4筆目:戦闘絶華、いざ勝利へ
翠の天使が放った光矢は宙空を駆け抜け、寸分違わず標的となった鎧を貫く。
輝く一矢が大気を裂き、到達した黒の鎧。その胸部を食い破り背方から抜け出ても尚、矢の勢いは止まらない。依然として鋭い貫徹力を有した矢は、狙われた鎧の後方に在った別の物の胸をも打ち降し、更なる後体を立て続けに襲った。その数、実に5体。
初撃の矢だけで五つの鎧を破壊した後、天使は次の矢を番えている。碧の弦が彼女の左手で引かれ、それへ合わせて翠の光が矢を形作った。その数は3本。人差し指と中指の間に一つ、中指と薬指の間に一つ、薬指と小指の間に一つ。天使は左手五指を大いに使い、三つの矢を同時に生み出していた。
「せやッ!」
瞬間的に狙いを付けて、掛け声と共に固めていた指を開く。
彼女の手から解き放たれた翠の光は、3本揃って同速へ至り、しかし向かう先は異にして空間を走った。放射線状に飛んでいった3本矢は、各々に標的が中心部、鎧の真中を射抜き、一つ目の後に二つ目、二つ目の後に三つ目、そのまた後に……止まる事無く次々と敵体を穿ち倒す。
その狙いは百発百中。一度弓より放たれた翠光の輝矢からは、何人も逃れる事は出来ない。定められた軌道に立つ物達が、回避の間も与えられず撃滅の煽りを受ける。例外は無かった。
三方向に飛んだ矢が黒の鎧を撃ち抜く最中、赤の天使もまた敵勢を相手取る。
彼女は敵陣の中へ単身飛び込み、両手に握った2本の戦斧を振るい戦った。恐れも怯えもなく、ただ目的達成のみを見詰め、求め。
「たぁぁぁッ!」
激烈な気迫を伴い吐き出される闘声。
それが導くのは、少女天使の外見に似合わぬ豪快にして猛然たる戦いぶり。
右手にする大斧を垂直に振り下ろし、眼前に在った黒鎧を兜頭頂から叩き潰す。それと同時に左手を横へ振り払い、そちらに握った剛斧で側方の敵を2体まとめて吹き飛ばした。
彼女の重撃を受けた鎧達は、自らの防御力を何処かに置き忘れてきたかのように、まるで紙の如く易さで打ち砕かれていく。天使の右手が動き、最寄の鎧を左右へ両断。左手が振るわれると、近寄ってきた鎧が腰を境に寸断された。
「えぇぇぇいッ!」
魂の荒声を響かて、少女天使は床を蹴る。
体前で両腕を交差させ、戦斧をクロスの形に構えて。正面に群がる鎧達へ真っ直ぐ突っ込んだ。
敵軍の腕は彼女の接近に際して次々振り上げられ、断頭台を思わせる凶悪さを示す。だが天使は止まらない。只管に駆け続け、黒の壁へ正面から挑む。一切緩まぬ歩は互いの間合いをすぐに詰め、攻撃範囲への両勢突入を為した。
それへ反応した黒の鎧が、同色の剣を振るう。しかし、それよりも赤の天使は僅かに速く腕を走らせた。
交差させる両手を同時に引き、抜き払う。握られた双斧が大きく唸り、大気を裂いて各々真逆別方へ。反身の大刃が天使の眼前で『バツ』の字を描き、相対していた鎧衆へと強く減り込んだ。後はもう動きを止めず、勢いを維持した状態から触れた全てを引き裂き、断ち割り、拉げさせ、押し潰す。
防御を許さぬ大威力の斬撃。これは黒き鎧を深々と抉り、装甲を斬り飛ばして内奥から捲り上げさせた。砕けた鎧が黒の破片を撒き散らしながら、緋色の刃に押し遣られ、数体まとめて床へと打ち捨てられる。
大斧の直撃を受けた鎧は完全に破壊され、殆ど原形を留めぬ程に変容していた。無人であるが故に天使には容赦がなく、手心無しの全力攻撃で屠り散らす。
「ほえぇ!?」
攻撃を終えた彼女は、蠢く気配の波に気付いて驚きの声を上げた。
