2筆目:少女剣士、舞う
白き石壁に囲まれた、広大な空間がある。天井は極めて高く、左右の壁は互いに遠く、奥行きも非常に深い。
豪華な設えも、絢爛たる煌きも、贅を尽くした装飾も、見事感嘆たる意匠も、何も存在しない空間。ただ広く、四角いだけの簡素な世界。
その最奥には、一脚の椅子があった。侘しい空間に1つだけ、唯一と言える調度品。それは大理石をまるごと刳り抜いて作られた、硬質な限りの玉座である。厳格な威風を感じさせるでなく、覇王の威圧を幻視するでなく、ただ其処に在るだけの玉座。
何の面白味もない領域に据えられた、何の面白味もない玉座は、酷く似合いの置物だった。
本当に何も無い、冗談のような謁見の間。そこは生気の欠落した世界。だが対極に、死の臭いは満ち満ちている。原因を探るのは容易い。広間の床一面に転がる、黒き鎧の群が答えであった。
篭手と具足と鎧と兜、黒一色で纏められた全身鎧。盾と剣とで武装したそれらが、床の上に夥しい数散乱する。中身は無い。全てが空。着用者は何処にも居らず、小さな血痕さえ見られない。但し、全ての鎧には濃厚な死臭が染み付いていた。
空間を満たす死の気配は、何も倒れ散ばる鎧だけ発せられている訳ではない。その場の内奥、玉座の近辺に押し寄せる鎧達からも、同様に零れ出ていた。
漆黒の鎧達。全身を覆う完全武装のフルアーマー。黒の盾と黒の剣を携えて、異様な軍勢は動いている。倒れている鎧達と全く同じ形なのは、一目で知れた。
黒の大軍、その総数は数十に及ぶ。倒れている物も合わせると、百でも二百でも利かない。1つ残らず同じ形状、同じ色合い、同じ武装、同じ死臭。そしてどれもが同じ様に、人の気を一切備えず、幽鬼のような足取りで前進を繰り返す。
向かう先には簡素な玉座がある。美的も麗しさもない玉座。そして、その少し前に立ちはだかる1人の少女。
銀の髪を背中まで流した、小柄な少女だ。顔にはまだ幼さが残り、年の頃を15、6と思わせる。切れ長の目には毅然とした光が宿り、意志の強さを示していた。
整った容貌をしているが表情は硬い。小さな唇は固く引き結ばれ、強張った顔は蒼白に寄る。
彼女が着込むのも、また全身を覆う堅固な鎧。ただこちらは白を基調とした物。首から下を完全に包む鎧は、顔以外の肌を一切隠し。若い娘が身に付けるとしては、些か大仰にすぎる格好である。
鎧には随所へ傷が刻まれ、相当な使い込みを感じさせた。おろし立ての新品で無い事は、全面に満遍なく負わされた裂傷と、付着する赤黒い液体の汚れからも知れる。ただ、それが何時頃に付与された物かは判らない。以前からの傷痕なのか、今少し前、並み居る黒鎧達によって負わされた物なのか。
篭手に守られた少女の手には、1本の剣が握られていた。刃は見事に研ぎ澄まされ、鏡のように少女を映す。標準的な幅と、長き刀身の両刃剣。少女は両手で、その無骨な柄を握り、正眼に構えを取っていた。己が視線の中心に刃を据え、その先より、緩やかに迫り来る黒き鎧の軍団を睨み見て。
少女の面貌を覆うのは戦意。四肢に宿るは闘志。全ての向かう先、それは黒の鎧達。互いの関係が敵対以外に無い事は明らか。
刃先から黒群を睨みながら、少女の口が微かに動く。息を吸い、浅く吐き出す。
小さな呼吸を終えて、彼女が前傾姿勢を作った。双眸は細まり、漫然としていた闘争心が一点に集約していく。
鎧達の歩は止まらない。黒い塊は、少しずつだが着実に少女との距離を殺していた。
