ちかちゃんとコロ
僕に手を伸ばして泣きじゃくる君。
あぁ…泣かないで。
僕は君の笑顔が好きなんだ。
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僕は中野家の犬。
…と、言っても本当の犬じゃない。
陶器で出来た犬…の、置物だ。
ダルメシアンっていう犬を模してて、サイズも等身大。
結構リアルなんだよ!
昔は結構家の前に置いてる人もいたらしいんだけど、最近はめっきり見なくなったって近所の小瀬さんがうちのママさん…聡子さんと話してた。
僕は家の前に座って、ずっと中野家を見守ってる。
聡子さんのママさんが僕を買って家の前に置いてから、ずっと。
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「コロちゃん、ごはんでしゅよー」
聡子さんの娘、ちかちゃんが僕の前に泥だんごを葉っぱに乗せて差し出してくれる。
僕は動けないし食べられないけど、一緒に遊ぶのは楽しい。
そしてちかちゃんが付けてくれた、『コロ』という名前で呼ばれるのもとっても嬉しい。
僕だけの名前。
まるで本当の犬になったみたいだ。
ちかちゃんはこの前3歳になった。
七五三のお着物を着て、一緒に写真も撮ったんだよ!
赤いお着物がとっても可愛かった。
ちかちゃんは嬉しくて仕方なくて、僕の前でくるくると回って見せてくれた。
聡子さんは4年前、ちかちゃんをお腹に授かって家を出た。
『出来ちゃった婚』って言うんだって。
相手の男の人は挨拶に一度来たきり見てない。
昔、聡子さんのママさんが近所のおばさんに「非常識だ」って愚痴ってた。
たまに聡子さんとちかちゃんだけで帰ってきてたんだけど…聡子さんは来る度に元気が無くなっていった。
腕や頬に痣があることもよくあって、聡子さんと聡子さんのパパさんが言い争う声がよく家の中から聞こえてた。
「あんな男やめて戻って来い!」
「あの人は本当は優しい人なのよ!」
あぁ…ケンカしないで欲しいな。
ちかちゃんが泣いてる。
泣かないで。泣かないで。
君の元へ行きたい。
君の涙を舐めてあげたい。
どうか、どうか、泣かないで。
去年、聡子さんとちかちゃんはうちに帰ってきた。
男の人とはお別れして、ここで暮らすことにしたらしい。
近所の人が家の前を通る時、ひそひそと『出戻ったんですって』って言ってた。
意味はよく分からないけど、雰囲気からあんまりいい言葉じゃないことは分かる。
嫌だな…。
中村家の人を悪く言うやつらは大嫌いだ。
ちかちゃんは小学生になった。
ランドセルを背負って、僕と記念写真。
ちかちゃんは僕より少し大きくなった。
僕の頭をいいこいいこして、「行ってきます」と手を振ってくれる。
学校に向かうちかちゃんの赤いランドセルがピカピカと光っていた。
「コロ、ただいまー!」
ちかちゃんは家に帰るとき必ず僕に声を掛けてくれる。
お友達と遊ぶときは僕の目の前を走り去って行くけど、そうでない日は頭を撫でてくれる。
夏は冷たい陶器の僕に抱きついてきたりもする。
そうすると冷たくて無機質な僕の体にちかちゃんのあったかい熱が伝わって、僕も生きてるんじゃないかって錯覚を覚えるんだ。
それがとっても心地よくて、もっともっとって思うんだけど、ちかちゃんはすぐ他のものに興味を惹かれて離れていっちゃうんだ。
少し寂しいんだけど、でもそのキラキラした目を見れば寂しさなんて吹き飛んで、僕もウキウキしちゃうんだ。
ちかちゃんは小学校を卒業して、中学生になった。
ちかちゃんはテニス部に入って、勉強に部活に忙しくなった。
でも毎日イキイキしてて、僕もなんだか楽しい気持ちになった。
2年目の夏が終わった頃ぐらいからかな…なんだか元気が無くなってきたんだ。
いつもトボトボ帰ってきて家に入る前に立ち止まって溜め息ついて、「よしっ」って気合入れてから明るく「ただいまー」って玄関を開けるんだ。
でも僕は家に入る前のちかちゃんを見てるから分かるんだ。
ものすごく無理して明るくしてるって。
ある日、ちかちゃんが泣きながら帰ってきた。
その手には折れたラケット。
あぁ…誰かに折られたんだね?
僕は怒りが込み上げるのを感じた。
折ったやつに噛み付いてやりたい!
ちかちゃんは玄関の前で一頻り泣いて、涙を引っ込めてから…またいつもみたいに明るく「ただいまー」って入って行った。
最近ちかちゃんは僕に触るどころか、見てもくれなくなった。
それはとても寂しいんだけど、それよりも何よりも、ちかちゃんが元気がないことの方がずっとずっと寂しいんだ。
どうして僕は置物なんだろう?
