7筆目:狂的恐怖、悪意の仮面
膨張の一途を辿る互いの厳意。限界まで研ぎ澄まされる緊張感。高まる鼓動、深まる昏怨。
永遠の様にも思える、一瞬の睨み合い。
「行きます」
澄んだ声音が大気を震わす。翠の天使が告げた一言。
引き絞られた闘争の堰を突き崩し、それが再戦の合図となった。
翠の天使が光矢を射放つ。輝く眩矢は一直線に空間を走り、標的たる道化へ突っ込んだ。対する相手は何する出なく佇んでいる。その正面に向かい来た翠。乗っているのは直撃コース。しかし道化は動かない。動く意思すら覗かせない。
「いける? ……いいえ」
敵勢の様子に不審なものを感じながら、目に映る状況に可能性を見出し。けれど翠の天使は即座にそれを否定する。
この程度でどうこう出来る手合いで無い事は、身を以って理解しているが故。そんな彼女の思考は極めて正しい。
迫る光が道化の眼前へ至った時、矢の進行は急に止まった。後僅かで仮面の眉間を射抜くという近くまで接近していながら、光の矢は青黒い炎に巻かれて霧消する。
それは道化面から生えていた触手を焼き払った、あの炎だった。
「無ー駄だぁよ」
道化は嗤う。変わらぬ語調で。数多の感情を入れ混じた、規格外な抑揚の声で。
だが翠の天使は平静さを崩さない。自らの放った矢が顛末を見届けて僅かに目を見開いたが、それも一瞬で元に戻し相手を睨み直す。続けて左手を動かし、碧の弦を引いて矢を番え。新たに作った3本を息つく間もなく斉射。
弓より飛び出す3本はそれぞれ異なる軌道を取り、別方向から道化へ襲い掛かった。矢の1本は上空から放物線を描いて降下。光の1本は横合いへ回り込み弧状に旋回して接近。翠の1本は相手を通り越して流れ行き、そこから反転して外套の背後より。
独自に意思があるかのような自由な移動を遂げて、方々から同時に、矢達は邪悪へ向かい飛ぶ。しかして道化は呆けの所作を乱さず、3光の急追を甘んじて受け入れた。
飛来する翠は彼人のまじかまで寄るものの、その身へ接する前に炎を纏い。青と黒の猛火に塗れ、瞬時に立ち消えてしまう。微かな残り火さえ後には散らせず、炎諸共、無空に果てた。上方、側面、後背、3点から攻め入った翠の光は全てが同時に。
道化面への攻撃は悉くが失敗に終わる。見えざる力が魔性の障壁となっているかの如く、全ての攻撃を防ぎ、無力と為した為に。その正体は未だ知れない。天使達に馴染みの無い暗色の波長なのか。
それを探りながら、攻略法を求めながら、赤と翠の天使は戦った。姿なき不浄の力によってとてつもない耐久力を誇る闇の道化に、通じないと知れた攻撃を何度と無く繰り返し。その過程で好機を望み、運命の転換点を欲し、果敢に挑み続ける。
彼女達に諦めの色はない。怯えも、焦りも、敗北の予感すら抱いてはいなかった。盲目的に勝利を信じて、一手一手に全てを注ぎ、天使達は道化と対峙している。
「てりゃぁぁぁぁッ!」
翠の天使が矢を放った時、同じタイミングで赤の天使も駆け出していた。
彼女は両脚で床を蹴り、2本の大斧を構えて、何度目かになる突撃を敢行する。光矢の接近さえ許した敵対者は、少女天使の猛勢にも無頓着な風。身を揺らさず、茫洋と直立して、彼女の攻め手を正面から迎え入れた。
「はぁぁッ!」
豪快な気合いと共に少女の腕が動き、右腕が戦斧を伴って振り下ろされる。
仮面を脳天から断とうという必殺の気迫が滲む一撃だ。応じた道化面の反応は、左手を動かして頭上に掲げるのみ。それで充分だった。
仮面の者が繰り出した手が、少女の巨斧を容易く掴む。けして遅くはない斬撃を。けして弱くはない攻撃を。いとも簡単に受け止め、自分への直撃を防ぎやった。
一方で、相手の防御行動を目の当たりにしてきた天使は、表情を小揺るぎもさせない。代わりに取った働きは、それまでとは異なるもの。
左手に握っていた緋色の戦斧が、赤熱する炎と化して消えた。現れた時とは真逆、斧は炎へ変じ、天使の手中から消滅する。一転、彼女の左足に焔が宿った。足首より下全体へ赤の光が被さり、少女の足を赤熱に輝かせる。
