144.出立
三日後。
アルゴとメガラは、クロノア領主の館から少し離れた場所にいた。
曇り空。
イオニア山脈から吹く風に煽られながら、アルゴとメガラは足を進めていた。
ここはイオニア連邦南部地域のクロノア。
クロノアの町は、あまり大きくない。
大都市に住む者がこの町を訪れたのならば、地方の田舎町という評価が下されるだろう。
「あそこだな」
指をさしてメガラがそう言った。
メガラの視線の先には、大きな建物があった。
白い壁に灰色の屋根。
二階建ての建物。
クロノア領主の館より少し小さいが、この町では最大級の大きさ。
建物の前に辿り着き、メガラは扉を開けた。
すると、四十代ぐらいの人族の女に出迎えられた。
「盟主様と、その従者の方ですね?」
「そうだ」
「お待ちしておりました。こちらへ」
女に案内され、アルゴとメガラは奥へ進む。
奥は仕切りの無い大部屋となっていた。
大部屋には、ベッドが複数並べられている。
ベッドの数は五十以上。
埋まっているベッドもあれば、空いているベッドもあった。
ベッドの上で眠っている者たちがいる。
その者たちは、健常者とはいえない。
ここは宿ではない。
ここは、肉体や精神に疾患を持つ者たちの療養施設であった。
アルゴたちは、大部屋の端まで案内された。
大広間の端に設置されたベッド。
そのベッドに魔族の女が眠っていた。
長い水色の髪。二本のツノが生えた若い女。
レイネシア・リンドロードの母親―――カーミラ・リンドロードだ。
「寝てるね……」
カーミラの眠る姿を見つめながら、アルゴが小声でそう言った。
「そうだな」
メガラは小声で返し、カーミラの様子をよく観察する。
随分と顔色が良くなっているように思う。
肌と髪の艶が戻っており、栄養状態が改善していることが分かる。
カーミラの状態は、極度の疲労と栄養失調。
どこかでカーミラを療養させる必要があったが、ヴェラトス砦とその近辺の施設でそれはできない。
何故なら、そこはもう激戦地となっているからだ。
ゆえに、無理にでも安全な場所へ移動させる必要があった。
カーミラは、兵士が駆るスケイルリザードに運ばれてイオニア山脈を越えた。
カーミラ自身の足で越えた訳ではないが、それでも疲弊しているカーミラには大きな負荷だった。
イオニア山脈を越え、ここクロノア領に辿り着いた時、カーミラの体力は尽きた。
殆ど寝たきりとなってしまい、現在はこの施設で療養を続けている。
「ふむ。こうして顔も見れたことだ。退散するとしよう」
「うん」
ここへ来た目的は、カーミラの様子を確認するため。
その目的を果たし、メガラは満足した。
立ち去ろうとするメガラとアルゴはその時、囁くような声を聞いた。
「……シア」
「起こしてしまったか……」
カーミラは薄目を開けてメガラを見ている。
「……レイネシア?」
「いや、余は……」
「ああ……レイネシアなのね。来てくれてありがとう……」
カーミラはすでに、レイネシアの身に起こったことを理解している。
カーミラは今、夢と現実の境目にいるのだろう。
きっと、理解力や認知力といったものが低下しているのだ。
メガラは少し悩んだが、結局はカーミラに合わせることにした。
「……うん。来たよ」
あえて口調を変え、メガラはカーミラの両手を握った。
カーミラは柔らかく笑った。
「フフッ。あったかい。ねえ……レイネシア、ご飯はちゃんと食べてるの?」
「うん。食べてるよ」
「何か……困っていることはない?」
「ないよ」
「誰か……好きな子はできた?」
「できて……ないよ」
「あら……そうなの? フフッ。もしできたら……お母さんに教えてね?」
「……うん」
メガラは、カーミラの両手から手を放した。
「もう……行くの?」
「うん。そろそろ……行かなきゃ」
「そう……」
「それじゃあ……」
「ねえ」
「うん?」
「また……また来てくれる?」
「うん。勿論だよ……お母さん」
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五日後。
クロノア領主の館。庭園にて。
「本当に行くのですか? メガラ様」
