9 桃園の……げーっ!妖魔!
「張飛殿は武人でいらっしゃる。仙界では軍を率いてらっしゃったのでしょう?」
「まあ、そうだな」
仙界じゃあないがな。もうそれはどうでもいいだろう。
だがオレは、飛燕の体を借りてここで生き直そうとしている。
それならば同じように戦場に生きても仕方がないのではないか?
「なあ、紀翔。お前、後宮をどう思っている?」
「後宮ですか。実は……お恥ずかしい話ですが少々持て余しております。居心地が良くないと申しますか……」
あの後宮は先帝から受け継いだものらしい。だから妃以下の女の数がやたらと多いという。後宮は妃だけでなく、下働きの宮女に至るまでが、一応は皇帝の嫁のようなものだ。
「私が未だ皇后を持たず、寵姫も決めていないのが原因だとは分かっているのですが……。その、どうにも心躍る妃に出会えなかったのです」
紀翔はチラとオレを見て、ほんのりと頬を染めた。
……なんだ? なんでこっちを上目遣いで見る? おかしいだろう。自然にしていれば飛燕のほうが小さいのだからオレが見上げる側だ。
「お前、どんな女が好みなんだ?」
「そ、それは……!!」
やめろ。キラキラした目でオレを見るな。やめろ熱っぽい目で見るんじゃねぇ!
飛燕ならいいが、燕人はやめろ!
「ったく……。お手付きナシじゃあねぇんだろ?」
「ええ。皇帝としての務めでもありますので、一応は。ですが飛燕とはまだ、ですね」
「何故だ?」
「飛燕に『もっと強くなってからでお願いします!』と言われてしまいまして。彼女の鍛錬を待っていた形ですね」
ああ。この飛燕なら確かに言いそうだ。
しかし、待てよ? 強くって……オレに成り代わった今、飛燕は強くなってしまったのではないか?
オレは首から背筋にかけてゾクッとした寒気を感じ、決して紀翔と目を合わせず空を見上げて杯を煽った。
おい、やめろ! だからそういう目で見るんじゃねぇ!
「……お? おい、ありゃなんだ?」
見上げた空、遥か向こうの山頂辺りに黒い何かが浮いている。ただの点にしか見えないが、なんだか嫌な気配だ。
「どれですか? 張飛殿」
「ほら、あの黒い……」
と、オレが指差すと、あの黒い点と目が合ったような気がした。
次の瞬間、ギュンッ! と黒点がこちらへ向かってきた。小さな黒い点だったものが、今は一本の棒のように見えている。なんだありゃ?
「っな! あれはまさか……黒飛蛇!?」
紀翔が『黒飛蛇』の名を口にした途端、宴はシン……と音を失った。そして一拍遅れてざわっと場がざわめき始める。
兵士たちは手にしていた杯をカン! と卓に叩き置き、楽師たちは楽器を抱き締め、桃の木の下に屈み込み、給仕をしていた女たちは呆然と空を見上げたり、右往左往したりしている。
「おい、なんだそれ! 妖魔ってやつか!?」
「そうです! 黒飛蛇は大型の妖魔です! あれは滅多に人前に姿を現さないはずなのに何故……!」
さっきまでほろ酔いで浮かれていた男たちが武器を取り、空を睨む。到底一人では引けないような大きな弓を持っている者もいて、ありゃ一体どうやって使うのだろう?
「よし! 隊列を組め!」
「将軍に続け!」
おお、まさかこんなに早くこの世界流の戦闘が見れるとは! 黒蛇! よく来てくれた、いい奴だ!!
周囲と紀翔の慌てっぷりをよそに、オレは一人ワクワクしていた。
どうやらあの妖魔は、ここにいる全員が恐れるような代物らしい。しかしさっき目が合った感じじゃあ、オレの敵ではない。
「燕人さま! ただいま結界を張ります!!」
「お?」
どこに行ったかと思っていた文官学者連中じゃねぇか。
奴ら一列に並ぶと空に向かって手をかざし、何やら唱え始めた。おお! これがここの妖術か? それとも仙術か!?
これはワクワクが止まらねぇ。
うちの丞相が羽扇を翻しただけで東南の風を吹かせただとか何とか聞いたが、ありゃ妖術というより計算だろう。確かにあのでたらめに切れる頭の出来は妖でもおかしかねぇが。
ギュンギュンと迫ってくる黒蛇の前に何枚かの半透明な『壁』が出現し、オレらの周囲にも半円状の囲いが現れた。
おお、これが『結界』か!
あの蛇、オレと喧嘩をしたいようだが……さて、オレまでその牙が届くか? オレは空を見上げ、挑発するようにニヤリと笑う。
すると、パーンッ! と、空で乾いた音が鳴った。
「げえっ! 障壁が一枚破られま……っ!?」
パーン! パンッ! パンッ! 二枚、三枚、四枚目……。蛇はどんどんと空の壁を突破してくる。
「げーっ! 障壁が! どんどん破られていきます! こ、これは結界も危ないかもしれません……!!」
学者っぽい男が脂汗だか冷や汗だかをダラダラ流しそう言った。
あ、妙な術を使っているし、もしかしてこいつらは道士? 方士か? 一気に緊迫感が増した周囲を眺めつつ、オレはそんなことを思っていた。
迫る黒蛇に向かって、あの大弓から矢が放たれた。おお、三人がかりか!
が、蛇が口から火を噴き矢は呆気なく燃え尽くされてしまう。
「いけない! 張飛殿、退避を!」
「あん? 紀翔、お前こそ下がってな。皇帝陛下に万が一があっちゃいけねぇ」
慌てることはない。どんだけデカかろうとオレの敵じゃねぇ。逆に、どんなにオレの敵じゃなかったとしても、オレは売られた喧嘩はキッチリ買う主義だ!
「蛇矛!!」
そう呼べば、ドォン! と派手な音を立て、オレの手に蛇矛が出現した。