「くっらえぇぇぇいッ!」
赤の天使が吐き出すのは噴気の怒号。
右脚が強く床を踏み締め、全身支える柱となり。少女は高らかに左脚を振り上げ、軸脚を基点として上体を捻転。空中へ舞い出た脚部が、炎を抱く御足が、大気を焼き刈り道化の頭部を狙う。
猛烈な速度で直走る蹴撃。そこに込められた力は斧の振り抜きに勝るとも劣らない。加えて燃え立つ炎の存在。仮にこれを素手で防いだとしても、灼熱の業火が敵を焼くは必至。
「ウホッ! いい蹴りだ」
感嘆と嘲弄を込め、道化面が評す。
余裕の発言を口にしつつ、彼は滑らかに腰を引いた。無駄な動作の一切ない、簡潔にして完成された動き。必要最低限の僅かな動作で、仮面に覆われた頭部が後方へ。襲う少女の脚はピエロの鼻先すれすれを横切り、手応えを得られぬままに攻撃過点を通り過ぎた。
道化の顔面を捉えられぬまま走りきった左脚は、衰えぬ速度を維持して半円の航跡を取って床に付く。その時にはもう、宿っていた炎は消えていた。
赤の天使が双眸に、鋭光一閃。脚を地に踏ませた直後、天使は左拳を握り固め、腰溜めに引き構える。次いで全身を反転させつつ、更に腰部のバネを用いて上体を捻り。これを解き放ち、戻る反動から拳を正面へ突き出した。
「ちぇぇぇぇいッ!」
少女らしい声に合わせ、少女らしからぬ豪速の拳打が宙を疾る。
素早く繰り出された左拳には、足から移動した炎が灯り、熱く瞬きを放っていた。炎を乗せた拳が、天使の正拳突きが、真正面から遂に、道化面の腹部を打つ。
天使は細腕、なれど侮る無かれ。彼女の腕は、巨大な戦斧を片手で軽々と振り回すのだ。重さを感じさぬ軽快な動きで、緋色の刃を自在に操る。それが拳を作り、熱化の炎を伴って、外套の下にある黒の着衣へ、道化の腹へ、的確に命中した。
だが、そこで終わらない。拳が不遜な邪悪の胴体へ減り込んだ瞬間、天使の炎が爆裂。赤の熱波が爆ぜ飛び、炎は球状に膨らんで四散。圧倒的な熱量を中心点に掛け、無数の火の粉を舞わせる。半瞬遅れてから爆音が轟き、天使の髪と道化の外套を各々外方へ靡かせた。
「キくねぇ〜。厚こい肉のパン挟み、4個分ぐらいかな?」
声調に変化ない、道化面の語り。
少女天使の目の前で、腹に拳打と爆発を受けた仮面の徒が、愉しげに笑声を漏らす。
完璧に入った筈の攻撃。確かな手応えもあった。なのに相手へは、堪えた様子がない。これにはさしもの天使も顔へ困惑を刷く。
その変化に構わず、道化面の右腕が突き出される。五指を揃えた貫き手。狙うのは自分と同じ腹でなく、少女天使の頭。彼女の顔を中心から抉らんとするように、至近距離から刺突を放った。
驚いている暇はない。赤の天使は殆ど反射的に首を捻り、全身を曲げ、突き込まれた敵者の一撃、その射線上から頭部を逸らす。僅差を経て、彼女の顔面側方を猛然たる黒手が駆け抜けた。回避と同時に強烈な突風が顔に当たり、それだけで天使に痛みを感じさす。が、それに続いて少女の左頬へ、五つの爪痕が刻まれた。
避けきって尚、逃げられぬ腕撃の残滓。瞬間的に異形の腕と化した道化面のそれが、彼女の頬を切り裂いて、白い肌へ血を伝わらせる。
「僕の攻撃をこんなに躱せるなんて、嬉しくなるなぁ〜」
相変わらず嗤いながら、道化面は突き出した右腕を振るう。
垂直に伸ばされた腕を、今度は真横へ、少女天使目掛けて横に払った。
「ッ!?」
最早、目で追える速度ではない。
直感に従って、本能の警鐘に倣って、赤の天使は腰を落とし、頭を下げる。
そして間一髪、頭上を横薙ぎに払い抜けた魔性の怪腕を遣り過ごす事に成功した。
けれど彼女の胸中へ去来するのは、安価な安心感などではない。寧ろ絶対的な危機感。全身が戦慄き、心臓が早鐘を打つ。自らの置かれた状況の致命的なまでに救い難い旨を、筋肉が、細胞が、血液が、只管に連呼していた。
