166.風呂場
石の壁に石の床。
広さは十五メートル四方といったところか。
中央には円型の窪み。
その円の窪みは、お湯で満たされていた。
アルゴはまず、右足を湯船に付けた。
熱い。
熱さに驚いて足を引っ込めるが、また足を付ける。
次は引っ込めなかった。
そのまま太腿、腰、腹の順に湯船につかる。
今まで湯舟につかるという経験をしたことがなかった。
そういった習慣はなかった。
それに、湯舟にお湯を溜めるという行為は手間がかかる。
自分の知る限り、庶民にそのような習慣はない。
初めての経験。
最初こそお湯の熱さに戸惑ったが、そんなものはすぐに吹き飛んでしまった。
「なんだこれ……最高じゃないか」
訪れる幸福感。
全身が温まり、筋肉がほぐれるような感覚。
体に溜まったよくない物が、外に排出される感覚。
あらゆる負の感情が吹き飛び、天に昇るような感覚。
「これはたまらん……」
ここは風呂場。
この風呂場はベリアル城の内部に存在する。
どこから水を引っ張ってきたのか、どうやって温めているのか、そういったことに突っ込むのは無駄というものだろう。
ここは神の居城。
全ては城主の思い通りになる。
ベリアルの好意で風呂場を利用させてもらっている。
ベリアルには感謝するべきだろう。
あとでちゃんと礼を言おう。
と思った時だった。
この風呂場と脱衣所を隔てる扉が開いた。
そして、何者かが近付いてくる気配。
湯気が漂う風呂場でアルゴは目を細める。
誰だ?
と疑問に思った直後、アルゴは慌てて声を上げた。
「ク、クロエさん!?」
クロエだ。
クロエが風呂場に入ってきた。
クロエは薄着ではあるが衣服を纏っている。
しかし、風呂場の水分により衣服が体に密着し、クロエの体型を浮かび上がらせていた。
クロエは小柄で細身だが、出るところは出ている。
それは成熟と言うには物足りないのかもしれない。
だがそれは、男を魅了するには十分と言える。
「ちょ、ちょちょちょッ! なんで入ってきてるんですか!? 今は男湯の時間ですよ!?」
叫ぶように声を荒げるが、クロエは動じない。
クロエは、どこか覚悟を決めたような顔で湯舟に突き進む。
「クロエさんクロエさんクロエさん! なにしてるんですか!」
クロエはアルゴの叫びを無視し、両足を湯舟に入れた。
そしてアルゴの左手を掴んだ。
「クロエさん! お願いですから正気に戻ってください! どういうことか説明を―――」
アルゴは途中で言葉を止めた。
クロエの目的を理解したから。
クロエの視線がある一点で止まっている。
それはアルゴの左脇腹。
青黒く変色しており、明らかに正常ではない。
怪我を負った左脇腹だ。
「やっぱり。変だと思ったのニャ……」
「クロエさん……」
「この怪我、どうしたのニャ?」
「それは……」
クロエは数秒間アルゴの目を見つめ、スッと目を細めた。
「あの女か」
そう呟き、クロエは身を翻した。
全身から殺気を放つクロエをアルゴは止めた。
後ろからクロエを羽交い絞めにする。
「クロエさん! 駄目ですってば! 俺なら大丈夫ですから! 落ち着いてください!」
「離すニャ、アルくん! クロエは許せないニャ! クロエのアルくんに怪我を負わせた以上、あの女は敵だニャ! だったら、あの女を殺さなきゃ!」
「駄目ですってば!」
「離すニャ!」
「嫌です!」
アルゴはこの時、クロエを説得することを諦めた。
リリアナという戦力を失うのは困る。
だから殺しては駄目だ。
など、色々と言葉は浮かんだが、もう何を言っても無駄だと思った。
だからアルゴは言葉ではなく、肉体を使った。
全ての力を注いでクロエを止めた。
飛び出そうとするクロエを後ろから羽交い絞めにし、鉄の意思をもって決して離さなかった。
それから約十分が経過した。
「はぁ……はぁ……アルくん、しつこい……ニャ」
「は……はい……すみませ……ん。だけど、絶対に離しません……」
更に五分が経過した時、ようやくクロエが音を上げた。
「わ、わかったニャ。クロエの負け……だニャ」
「本当……ですか? 俺が手を放したら……リリアナさんのところへ……飛んで行ったりしませんか?」
「しないニャ。約束する……ニャ。だから、もう……」
「もう二度と……リリアナさんを殺そうとしない。そう……言ってください」
「……」
「言うまで……離しません。絶対に……離しませんから」
「……もう二度と……リリちゃんを殺そうと……しない……ニャ」
それを聞いてアルゴは、勢いよく息を吐いた。
そして、クロエを開放した。
「はぁ……はぁ……つか……れた」
「クロエも……もう無理……」
アルゴとクロエは、脱力して浴槽の壁にもたれかかった。
二人とも疲労困憊。体力と気力はほぼゼロだった。
息を整えながらアルゴはクロエに念押しをする。
「クロエさん、約束……ですからね」
「わ、分かってる……ニャ」
そう言ってクロエは、おもむろに服を脱ぎ始めた。
「な、なんで脱いでるんですか!?」
なけなしの体力を振り絞って叫ぶアルゴに、クロエは冷静に返事をする。
「もうびしょびしょだニャ。疲れたからここで休んでいくニャ。なにかおかしいかニャ?」
「お、おかしいですよ!」
「別に……見たかったら見てもいいニャ。アルくんになら見られてもいいニャ。というか、お互い様だと思うけどニャ」
そう言われ、アルゴは自分の状態を再認識した。
ここは風呂場であり、それは当然のことだ。
だが、必死過ぎで頭から消え去っていた。
今アルゴは、己の全てをクロエにさらけ出している。
「あ……」
アルゴは慌ててクロエに背を向けた。
アルゴの顔が赤くなっていく。
「あとで傷の手当てをするから、そのつもりでいてニャ」
「はい……」