首を巡らし探ってみると、何時の間にやら黒の群が彼女を囲んでいる。戦の渦中で歩を踏み続ける鎧共が、四方から迫って少女の退路を塞いでいた。それらと天使の間には、既に幾らも距離がない。黒の集団が剣を掲げ、彼女へ斬撃を見舞うべく、各自が素早く振り下ろす。
「こんのぉぉぉッ!」
視界に入る剣の動き。それをハッキリ捉え、赤の天使が灼度の増した戦意を吐く。
その響きは更に熱く、怒号に近しい喝激が周囲を巡り。自身の声を耳に受け、天使は今しがた倒したばかり、足元に転がる鎧の残骸へ脚を掛けた。両脚に力を込め、鎧を踏み台とし、足裏との接点を蹴り上げて、高らかに跳躍。
天使の体が真上へと舞い上がり、数瞬前までの立ち位置を、黒剣の奔流が切り刻む。
無機質な空間の高き天井へ、近付かんとする赤の少女。彼女の華奢な体が宙空で背中から一回転し、合わせて緋色の戦斧が円を描いた。
軽やかに舞い、美しく回る少女を見上げる鎧達。今の今まで彼女を囲んでいた連中には、その向きが顕著。かくして数秒からなる滞空時間は終わり。
「っやぁぁぁぁぁッ!」
荒々しくも澄んだ活哮が大地へ注ぐ。
声の主たる赤い天使は、自分の体面へと両腕を揃えて振り下ろし、重力の頸木へ引かれるまま落下した。赤の衣をはためかせ、天使が床へと、黒の軍勢へと再び飛び込む。今度は上から、大斧を下向け。
少女天使の体は空気層を打ち、制動も無しに、先の飛翔始点へ一直線から落着した。瞬間、彼女の両脚が踏み叩いた鎧の残骸が完膚なきまでに砕け散り、破片と共に粉塵を巻く。足元の床面には僅かな罅割れが生まれ、前方では真上から打ち下ろされた斧刃に黒鎧が押し潰された。
にも関わらず、少女は無傷。高みから落ち、自重と武器の重量を加味した分の圧力・衝撃が全身へ、特に脚へ掛かった筈だというのに、微かな痺れさえも感じさせない。天使は痛みに顔を顰める事も、小さな嗚咽を漏らす事も無く、すぐさま次行動へと移る。
「とぉぉぉぉりゃぁぁぁらァァァアアッ!」
両手を左右水平に持ち上げて、天使は激号を謳い叫ぶ。
自身の一声を合図として、体内で熱を爆発させ原動力に。両腕を上体毎捻り、戻す反動で巨斧を思い切り振り回した。刃の快閃が赤の軌跡を空へ刻み、過程に在った全てのものを叩き斬る。
周囲へ漂う粉埃の灰煙が、薙がれた斧の風圧で上下に割れた。そのまま霧散し視界が改めて確保された時、緋色の刃が打ち据えた十数の鎧は腕を、胸を、腹を、脇を、事々に各所を断たれ、床の上へ崩れ落ちる。
それでも満足しないように天使は大斧を振るった。新たに近付く黒を頭上から叩き割り、側面から剣を構えて突き込んで来た敵を裂いて飛ばす。返す刃で振るわれた斧刃が、先端に鎧を引っ掛けた。彼女はそれにも構わず腕を動かし、黒鎧を容易く放り投げた。宙を舞わされた鎧は程無くして幾らか離れた床へ頭から落ち、自重に負けて砕けて止まる。
猛攻を続け、並み居る敵鎧を討ち取っていく赤の天使。だがその背後へ、高く剣を構え上げ襲い掛からんとする新たな敵影が立った。
彼女がそれへ反応しようとした時、両脇からも黒の剣が突き出される。反射的に腕を薙ぎ払い、斧刃で二つを叩き落した天使。けれどもその迎撃行動が災いして、背後からの攻め手へ対する気を逸した。
彼女が体勢を立て直した時にはもう、黒剣の斬撃活動は始まっている。
「あっ!?」
天使は肩越し目を見張った。今回ばかりは防ぎようも、躱しようもない事を理解した為に。
黒鎧が誇る尋常ならざる膂力によって、大きく振るわれる刃。風断つ黒の速度が、今正に少女の背中を断ち斬る。
「そこッ!」
空間へ轟いた、凛とした声。
その出所から翠の光が飛び、赤天使の背を皮膚を、獰猛に無遠慮に抉らんとした黒剣へ激突。光の矢が剣を折り、天使の背を守り、次いで剣の所持者が胸部を貫く。
