159.砂漠の夜
砂漠の夜は冷えると聞いた。
これはクロエの知識だ。
だからアルゴは身構えていた。
震えるほど寒くなると聞いて、不安だったのだ。
だが、実際に夜になってみると、その不安は消え去った。
寒くないのだ。
暑くもなく寒くもない。丁度良い気温。と言っていいだろう。
不思議だったが、これは嬉しい誤算。
おそらくこれは、ここがダンジョンであることと無関係ではないだろう。
地上の理屈はダンジョンには適用されない。
多分そういうことだ。
今日、日が落ちるまで水晶の探索を続けたが、結局見つからなかった。
何の成果も上げられなかった。砂の大地をただ歩いていただけ。
アルゴたちは今、オアシスで休息を取っていた。
当然ながら、クロエとリリアナの関係は依然として険悪。
クロエとリリアナは、それぞれ遠く離れた位置に腰を下ろし、お互いに顔を合わせないようにしている。
アルゴは、クロエの傍に居る。
アルゴはふと空を見上げた。
空には、一面に輝く星々。
それはまるで、輝く大河のようだった。
綺麗だな。
と心から思った。
それと同時に思う。
そう言えば、地上では夜空を見上げることはあまりなかったな。
地上の夜空も、こんな風に綺麗だっただろうか。
勿体ないことをしていたと思った。
思えば、下を見ることの方が多かったような気がする。
そういう人生だったような気もする。
上を見ることを、無意識に避けていたのかもしれない。
と、妙に感傷的になりながら、アルゴはクロエの寝息を聞いていた。
このダンジョンに魔物はいない。少なくとも今まではそうだった。
だから見張りは不要に思えたが、それでも最低限の警戒はするべきだろう。
というわけで、アルゴとクロエは交替で見張りと睡眠を行うと決めた。
猫のように体を丸めて眠るクロエの様子を確認し、アルゴは軽く息を吐いた。
それからアルゴは、静かに腰を上げた。
クロエに無断でこの場から離れるのは、クロエを裏切る行為に等しいのかもしれない。
それでもアルゴは、この場から離れることを決めた。
今しかないと思ったからだ。
出来るだけ音を立てないように歩き出し、砂の上を進む。
夜の闇に紛れるように静かに歩く。
そして、アルゴは辿り着いた。
「何か御用ですか?」
リリアナにそう尋ねられ、アルゴは答えに窮する。
予想していたことだが、リリアナの態度はとても冷たかった。
「寝なくても……いいんですか?」
リリアナの質問には答えず、アルゴはそう尋ね返した。
「問題ありません。数日眠らなかったとて、どうということはない。私は、そういう訓練を積んできましたから」
「それはすごい……ですね」
「それで、何の用なんです?」
「はい……。クロエさんと、冷静になって話をしてみてくれませんか? きっと、二人はほんの少し掛け違っただけ。話し合えば、分かり合えるはずなんです」
「それは無意味でしょう」
「何故ですか?」
「私の意識が変わることはないからです。私は人族を恨んでいる。ええ、分かっていますとも。私の家族を殺した人族は、貴方ではない。あの人族らと、貴方は関係がない。貴方を恨むのはお門違いだ。それは分かっているのですよ。ですが、簡単に割り切れるのならば、それはもう私ではない。自分でも不器用で愚かだと思います。それでも、それが私なのです」
「それは……分かります。でも……」
言葉に詰まるアルゴを見て、リリアナは軽く溜息を吐いた。
少しだけ肩の力を抜いてリリアナは言う。
「白状しましょう。私がこの任務に志願した理由は、二つあります」
「二つ?」
「はい。一つは、盟主様のお役に立ちたかったから。私にとって盟主様は神に等しい存在です。私は子供の頃、故郷を人族の軍に襲われました。人族は殺戮の限りを尽くし、私の目の前で私の家族を殺したのです。その光景を、その時に感じた恐怖と憎悪を、私は今でも忘れません」
「……」
「その時、何かが一つでも狂っていれば、私も殺されていたでしょう。ですが運命は私を助けた。疾風のように現れた魔族の軍が、人族の軍を撃退したのです。そのお陰で私は助かった。ですがその時、幼い私の心は死にました。肉体は無事でも、精神は無事ではありませんでした」
「そんなことが……」
「それから私は、安全な場所に避難させられました。避難先では、私と同じような境遇の子供たちが大勢いました。そこで私は子供ながらに、何だこの地獄は、と思ったものです。しかし、その場所で私は拝謁を賜ったのです。偉大なる魔族の盟主様。メガラ・エウクレイア様に。盟主様は小汚い私の姿を見ても、嫌な顔一つしませんでした。それどころか、慈愛の心をもって私を抱きしめてくださった。あの時の……あの瞬間の温かさを私は忘れません。ですから私は、私を救ってくださった盟主様のために戦うのです」
リリアナは間を置いて続きを言う。
「二つ目の理由を言いましょう。偉大なる盟主様の騎士、アルゴと言う少年のことを見定めるためです」