その先頭に在る一体が、後続の鎧に先んじて1歩を踏んだ。瞬間、少女が駆ける。
「ヤァァァァッ!」
裂帛の気合いを込めた一声を上げ、強く激しい踏み込みから走突。
少女は銀髪を背にたなびかせ、重量物の鎧を着込んでいるとは思えない迅速さで、正面の黒鎧へ肉薄した。
緩慢な鎧とは速度が違う。黒が1歩を刻む前に、白は数歩を後にする。相手の懐へ潜り込むのは、当然にして少女の方が速い。
「ハアァッ!」
更に剛毅な呼気を吐き、少女は黒鎧の正面で手にする剣を大上段に構える。
次いで、躊躇なく振り下ろした。
明鏡の如き刀身が白の鎧を映して光り、そのまま黒の鎧を縦一閃に両断する。
相対物に抵抗する暇はない。頭頂から股下まで、少女の剣が鎧を駆け抜け、黒のそれを一撃で断った。渾身の残撃を見舞われて、黒き鎧は成す術も無く左右へ分かれる。丁度中心、完璧な垂直斬り、その為に鎧は左右対称としてそれぞれ反対方向に倒れいった。
けれど中から何かが出て来る事はない。空っぽ。真ん中から切り開かれた鎧の中、入る者は誰も無く、何も無く、鎧はただただ床へと沈む。
だが少女はそれを見ない。自ら寸断した鎧が崩れ落ちる光景を最後まで眺めず、剣が確かな手応えを得た後にはもう、別所へと意識を傾けている。
最寄の気配を敏感に察知して、彼女は目端で側方を捉えた。迫ってきた新たな鎧が、黒剣握る右腕を振り翳す。上体と共に腰を捻り、体後方へ大きく引いていた。
そこから次の行動までには息つく間もない。歩行速度の遅さに反して、鎧の攻撃速度は尋常に非ず。引いた腕を驚異的速度で引き戻し、黒の太く荒々しい剣身を横薙ぎに振るった。
腕の位置と剣の軌道からして狙いは1つ。少女の首だ。少女の露となっている首へ、色白のそこへ真横から刃を叩き込み、速度と斬れ味を以って断ち切るつもり。あてずっぽの攻撃でなはない。的確な狙いによる正確な斬道だった。
「フッ!」
だが無論の事、少女にこれを受けてやるつもりなど無く。彼女は強い吐息へ合わせ、反射的に身を屈める。
膝を折り、全身を落とし、体勢を低く。
半瞬後、彼女の頭上を、直前まで少女の頭があった箇所を、黒の剣が薙ぎ刈っていく。風を断つ鋭い音が鳴った。
だが、それだけ。敵の攻勢は目標を逸し、失敗に終わる。
「ハッ!」
少女に安堵している猶予は皆無。刃が頭上を抜けると知るや、前へと踏み込みながら落としていた体を再度起こし。熱い息を一声の乗せ、攻撃直後の鎧目掛けて、寝かせた刃を振り払う。
真横に薙がれた少女の剣。それは黒鎧の腰部を捕え、横一文字にこれを斬った。右の脇腹から入った剣が左脇腹を抜け、胴体を両断された鎧が上下でズレる。
上半身と下半身が別々に倒れ行く中、少女はその様子から既に視線を外していた。片足に軸を置き、床を蹴って体向を変える。
斜め前方に立った別の鎧が、彼女へ向かい太刀を振るう。少女を叩き斬る為の一撃。彼女はこれにも素早く反応し、握る剣を黒の軌道へ割り込ませた。急速で下ろされる黒剣と、少女の長剣が刃をぶつける。接触面から瞬間的に火花が散り、黒い兜と少女の顔を同時に照らした。
鬩ぎ合う刃を挟み、睨み合う両者。歯を食い縛り、規格外の力で押し付けてくる敵の攻撃に耐えながら、彼女は黒兜を臨む。対する相手は中に何も入っていない故に視線もなく、ただ空虚な目穴を少女へ注いだ。
拮抗する両勢の力。その関係を破ったのは、群を成して襲う鎧の一体。