胸を撃ち抜かれた鎧は数歩後退り、只の鎧と同じ様に倒れ、活動を停止。砕けた剣が送れて床に落ち、硬い異音を響かせた。
「わ、わわ、有り難う!」
危機的状況を救ってくれた姉妹天使へ、赤の彼女は笑顔を向ける。
これを受ける翠の天使は柔らかく微笑んで、視線を別方へ移した。その時にはもう真剣で強健な面持ちとなり、左手を動かして新たな矢を番える。
右手を斜め上方へ向け直し、碧の弦を引いて光矢を作ると、一瞬で標的を定めて指を放した。解き放たれた三対の翠光は空中へ飛び、放物線を描いて三方向別々へと飛来する。
翠の一つは歩き行く鎧の頭部、黒の兜へ頭上から減り込み、空洞の鎧内を下って股下までを貫通。
翠の一つは赤の天使を狙う鎧の背後から胸部を貫いて、成す術も無く床へ倒した。
翠の一つは彼女自身へ近付きつつある鎧の兜中心へ斜めに突き刺さり、それ以上の進行を止める。
天使の正確無比な射撃は、それまで一度して失敗していない。全てが狙い通り、鎧という鎧を容赦も憐悲もなく穿ち尽くしてきた。驚異的な集中力、そして胆力の成せる技。
「これで、終わりに」
確固たる決意を込めて、翠の天使は静かに言葉を紡ぐ。
彼女は弓を握る右手を高く天上へと向け上げて、輝く弦に左手を添えた。そのままゆっくりと抓み引き、1本の矢を生み出す。それは翠の明光を激しく発す、今までで1番太く大きな矢。
天使は新生させた大矢を限界まで引き絞り、遥か天空を見据えた。
「します!」
絶対の覚悟を秘めて、天使は言葉を言い切る。
同時に、矢から指を放した。碧の弦が瞬間的に震え、番えていた野太い矢が天井へ向かい飛んだ。彼女は続け様、もう一度弦を引いて1本の細い光矢を作る。そして今撃ったのと全く同じ場所へ次矢を射った。
速度は後発の方が上。先に撃たれた太矢が空間の最頂点まじかへ達した時、後を追うように走る細矢がそれへ命中。二つの光が遠き空中で交わり、翠の閃光で世界を照らす。直後、大矢は数百に及ばんという多量無数の光矢へ変じ、床面一帯全てへと一斉に降り注いだ。
それは正しく光矢の雨。夥しい数の矢が、翠の光が、黒の鎧達を容赦なく襲う。頭上から舞い落ちる矢の榴雨は、黒の軍勢が肩を、腕を、脚を、膝を、爪先を、腹を、胴を、肘を、手を、頭を、全てを射抜き、たちどころに打ち倒した。
回避など不可能。逃げ場など何処にもないのだから。鎧達には無情な翠の洗礼に全身を晒す以外、出来た事はない。
降り頻る翠の矢に撃ち抜かれ、動いていた黒の鎧は床へと崩れていく。次々と、続々と。
その戦いは圧倒的と言えた。天使は僅か2人。対して黒の鎧達は40倍近くに及ぶ。その数的差は圧倒的。
だがそれ以上に圧倒的なのは、天使達の誇る実力である。彼女等は数の不利を物ともせず、正体なき鎧群へ敢然と立ち向かい、これを圧倒したのだ。
天から落ちる無数の矢が終息を迎えると、後にはもう主だった敵の姿はない。ほぼ全ての鎧が幾多の穴を開け、防具としての機能を損ない、床一面へ散ばり果てるのみ。その場へ立っているのは、翠の天使と赤の天使。どちらともに無傷であった。
恐ろしいまでに矢雨が降り注いだというのに、天使達には掠りもしていない。そしてそれは、玉座の傍で依然として倒れたままの鎧着た少女にも言える。彼女の体は先の戦闘で黒軍から受けた傷以外に、新たなものは無かった。
そんな黒一色に埋め尽くされる原野の只中で、赤の天使は両斧を握り直す。彼女の目が捉えるのは、唯一一体立ち残っていた最後の鎧。尤も、それでさえ左肩へ矢を受けたらしく、腕部分が喪失してはいたが。
「これで」
少女天使が両腕を振り上げる。
右脚は深く踏み込み、双瞳に敵を映した。