そう問い掛けたのは、豹の獣人ディーガ・アンカートだ。
メガラは、よく整えられた庭園を眺めながら答えた。
「行く。余は余に出来ることをやらねばならん」
「しかし……北部は危険です。メガラ様が直々に行かれなくても……」
「……確かにな。余が行ったところで何も変わらないのかもしれん」
「い、いえいえ! そのような意味で申した訳ではありません! 私はメガラ様の偉大さを理解しております!」
「フッ、分かってるさ。余の戯言だ。聞き流せ」
そう言ってメガラは、ディーガの方へ視線を向けた。
「ディーガよ、お前には心の底から感謝している。余に対する数々の計らい、余はこの恩を忘れない。この恩はいずれ必ず……」
「有難きお言葉。ですが、クロノア領はメガラ様の一族に多大な恩義があります。それは、ちょっとやそっとじゃ返せないもので……ですから、私は当然のことをしたまでです」
「そうか……」
「はい。それにしても……」
「ん?」
「その可憐なお姿がしばらく拝見できないとは……私は本当に……寂しい……」
ディーガの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「……お前は相変わらずだな」
ディーガがメガラに対して敬服の念を抱いているのは事実だ。
しかし同時に、それとは別種の感情をディーガは抱いていた。
はぁ……なんて愛らしいのだ……メガラ様……。
ディーガは胸の内から溢れ出るその思いを、どうにか自分の中に押しとどめた。
「危険な目をしているな……」
そう指摘され、ディーガは首をブルブルと振った。
「そ、そんなことはありません! 私に邪な気持ちはありません! 私はただ純粋に! メガラ様のことを!」
「分かった、分かった。もうよい」
「はい……」
「では行く」
「はッ。どうか道中お気をつけて」
「感謝する。だが気を付けるも何もないさ」
メガラはそう言って、遠くへと視線を向けた。
その視線の先には、整列する兵士たちの姿があった。
約千人の兵士からなる大部隊。
クロノア領の兵士たちである。
「クロノア領の兵は精強。あの者たちが居れば、危機などない」
「彼らはメガラ様の役に立ちたいと立ち上がった者たちです。どうか、存分に役立ててください」
「何から何まで感謝するぞ、ディーガ」
「はッ」
ディーガは頭を下げ、メガラは歩き出した。
兵士たちは号令を待っている。
出撃の号令を。
青い芝。鮮やかな花々に彩られた庭園。
美しい庭園をメガラは進む。
「ニャン!」
可愛らしい掛け声と共に花壇の陰から飛び出してきたのは、クロエ・ジュノー。
「クロエか」
「クロエだニャ!」
「……やけに元気だな」
「クロエはいつも元気だニャ!」
「寒い寒いと、不満そうだったじゃないか」
「ふふーん。今のクロエは無敵だニャ」
クロエは、身に纏う毛皮のコートを見せびらかすようにクルッと一回転した。
「その恰好……熱くないのか?」
このクロノア領は大陸中央部に比べれば気温は低いが、凍えるような寒さではない。
少しだけ厚着すれば、どうということはないのだ。
クロエのように分厚いコートを纏う者は、この領には殆どいない。
「ぜーんぜん。これはナントカって魔物の毛皮で作られている高級品ニャ! ラッさんに貰ったニャ! ラッさんには感謝だニャ!」
「そうか。だが浮かれているところ悪いが、これから北へ向かう。ここよりも寒くなる。本当に……いいのか?」
メガラはクロエに問い掛けている。
寒さの問題もあるが、ここから先は危険が伴う。
それでも共に行くのか。クロエにその理由と覚悟があるのか。
それを問うている。
クロエは右拳で自分の胸をドンと叩いた。
「何回言わせるニャ! 一緒に行くったら行くニャ!」
「だが……」
「もう! それ以上は言わない約束ニャ!」
「そう……だったな。感謝するぞ、クロエ」
「いいってことニャ!」
と言って、クロエはメガラに抱き着いた。
「おい! 引っ付くな!」
「ニャハハハハッ! 照れなくてもいいニャー!」
メガラは迷惑そうな顔をしていたが、やがてクロエを制御することを諦めた。
溜息を吐いたあと、フッと少し笑った。




