125.守護者
地下へと続く長い階段をアルゴたちは下りていた。
明かりの無い階段。
ネロは右手を翳し、先頭を進んでいた。
ネロの右の掌には、小さな炎が生じている。
ネロは剣術だけでなく、魔術も習得していた。
剣と魔術、どちらも高いレベルで扱うことができる魔術剣士だ。
随分と地下へ下っている。
もうこの辺りになると、地上の戦闘は聞こえない。
追ってくる兵士もいない。
見張りの類もいない。
手薄だな。
とネロは思った。
だが理解はできる。
これより先はダンジョンへと通じる入り口があるだけ。
ダンジョンは魔境だ。
ダンジョン最奥に辿り着ける者は殆どいないだろう
よって、地下へと続くこの場所を守護する必要性はあまりない。
ネロはそう理解した。
しかし、真実は違った。
守護者はいた。
ただし、その守護者はアルテメデスの兵士たちではなかった。
地下へと続く階段の終着点。
石壁に囲まれた広間に守護者はいた。
広間の壁には無数の松明が設置されており、守護者の影が階段付近まで伸びている。
その守護者は兵士ではなく、魔族でも獣人でもなかった。
赤い顔面に黄色い瞳。剥き出し牙。体表は白。
守護者は、巨大な猿の魔物だった。
岩のような巨体。体長は約五メートル。
その巨大な体躯は、他の生物を力で圧倒できるだろう。
「でかいな……」
ネロはそう呟き、腰から剣を二本抜いた。
おそらく、あの猿の魔物はアレキサンダーによって躾けられているのだろう。
侵入者を排除するように命令されているはずだ。
当然ながら、戦闘は避けられない。
ネロは後ろを覗き見て主に告げる。
「盟主様、私があれの注意を引き付けます。隙を見て魔術で援護して頂けますか?」
ネロの声音に恐れはなかった。
弱気を見せて主を心配させるわけにはいかない。
ネロは己を奮い立たせていた。
「ネロよ、待つのだ」
「?」
「お前は我が騎士の力を疑っているな。いや、分かっている。ただ信じろというのは無理な話だ。だから、今ここでその力を証明しよう。いけるな? アルゴよ」
「め、盟主様、なにを……。確かにそのアルゴは、それなりの実力を備えているのでしょう。曲がりなりにも盟主様をここまで送り届けたのです。それは評価しています。しかし、あの化け物を一人で退治できるとは……」
「大丈夫ニャ」
「クロエ殿?」
「アルくんなら一人でやれるニャ。むしろ、余計な加勢は邪魔になるニャ」
「クロエ殿まで何を……」
困惑を浮かべるネロ。
その様子を見つめながら、アルゴはようやく言葉を発した。
「いきます」
アルゴは魔剣を抜いて歩き出した。
たった一人で、眠っている猿の魔物へと近付く。
この猿の魔物はこの辺りでは珍しい種だ。
数が少なく、正式名称は付けられていない。
ただ、一部の地域の者からは、エンヒと呼ばれている。
エンヒは、ゆっくりと上体を起こした。
そして、小さな人族を見下ろす。
「ガアアアアアアアッ!」
耳をつんざくような雄たけびを上げ、エンヒは巨大な右拳を振り上げた。
右拳が振り下ろされ、床へと叩きつけられる。
床が大きく陥没。
しかし、右拳はアルゴを潰していない。
「遅いな」
アルゴはエンヒの背後に回っていた。
アルゴが握る魔剣の刀身から、赤い血が垂れていた。
言うまでもなく、それはエンヒの血だ。
エンヒは右腕を斬りつけられていた。
いつ斬られたのか、エンヒには知覚できなかった。
だがエンヒは怯まない。
恐れを知らない狂暴性。
それこそがエンヒの特性。
エンヒは、拳を繰り出し続ける。
無尽蔵の体力から放たれる圧倒的な暴力。
何もかもを破壊する途轍もない膂力。
しかしアルゴは、それを鼻で笑う。
「単純」
アルゴは余裕で拳を躱し続け、隙を見て魔剣を突き入れた。
魔剣は、エンヒの右ひざを穿つ。
「ガアアッ!」
エンヒの右脚が崩れた。
その隙にアルゴは斬撃を放ち続けた。
斬撃が放たれ続け、エンヒはダメージを負い続ける。
アルゴは勝負を決めようと大きく足を踏み出した。
その瞬間、エンヒは全身の毛を逆立てた。
「ガアアアアアアアアアアッ!」
広間に反響するエンヒの雄叫び。
アルゴは攻撃をキャンセルし、後ろに跳び退いていた。
そして、魔剣を構えながら小さく声を漏らした。
「へー、面白い」
エンヒの白い体表。それが赤に変化していた。
燃えるような赤。
猿火。遠い国の言葉で火炎の猿を意味するその単語こそが、エンヒの由来だった。
「ただ赤くなっただけじゃないな。攻撃力、耐久力ともに上がっている……か」
アルゴはそう予測し、エンヒの出方を窺う。
エンヒは鋭い目でアルゴを睨み、床を蹴り上げた。
一瞬でアルゴへと接近。
その速度は、アルゴも驚くほどだった。
「ああ、速度も上がっているのか」
全てのステータスが上昇している。
窮地に立たされると爆発的に身体能力を上昇させる魔物。
それがエンヒだ。
アルゴはちらりと視線を左側に向けた。
その視線の先にはメガラの姿。
「ちょっと時間をかけすぎてるな」
アルゴは少しだけギアを上げた。
ほんの少し。アルゴにとっては、少しだけ息が上がる程度の軽い運動。
しかしそれは、エンヒにとっては絶望だった。
エンヒが拳を振るう度に、エンヒの体から血が噴き出していく。
広間の床が赤く染まっていく。
そうして約一分が経過した。
大きな振動が発生し、エンヒが沈んだ。
巨大な猿の躯を眺めながら、ネロは声を漏らした。
「ば、馬鹿な……」
ネロは気付かなかった。
ネロの横顔を見つめるメガラの表情が、とても満足気だったことに。