膠着状態に陥っている少女の背後に歩み寄ったそれは、黒剣を振り上げ、勢いに任せて振り下ろす。身動きの取れなくなっていた少女の背へ、黒い刃が兇相を叩き付けた。
「あぅッ!?」
少女の口から短い悲鳴が上がる。
背を打った敵撃は白の鎧を砕き、切り裂き、彼女の皮膚をも刃先で抉った。防具のお陰で深い打ち込みは防げたものの、黒の切っ先は少女の柔肌を薄手ながらも裂き、縦に傷口を作る。
割かたれた皮膚の合間から鮮血が滲み、白鎧の下を静かに流れ落ちた。これを設けさせた黒剣の先端にも同様の赤味が付着し、清涼さとは真逆の光沢を放つ。
「くぅ……」
背後からの斬撃をまともに受けた事で、彼女の両腕からは力が抜けてしまった。
その為に対面の鎧が繰り出す押し込みに抗え切れず、敵剣の進行を大きく許してしまう。背中に走る痛みを堪え、腕に力を入れ直すも、これを押し返す事は叶わない。それ以上の攻め手を防ぐので精一杯。しかも背方には尚も敵を置き、周囲からは刻々と新手が迫ってくる。状況は極めて悪い。
それでも少女の瞳から輝きが失せる事はなく。彼女は両眼に宿る決意を一層強め、目へと更に力を込めた。
「おおおおおぉぉォォォッ!」
自身を鼓舞するように咆声を上げ、少女が決死の行動に出る。
正面の鎧と刃を打ち合わせたまま、彼女は右脚を上げ、今正に相対している黒の腹を思い切り蹴った。具足に包まれた脚部が真っ直ぐに伸び、鎧の下腹部を激しく打つ。瞬間、突如生まれた衝撃に押され、鎧は蹈鞴を踏んで半歩下がった。
それまで少女へと押し遣られていた剣が不意に力を無くし、若干の距離を空ける。
即座に彼女は動いた。
「りゃぁぁぁァァァッ!」
気合いの咆哮を上げながら握る剣を斜め方へ振り上げ、敵方の黒剣を弾く。
そのまま手首を回し刃部を縦に直すと、勢い込んで斬り落とした。斜め一閃に走る袈裟懸けである。
背に纏わり付く痛みを意識の外へ追い出し、繰り出されたる清廉一条刀下一擲。その斬れ味絶大につき、黒鎧肩脇を綺麗に寸断せしめた。
右肩から左脇腹までを斬り断たれ、黒の鎧が背中から床へと倒れる。それにも構わず少女は高速的に反転。背後に立っていた鎧の胸へ、剣を突き込む。両腕に込められた彼女の力は年不相応に強く鋭く、黒鎧の胸心を貫いて 刃先を背面より抜き出させた。
「ハッ!」
少女は鎧へ一瞥だけくれると、短な息と共に剣を引き抜く。
直後、彼女の左大腿部へ別の黒剣が突き刺さった。具足上部を砕き、人体へ貫通した剣。少女の目が激痛によって見開かれる。
しかしもう苦悶は漏らさない。痛みに声を上げる力さえも惜しむように、口を固く閉ざし、悲鳴を飲み込み。手傷を感じさせぬ軽快な動作で上体を捻ると、剣を振るって攻撃主たる鎧を撫で斬る。
最初に腕を飛ばされ、次に胴を深く斬り裂かれて、黒の鎧は床へと伏した。その様子にはやはり目もくれず、少女は自分の脚を貫く黒剣の柄を握り、唇を噛みながら一気に引き抜く。鎧の隙間から血が溢れ、抜いた剣先から赤い糸が引いた。
けれどて、心休まる筈などある訳もなく。その最中にまた背中を斬られた。先とは別の位置、左寄りを。
少女の顔が歪む。額に汗の粒が浮き出て、頬を伝い流れ落ちた。その冷たさを彼女が感じる前に、右の脇腹へ真横から剣が刺さる。
相次ぐ痛撃に、少女の目が一瞬霞んだ。が、すぐに持ち直し、砕けてしまいそうな程に強く強く奥歯を噛み締めた。