「終わりぃぃぃッ!」
最後の一喝へ力を込め、天使が床を蹴り上げる。
小柄な体が宙へ跳び、鎧目掛けて急降下。それと共に振り下ろされる両腕。緋色の戦斧が豪速として、黒の鎧を頂点から叩き潰した。
渾身の力で圧壊された鎧は無数に弾け、周囲へ散ばる。その基点へ、赤い天使が髪を揺らしながら華麗に着地した。
「っ―――勝ったぁぁぁぁ!」
床へ降り立つや、少女天使は両手を高らかに突き上げ、戦斧を掲げて歓喜の声を上げる。
それまで纏っていた緊張感を全て解き、硬かった表情を崩し、心底から嬉しそうに、満面の笑みで叫んだ。少女の元気な声が、四角い空間中を満たす。
彼女の姿を見ながら、翠の天使も顔から険しさを消し、柔和なそれへと戻した。弓を掴む手を下ろし、控え目な安堵の吐息を零す。
赤天使のように大声で騒がないながらも、彼女は姉妹へ負けぬ程の喜びを感じていた。胸の奥にて確かな達成感を噛み締めつつ、湧き上がる甘く穏やかな感情に心を浸す。胸中を潤す温かな思いに、天使は我知らず口許を綻ばせた。
「これで、あの子も大丈夫だよね」
ステップを踏むような軽快さで振り返り、赤の天使が笑いかける。
少女の笑顔に面と向かう翠の天使は、朗らかな微笑をそのままに肯定の頷きを返した。
「ええ、そうね」
言葉は少なくとも天使達の心は充分に通じ合っている。
それを証明するように、少女天使は殊更明るい笑顔で、首を大きく縦へ振った。
彼女達の心と体を満たす心地良い充足感。平淡な日常を送っていては得難い感情。その馨しさへ胸弾ませて、2人は視線を絡める。次いで一緒に破顔し、春風を思わせる可憐な笑みを浮かべ合った。
崩れた鎧から漏れ出る死臭によって汚された空間の中、それでも美しやかな清涼さを損なわぬ天使が2人。互いに見詰め合い、笑い合う彼女達は、其処に居るだけで何もかもを浄化しているかのよう。満ち満ちて黒く漂う死の気配さえも、居並ぶ乙女達には近付けないのか。2人の周りだけは生気が芽吹いているように感じられた。
が、しかし。
「や〜れやれ。僕の可愛い玩具達を、随分とケチョンケチョンにしてくれたねぇ」
唐突に、空気が重くなる。
空間全てを覆う死臭が濃度を増し、闇の気が急激に深さを強め始めた。
何処からともなく響いてきた声が、その呼び水。
「僕はね、他人の所有物を滅茶苦茶にするのは好きだけど、自分の持ち物を触られるのはとっても嫌いなんだ」
低く響く、闇色の声。
聞く者の神経を逆撫でするような、気味悪く不浄さを塗り込めた音。
2人の天使は姿なき声に驚きを浮かべ、けれどすぐ表情を引き締めて周囲を見回す。
背筋を這い登る粘つく気配、まるで全身を嘗め回されているような嫌悪感。ただ声が聞こえるだけで、2人はかつて感じたことの無い奇妙極まる感覚に襲われた。どれほど振り払おうとしても、それは引かず、離れず、寧ろ刻々と負の領分を侵しているかのようで。赤の天使は思い切り、翠の天使は控え目に、両者揃って眉根を寄せて、不快感を露にする。
「そんな事されると怒ってね、ついやっちゃうんだ」
怒っているような、笑っているような、泣いているような、抑揚が出鱈目で、状態を把握しきれない不気味な声。
その響きが這い寄り、のたうち、暗く、激しく、天使達を包む。彼女達の目が細まり、武器を握る手に力が込もった。
「こんなふうに」
言葉に合わせて、黒色の風が吹き抜ける。
生臭く、湿っぽく、それでいて逃げ切られず、撫でた相手の体へ纏わり付く、異形の風。
天使達の顔に戦慄が走った。
「ね♪」
直後、赤の天使は背中から床へ叩き付けられ、そのまま勢い良く後方へと滑って行く。