「僕は嬉しくなると、つい殺っちゃうんダ♪」
軽妙な嗤いが、少女の鼓膜を舐める。
背筋に走る怖気を天使が実感するよりも速く、道化面の右膝が彼女の鳩尾を抉った。
「かハッ……」
痛烈な衝撃が、赤の天使を襲う。
一瞬だが呼吸は止まり、内臓が拉げる程の圧迫感を覚えた。四肢は硬直し、全感覚が遠退く。思考が止まり、視界は白み果てた。右手に握った斧は、炎へ戻り消える。
折り曲げられた道化の膝。それは彼人の右腕を躱す為に身を低め、動き辛い体勢を自ら作ってしまった天使の急所点へ、正確無比に深々と減り込んでいる。正に、先刻の拳が礼だと言わんばかり。その威力は細身なれど人1人の身を宙空に押し上げ、腰を強制的に動かし、全身を『く』の字に折り曲げさせる程。
「う……っ」
腹部に留まり暴れ回る激痛に晒され、天使が意識を引き戻す。
未だ判然としない意識の中で、胃を逆流し、食道を駆け上る液の奔流のみは強く感じられた。猛烈な嘔吐感に顔を顰め、耐える事も出来ず登り詰めた衝動を解放しようとした時。
「これカ? コれか? こっちの方がイイかな?」
道化面の左腕が振り上げられ、少女へと勢い良く叩き落される。
異形の腕へ変じ、凶爪を光らせる五指が、赤天使の半身を引き裂いた。
長く鋭い爪は右肩から皮膚を断ち、脇腹を経て、腰に裂傷を生む。天使の着込む紫の肌着が部分的に破れ飛び、幾許かの素肌を鮮血と共に覗かせた。
更なる膨痛が少女の頭を焼き、衝撃は嗚咽を漏らさせる代わりに、喉まで押し迫っていた胃液の波を引き戻させる。声にならない叫びを飲み、天使の両目は限界まで開かれた。そこへ映るのは苦痛一色。それ以外の感情を読み取る事は出来ない。
「ハッハッハッハッハ! あぁいむ、らぶりぃ」
場違いな明笑を木霊させ、道化の右腕が再度の動きを見せる。
全ての指が等間隔に開かれ、内側へ曲げられ、掻き裂く形を作った。そしてまた横方より、少女を狙って振り払われる。動き出した腕は闇の覆いによって、恐ろしい形状を構成。空気を破る獰猛な一手を走らせた。
「させないッ!」
瞬くような僅かな時間に繰り広げられた赤の天使と道化面の攻防。それを離れた位置から見ていた翠の天使が、悲鳴に近い声を上げる。
天使の握る碧緑の大弓が彼女の意志に呼応して、当所と同じ一条の翠光となった。それは瞬時に長く伸び、弾性を備えて細く波打つ。彼女はそれを右手に握り、力任せに道化へ投げた。
天使から放られた翠の光は目にも止まらぬ速さで進み、更に全長を増し、目標たる仮面の者へ辿り着くと、彼人の右腕に絡み付く。前腕へ幾重にも巻き付いて、赤の天使を襲おうとしていう動きを止めた。
光は、翠に輝く鎖となっている。弓が形を変えたのは鎖。長大な、翠光の鎖だ。天使はそれを右手に押さえ取り、左手で伸び立つ面を掴んで引き寄せる。しかし道化面は動かない。ただ鎖に囚われた右腕の進行を抑えられ、それ以上は押しも引きもせず。敵勢に対して翠の天使が出来たのは、そこまでだった。
「それで、どうするのかなぁ?」
自分の腕に巻き付いた鎖を眺め、次に翠の天使へ視線を転じ、道化面が問う。
陰惨な含み笑いを忍ばせた声に、しかし天使は微笑を返した。
「こうするんです」
鎖で引く天使の一言。
それが空気へ溶け込んだ直後、赤の天使が瞳へ叛逆の激火が迸る。
翠の天使が作った短い間は、それでも姉妹天使の活力を取り戻すには充分な時間だった。1度は道化面の猛攻によって我を忘れるまでに追い詰められた彼女だったが、固めた決意と覚悟は伊達でない。消えた意識を取り戻し、激痛に耐え抜いて、強靭な精神力を奮い戦意を再度煌かせる。
「おやぁ?」
近郊で起こった闘気の再燃に、仮面が視線を向ける。
同時、全身を襲う痛覚を意志力で抑え込み、赤の天使は2度目の蹴撃を繰り出していた。またしても右脚を基軸とした、上半身を捻りながらの上段回し蹴り。先と全く同じ形。全く同じ速度。全く同じ狙い。手傷を負っている分、先刻より全てが劣っていて不思議のないそれを、少女は一切の遜色なくやってのけた。