正面を真っ直ぐに見、向かい来る鎧を睨む。そして、今しがた抜いたばかりの黒剣を片手で掲げ上げ、力任せに投げ付けた。空中を滑る黒剣は何物の妨げも受けず、狙い通りに黒兜の中心へ突き刺さる。
その顛末は見届けず、少女は脚を撓めて腰溜めに剣を構え、一瞬だけ精神を集中。目を閉じて、あらゆる感覚を無に帰すと、微かばかりの息を吐く。
刹那。
目を開けて右脚を大きく踏み、前のめりに上体を寝かしつつ、全力で剣を振るう。それは一体のみを狙ってものでなく、自らの周囲全てを断ち斬らんとする全方位攻撃。半弧を描く剣の軌跡は、彼女へ迫っていた数体の鎧をまとめて胴体から切断。その動きを一撃で封じ込めた。
体を断たれた鎧達が床へ落ちていく。硬い鎧が、同じぐらい硬い床にぶつかって甲高い音を立てた。
少女はその音を耳にしながら、側面へ回り込んでいた無人の黒鎧へ対する。向き直り正面に敵を捉えた後、脇腹に刺さっていた剣を抜き取り、床へ放り捨てた。
「まだ……まだだ」
激痛に焼かれ朦朧となりかける意識を懸命に揺り動かし、敵を睨みながら小声で呟く。自分自身へ言い聞かせるように。
血の気の失せ始めた顔で、尚も目だけは爛々と輝かせ、彼女は動いた。己が前面に立つ新手へ突っ込んで行く。一方の鎧もまた少女の突撃に臆さず、剣を振るって切り込んだ。
互いに前へと進み出る両者が、程無く激突。
黒剣が打ち下ろされて少女の左肩を傷付ける。白い鎧の肩部を叩き割り、露出した肩へと黒の刃を減り込ませ。代わりに少女の剣は突き上げ、まじかに迫った鎧の顎先へ触れさせた。そこから縦一直線に黒兜を打ち抜く。
兜の頭頂を少女の刃が貫いた時、黒剣の動きも止まった。彼女が剣を引くと、黒鎧は糸が切れた操り人形のように倒れてしまう。
鎧の倒壊と共に肩へ一撃を当てた剣も落ちるが、少女はそれを尻目に、玉座の側へと歩き出した。負傷した脚を引き摺るようにして。傷口から流れ出る血が床へ滴り、彼女の移動した後を点々と汚す。
当所の俊敏さを著しく欠いた動きではあったが、少女は敵勢の追撃を受ける事無く石造りの玉座へ辿り着けた。そこで振り返り、後方を見遣る。まだまだ大量の鎧達が犇き、全体の波は徐々に玉座近辺へ近付きつつあった。
「はぁ、はぁ……くっ」
少女の顔には汗の球が幾つも浮かぶ。
口から零れる吐息は荒く、苦しげで、常温以上に熱っぽい。
とうとう彼女は床の上へと片膝をついた。それでも手放さない剣を床へと立て、それへ縋るようにしてなんとか倒れる事だけは避ける。
しかし既に戦えるだけの力が残されていないのは、疑うべくもない。ましてやこの場から逃げ切るだけの体力とて、有る様には思われなかった。
それは誰でもない、少女自身が1番良く理解している。
「まだ、倒れる訳には……ハァ、ハァ……ぅぅ……」
傷口がジクジクと痛み、呼吸するだけでも痛覚が刺激される。
悔しそうに唇を噛み、少女は呻いた。
決意だけは依然として緩んでいないが、体がもう言う事を聞いてくれない。ゆっくりと流れ落ちる血液と共に、自分の命と力が失われていくのを感じた。
「御父様……御母様……どうか、今一度……私に、力を……」
少女は床に触れる剣先を一心に見詰め、切れ切れに言葉を紡ぐ。
覇気も活力も損なった、酷く弱々しい声。
薄まる意識を必死に繋ぎとめようとするも、それとて長くは続きそうになかった。
視界が狭まり、焦点が合わなくなる。耳も聞こえ難くなっていた。近付いてくる筈の多量の足音が、やけに遠い。
全身が刻々と重くなり、剣を握っていた手からも、力が抜け始める。