「俺の?」
「ええ。貴方が盟主様の騎士として相応しいかどうか、この目で見極めようと思ったのです。もし相応しくないと判断すれば、即座に叩き潰すつもりでした。ですが……」
「ですが……?」
「認めましょう。貴方は強い。バルナバルさんとの決闘で見せた貴方の強さは本物でした。その強さは、盟主様のために使われるべきでしょう。ですから、貴方が騎士であることは認めざるを得ない、ということです」
「ありがとう……ございます」
「勘違いしないでください。私は貴方の強さは認めていますが、貴方を信頼しているわけではない。もし盟主様を裏切るようなことがあれば、私は自らの命を賭して貴方に罰を下します。貴方がどれだけ強かろうと、私はやります」
「俺は……強くありません」
「強くない? その謙遜は不可解を通り越して不愉快ですね」
「いいえ。謙遜じゃないんです。確かに俺は、戦うことは人よりも得意です。でも、こんなもの……強さなんかじゃない。こんな強さ、何の意味もない。こんな強さがあったって、俺はクロエさんとリリアナさんの仲を取り持つことさえできない。水晶を見つけることだってできない。一人では何もできない。食料を確保するのも、地図を読むのも、作戦を考えるのだって、どれ一つ満足にできないんです」
「……」
「でも俺は、本当に強い人を知っています。その人は諦めなかった。戦争で負けても、国がなくなっても、体が子供になったって諦めなかった。そんなのは、俺には無理だ。もしそれが俺なら、俺は何もできなかった。何かをしようとも思わない。だから、その人こそ本当に強い人です。その人こそ……」
その時、リリアナが小さく何かを言った。
「……め……さい」
「え?」
「それ以上はやめなさい」
「なぜ……でしょうか? 俺が言いたいことは、あの人の力になりたいということです。その点に関しては、リリアナさんと同じ気持ちです。だから、一刻も早くダンジョン攻略を済ませないといけません。俺は、俺の大切なメガラに―――」
「それ以上は言うなと言った! 卑劣な人族が! その口で、私の神を語るな! 私の神の名を―――!」
その瞬間、リリアナは己の衝動を抑えきれなかった。
どす黒い何かに突き動かされ、リリアナは武器を振るう。
メイスによる暴力がアルゴを襲う。
「―――がッ!」
金属の塊がアルゴの左脇腹に衝突した。
耐えがたい痛みに襲われ、アルゴは目を剥いた。
押し出されるように体が吹き飛び、アルゴは砂の上を転がる。
リリアナは、自分自身の行動に驚いていた。
抗えない感情によって、暴力を振るってしまった。
何と言う事だ。自分を抑えることができなかった。軍人失格だ。
リリアナは、メイスから手を放し、立ち尽くしてしまう。
「ああ……私は何ということを。ついにやってしまった……」
その時、アルゴの呻く声が聞こえた。
「うっ……くっ……」
その呻きを聞いて、リリアナは慌ててアルゴに駆け寄った。
「アルゴさん! ああ……私は何て愚かなことを! 私は何を!?」
動揺を隠せないリリアナに、アルゴは苦し気に言葉を返した。
「だ、大丈夫……です。うまく力を逃がしましたから、それほどダメージはないです……」
「い、いま傷の確認を!」
リリアナは、アルゴの上着をめくり状態を確かめる。
メイスが直撃した箇所は青黒く変色していたが、損傷は軽度に見える。
触診した結果、内臓の機能は正常。骨も無事。のように思う。
ただこれは、リリアナの経験から導き出されたもの。
リリアナは医療に通じているわけでもないし、回復魔術を使う事もできない。
すぐさまその道の者に診てもらわなければならないだろう。
「本当に……大丈夫ですから。少し休んだら、また動けますから……」
「何故……なのでしょう?」
「何故?」
「何故、避けなかったのですか? 貴方なら、それができたはずです。私の攻撃を躱すことぐらい、何でもなかったはずです……」
「それは……」
アルゴは痛みを堪え、僅かに笑みを浮かべた。
「分かりません」
「は?」
「俺にも、分かりません。だけど、何故か避けちゃいけないような気がしました。リリアナさんの怒りを……受け止めないといけないような気が……しました」
「理解不能……であります……」
「はい……」
アルゴは脇腹を抑えて立ち上がった。
「う、動いてはいけません! 安静にしていないと!」
「大丈夫です。それに、クロエさんが起きた時に俺が居なかったら、不味いです。色々と」
「で、ですが!」
「分かっているとは思いますが、このことは、クロエさんには内緒にしてください……」
アルゴは、よろよろと歩き出した。
「お願い……しますね?」
覚束ない足取りで、この場を去っていくアルゴ。
リリアナは、何も言う事ができなかった。
ただ、アルゴの背中を見つめ続けることしかできなかった。




