」
「これぐらいどうってことないニャ。何度も言うけど、一時的に痛みが緩和してるだけだニャ。その怪我が完治するには、あと数日は必要だニャ」
「分かってます。でも助かります」
「本当は、その状態のアルくんには戦って欲しくないニャ。けど、相手は神。と名乗る得体の知れない人物。アルくんの強さに頼らざるを得ない……」
「大丈夫です。明日はすぐにケリをつけます。だから、怪我が悪化することはありません」
「……頼もしいニャ」
クロエは微笑みながらアルゴの頭をそっと撫でる。
「本当にいい子だニャ」
クロエの優しさと温かさに触れて、心が満たされる。
と同時に、照れ臭さが込み上げる。
「……恥ずかしい……です」
素直にそう言うと、クロエの口角が上がった。
「本当に可愛いニャ」
「……」
アルゴは何も返せなかった。
くすぐったいやら心地いいやら、様々な感情が湧いてくる。
ただ一つ言えるのは、クロエの優しい笑みに魅せられた。
それはもしかしたら、あらゆる怪我や病の特効薬なのかもしれない。
だからアルゴは強く誓う。
明日は絶対に勝つ。絶対に。
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真夜中。
ベリアル城の個室にて。
アルゴはベッドの上で薄く目を開けた。
個室を出て、薄暗い通路を歩く。
静けさに満ちた城内。
人の気配はまったくない。
だがそれでも、アルゴは探し続けた。
探し続けて、やがて足を止めた。
アルゴはその場所を礼拝堂だと思った。
静謐で神聖な空気が満ちる場所。
祈りの場所であることは間違いないだろう。
礼拝堂の奥には石像が設置されていた。
背中から翼をはやした美しい女の石像。
女神アンジェラの石像だ。
意外に思った。
この城には無数に石像が置かれているが、どれもベリアルの石像だ。
だがこの石像だけは違う。
これは女神アンジェラの石像。
違和感と言う他ない。
それを不思議に思いつつ、石像から視線をズラす。
長椅子に腰かける女の後ろ姿が見えた。
薄紅色の髪と二本のツノ。
リリアナ・ラヴィチェスカだ。
「探しました」
とアルゴは声を掛けた。
リリアナはそれに返事をせず、石像を見つめ続ける。
しばらくの静寂があり、リリアナは静かに声を発した。
「私たちは、何故祈るのでしょう?」
「……え?」
「何故祈らずにはいられないのでしょう。その祈りが、届くことはないと知っているのに。何故だと思いますか?」
リリアナに顔を向けられ、アルゴは息を呑んだ。
リリアナのことを美しいと思った。
いつもより硬さがとれた表情。
どこか憂いを帯びた顔は、リリアナの美しさを際立出せていた。
リリアナはそれ以上何も言わなかった。
リリアナはアルゴの返事を待っている。
「それは……弱いからだと思います」
「弱い?」
「はい。俺たちは弱い生き物です。それなのに、この世界は大きすぎる。この世界には沢山の悪いことがあって、数えきれないほどの恐怖があります。怖すぎてなにもできなくなります。それは、俺たちが弱いからです。だから……祈るんだと思います。祈ることで神に……何か大きな存在に弱さを預けるんです。そうじゃなきゃ、踏み出せないから……」
アルゴの答えを聞いて、リリアナは僅かに驚いたような表情をした。
「……面白い考えです。それもまた、一つの答えなのでしょう」
「リリアナさんは……何故だと思いますか?」
「私はその答えを持ちません」
「え?」
「私は祈りません。その必要がないからです。私の神は現世におります。ですから、神に捧げるのは祈りではなく、忠誠と忠義です」
リリアナにとっての神。
それが誰であるのか、アルゴはすでに知っている。
リリアナは軽く溜息を吐いて言葉を続ける。
「ですが、その神は一度この世を去られた。あの時は……深く絶望したものです。しかし、私の神は不滅でした。神は……奇跡を用いて再臨なされた。そしてそのお姿を私に見せてくださった。まさに神の御業。そのような存在を神と呼ばずして何と呼ぶのでしょう?」
「……」
「語りすぎてしまいましたね。私に用があったのでしょう? お聞きします」
「……はい。クロエさんのことで……」
アルゴはリリアナに語った。
クロエに怪我のことがバレてしまったと。
怪我を負わせた人物が誰なのか、それをクロエに知られてしまったと。
アルゴの話を聞いて、リリアナはゆっくりと立ち上がった。
そして、胸に手を当てて僅かに頭を下げた。
「貴方の怪我について、改めて謝罪をします。あの時の私は冷静ではなかった。申し訳ありませんでした」
「いえ、気にする必要は……と言いたいところですけど、その謝罪は受け取っておきます。明日はクロエさんのことを刺激せず、うまく立ち回ってください」
「……了解しました」
「じゃ、じゃあ……伝えたいことは伝えましたので」
「はい」
アルゴはリリアナに別れを告げて歩き出した。
だが、数歩進んで足を止めた。
「ここを出れたら、話をしませんか?」
首を傾げるリリアナにアルゴは続ける。
「お互い、わだかまりがあると思います。リリアナさんが俺を……人族を嫌っていることは分かっていますが、ここを出たら顔を突き合わせて話をしましょう。全部、吐き出しましょう。暴力はナシです。言葉のみで。どうでしょう?」
「……何故でしょう? 私は貴方に暴力を振るったのですよ? そんな私と……何故?」
「多分……俺たちは似ています。俺とリリアナさんは同じものを見ている。だから、リリアナさんのことを嫌いになれません。仲良く……したいです」
少し照れながら言うアルゴの瞳は、純粋な光を宿していた。
「……フフッ」
リリアナは笑みをこぼした。
そして、僅かに笑みを浮かべながら言う。
「なんだか毒気を抜かれてしまいますね。いいでしょう。ここを出たら……是非」
「約束……ですよ?」
「はい。約束です」