しかも以前と違い、左足に纏わされた炎は更に大激。戦斧二つ分の炎が宿っている。
「のぉぉぉりゃぁぁぁぁッ!」
遥かに熱い憤怒の攻撃。吐き出される剛毅の濃さに、道化面は回避行動を狙う。
だが翠の天使が全力で鎖を引き、右腕が僅かに前方へ動いた。腕は付け根から肩へ、そして全身へ引力を運び、不浄の仮面が行動を1秒分阻害する。
生まれた機会は天使達の求めるものだ。赤の天使が左脚は、回避の遅れた道化の仮面を打ち据える。炎に包まれた足が仮面の中心へ直撃し、強大な圧力を解放。止め処ない破壊の力が万遍に伝わり、続いて炎が起因する爆発が起こった。渾身の一撃。
頭部に受けた衝撃は逃げ場なく全体を染め、道化面の首を後方へ流す。今回ばかりは不敵な仮面者も上体を仰け反らせ、抗えぬままに1歩を退いた。
「よっし!」
少女天使の顔に、確信の笑みが浮かぶ。
痛みは依然として神経を蝕むが、それを上回る達成感が痛覚を飽和状態に感じさせた。
それでも油断は出来ない。相手は垣根なしの化け物なのだ。些細な気の抜きようが、生死を別つ敗因を生みかねない。そして彼女の予想は、最悪の事実として動き始める。
「これは、くッ!」
翠の天使が驚愕の表情を作り、その体が床から離れた。
彼女は宙を大きく飛び、赤の天使と道化面の頭上を流される。
天使の蹴脚をまともに受けてよろめいた仮面者が、右腕を大きく振るい、鎖毎に天使を投げ飛ばしていた。翠の天使は道化面の異常な膂力に引き摺られ、空中を行く。されど、やられるままではない。虚空へ投げやられた所で翠の鎖を光へ戻し、敵対者の操作力から自らを離した。その後、光を再び弓に変え、空を滑りながら矢を射放つ。
3本の光矢を相次いで撃つと、空中だろうが関係なしに体勢を整え、静かに、そして緩やかに、道化等の後方床へ華麗に着地。投げ飛ばされた際の衝撃等は皆無である。
赤の天使がそうしたように、翠の天使も空中での移動行は不得手でない。彼女等の翼は飾りではなく、機能する有能な部位なのだ。
「ふふふ、ふふふふふふフ、今回のは、1番キいたねぇ〜」
不気味な嗤いを上げ、反り返らせていた体を戻す道化面。同時に伸ばされる左腕。
それは行動直後の赤天使へ迫り、全身を焼く苦痛によって若干動きが鈍っていた少女の首を捉えた。
「うぁッ!?」
反応速度を超えた邪悪の腕は、五指を以って天使の首を掴む。
彼女の口から苦しげな呻きが漏れる最中、仮面者へ翠の光矢が降り注いだ。けれど全ては青黒い炎に焼かれて消えてしまう。道化面の護りは、未だ失われていない。
「素晴らしいコンビネーションだぁ。僕も思わず、弟を思い出してしまったよォ」
赤天使の首を締め上げ、少女の体を徐々に床から遠ざける。
道化は左腕一本で天使を掴み上げ、自分の目線以上の位置にて彼女を止めた。
その顔に付けられていた仮面は、左半分が罅割れ、右半分が完全に砕けている。壊れた仮面の下から覗く赤い髪と、凪いだ湖面の如く感情のない緑の瞳。そして目の下に描かれた、涙のようなペイント。そこには道化面の素顔があった。口の端が吊り上り、狂的な笑みの浮かべれている顔が。
「う、ふぅぅ……あ、はッ」
「お陰で、僕のトレードマークが台無しだ」
尚も首を締め上げられ、赤の天使は激しく悶えながら両脚をばたつかせる。
そんな彼女には構わず、道化面はクツクツと嗤い続けていた。仮面が壊れている以外、何の傷も存在しない顔で。
彼等の背方に立つ翠の天使は、厳しい目で敵対者を睨む。敵意漲る視線を射込みながら、手にする弓を限界まで引いて矢を向けた。触手に絡め取られていた時は立場が逆転している。今度は彼女が、姉妹天使を助けねばならない位置関係。
「ふふふふふ、ははははははハ」
寒々しい広い空間に、緊張感と濃厚な死臭漂う世界に、音程狂いの不気味な哄笑が響き渡る。
旗色悪い天使達に、その声は耐え難い悪寒を走らせた。