砕けた鎧の残骸が散乱する床を、異常な速度で体が流れ、転がれる破片に頭や腕、肩に脚をぶつけながら。背中を激しく擦りつけ、かなりの距離を走らされた。
「うあぁぁあ! ……くぅぅのぉぉッ!」
天使は全身を襲う激痛に歯を食い縛り、手にする大斧の石突部を床へ打ち付ける。
両手が同時に動き、二つの斧が床を噛む事で、彼女の体進行はやっと止まった。自由が戻るや、少女天使は斧を支えに起き上がる。自分が進んできた道だけは鎧片が綺麗に吹き飛んでしまい、本当に1本道のようで。それを瞳にしながら、天使は最初の立ち位置、基点となった箇所を睨んだ。
「うぅ、ぅ」
天使の唇が震え、苦悶の呻きが零れ出る。
背中の皮膚が幾らか剥けて、血が滲んでいた。ズキズキと痛みも走る。それは背中だけでない。少女の両腕、前腕部分にも、見慣れぬ傷が刻まれていた。赤い衣の袖が破られ、腕にはくっきりと何かに引っ掛かれたような痕が残っている。そこからも血が小さな粒となって滲み、継続的な鈍痛を与えた。
何があったのか、自分が何をされたのか、天使にも判らない。あの気味悪い声が聞こえた瞬間、気付いた時にはもう、腕と背中に強い衝撃を感じて床を滑っていたのだ。
天使の頭が回る。得体の知れない存在を前に、軽度の混乱をきたしていた。
「誰ですか」
不可思議な現象に心乱している赤の天使に代わり、翠の天使が厳しい追求の声を投げる。
そこには有無を言わさぬ迫力があり、凡百の者ならば竦み上がって問われるまま、全てを話してしまうだけの威圧感があった。
けれど、残念ながら返事はない。ただ、空間中を満たす空気の重さと黒さが増しただけ。或いはそれが、『何者か』の答えだったのかもしれない。
翠天使の頬を、冷たい汗が一筋伝う。嫌な予感がした。胸中で燻る不安が、次第に大きくなっていく。恐怖の感情と共に。
少しして、赤の天使が睨み見る空間上に、ぽつんと、小さな黒い染みが生れた。
翠の天使が怪訝な顔でそれを注視した時、染みの一点は墨汁を零したような不規則で非均整な形で、周囲へ広がり出す。拡大する染みは黒い滴りを落とし、それが付いた床からは異臭と黒煙が仄かに立ち昇った。
奇妙な染みはある一定まで広がると動きを止め、今度は巻き戻し映像の如く収縮を始める。但し、広がった時と同じ軌道は辿らない。もっと別の、異なる動きで真ん中へと集まり、しかもそれが人の形になっていた。
黒の染みは、確かに人間の姿を取る。人型へ集まり終わると、今度は黒い炎を放って燃え上がった。燃える染みが、更なる異臭を放つ。臭気が濃くなる事で、それが死臭だと知れる。
一連の光景を見詰めたまま、翠の天使も赤の天使も動けなかった。その染みが何か邪悪な者を顕現させえると本能で直感していながら、四肢が固まったように動かない。彼女達の意思を全く反映せず、指先一つですら操る事が出来ず。
「ぅ……何故、これは」
予期せぬ事態に歯噛みしながら、翠の天使は燃え立つ染みを見守る。
そんな物は見たくなかったが、見る以外には出来なかった。首も動かず、瞬きすら封じられていたから。
その間に、黒の炎は現れた時と同様、不意に掻き消えた。失われた染みと入れ替わるように、その場へ佇む人影を残して。
「ふふふふ、こんばんる〜」
陰惨な声音に乗せて、ソレが笑う。
黄金の欠片が塗された蒼い外套で、全身をくまなく覆う者。笑顔で天使達へ対する者。
そう、ソレは笑顔だった。しかし顔は判然としない。何故ならソレが浮かべる笑顔は固定化されて、それ以外に無いものだからだ。
左右を蒼と金とで塗り分けられたピエロの仮面。天使達が見たソレは、不気味な笑顔で形作られた道化の面。素顔はその奥へ隠され、見る事が出来ない。