僕が動けたなら…折ったやつに仕返しできるのに。
僕が動けたなら…すぐにちかちゃんの元へ行って慰めてあげるのに。
座っているだけで何の役にも立たない。
あぁ、もどかしい。
あぁ………悲しい。
でも、涙を流すこともできないんだ。
僕は今日もじっと中野家を見守る。
ただ、ただ…見守ってる。
そんな悲しい日々がずっと続いた。
そして、ちかちゃんは高校生になった。
高校生になるとちかちゃんの雰囲気がガラッと変わった。
親に汚い言葉を使うし、夜も遅くなった。
そして…中野家は雰囲気が悪くなった。
ちかちゃんが帰ればお父さんが怒鳴り、聡子さんが嘆き、ちかちゃんも怒鳴り返して家を出ていく。
聡子さんが縋り付いて引き止めようとするけど…ちかちゃんはいつも振りほどいて行っちゃうんだ。
でも、僕は気付いてる。
振りほどく時、ちかちゃんはいつも辛そうな顔をしてるんだ。
ちかちゃんは、あの頃のまま…優しいままなんだ。
お願い。ケンカしないで。
お願い。怒鳴らないで。
お願い。泣かないで。
お願い…みんな、笑って…。
ある日、ちかちゃんが家に帰って来たとき、なんだか様子がおかしかったんだ。
後ろをビクビクしながらキョロキョロして、逃げるように玄関に入って行った。
何かに…怯えてるみたいな…。
僕は動けないなりに門の外を一生懸命確認する。
すると…ちかちゃんより少し年上くらいの男の人が中野家を覗き込んでたんだ。
そうか。ちかちゃんはこの人に怯えてたんだ…。
あぁ、ちかちゃんに知らせたい。
どうか何も起こりませんように。
ちかちゃんはその後もいつもビクビクしてた。
男の人もいつも隠れてちかちゃんを見てて…あぁ、もどかしい。悔しい。
ちかちゃんを守りたいのに…。
そして事件が起こった。
ちかちゃんが玄関から出た時、素早く男が近付いてきて僕の目の前でちかちゃんの腕を掴んで引きずって行こうとしたんだ。
「や…やめて!やめてよ、離して!!」
「煩い!黙れ!ちかは…ちかは俺のだ!」
ちかちゃんが危ない!!
明らかに男の力はちかちゃんより強くて、ちかちゃんが必死に抵抗してもずるずると引きずられて行く。
やめて!やめて!
お願い!ちかちゃんに酷いことしないで!
いやだいやだいやだいやだ!!
助けたい…。助けたい!
僕はどうなってもいいから。
お願い。お願い。お願い。お願い。
ちかちゃんを助けて!
神様!お願い!!お願いだよぉ…!!!
その時、僕に雷が落ちた。
いや、落ちたと感じただけで本当は落ちてなかったのかもしれない。
すると…自分の感覚が研ぎ澄まされるのを感じた。
鼻に当たるささやかな風。
足の裏に感じる土の感触。
庭の植木の緑の匂い。
そして…体が動く感覚。
今なら…今なら!!
僕は初めて筋肉を動かす。
そして力いっぱい男に飛び付いて、腕に噛み付いた。
「うわぁ!?」
「きゃぁ!」
男は吃驚してちかちゃんを離した。
「離れ…離れろ!」
「ぐるるるる…!」
男は僕を振りほどこうとする。
力いっぱい殴ってくる。
痛い。
これが痛いっていう感覚なんだね。
ちかちゃんが小さい頃、転んでよく「痛いよ〜」って泣いてたっけ。
確かに痛いのは嫌だね。
ものすごく辛いや。
でも僕は離さない。
痛いのは嫌だ。
でもちかちゃんが痛い方がもっと嫌だ。
ちかちゃんを助けることができるなら。
何でもあげるから。
何でもするから。
ちかちゃんが笑ってくれるなら、僕は幸せ。
「ふざ…っけんな!!」
「キャイン!」
男は渾身の力で僕を殴り、噛まれた腕を大きく降った。
僕は激痛でうっかり口を離してしまい、そのまま遠心力で木にぶつかる。
ガシャーーーーン!!
僕は、木にぶつかった瞬間、元の陶器に戻った。
そして…粉々に割れてしまった。
「キャー!!コロ…コロ!!」
ちかちゃんが顔を真っ青にして僕に駆け寄ろうとする。
でも男がそれを許さない。
「手間取らせやがって…!おら、来い!!」
「いや!離して!」
やめてやめて…!
お願いだ!誰かちかちゃんを助けて!!
誰か!!
「そこ!何やってる!?」
「なっ…!?」
「っ!!助けて下さい!!」
たまたま通りかかったのか、誰かが通報してくれたのか、お巡りさんが男を取り押さえる。
良かった…。
僕は割れて倒れてしまっていて、視界がなんだかおかしい。
地面が左側にあって、空が右側にある。
目の部分にもひびが入ってしまっているのか、視界にズレがあってちょっと見づらい。
そんなことを呑気に思っていたら、ちかちゃんが近付いてきて震える手を伸ばしてきた。
「コロ………、あなたが助けてくれたの?ごめんね…こんなに割れちゃって…ご…ごめ………ごめん。ごめんね………っ!!」
ちかちゃんがボロボロと涙を流しながら僕の破片を撫でた。
嗚咽を漏らして悲しそうに、僕を見ながら泣くんだ。
あぁ、ちかちゃん。泣かないで。
僕は君の笑顔が好きなんだ。
僕は君の笑顔のためなら何でもしたいんだ。
神様、ありがとう。
僕にちかちゃんを守らせてくれて。
結局僕には時間稼ぎしか出来なかったけど、ちかちゃんが無事で良かった。
本当に、本当にありがとう。
ちかちゃんが泣いていると、聡子さんが帰ってきた。
聡子さんは警察がいるしちかちゃんが泣いてるし僕は割れてるしですごく吃驚してた。
「ちか!大丈夫!?」
聡子さんがちかちゃんに駆け寄ると、ちかちゃんは聡子さんに抱きついて大声で泣いた。
聡子さんはちかちゃんをぎゅっと抱きしめて、「大丈夫。大丈夫よ」って何度も声を掛けてた。
うん、中野家はきっと大丈夫。
僕は割れてしまったから…きっと捨てられてしまうけど、中野家はもう大丈夫。
なんとなく僕はそう感じるんだ。
幸せだったな。
僕はとっても温かい気持ちで、何度も何度も神様に感謝した。
すると…少しずつ…視界が暗くなって………。
*****
「あれっ!?コロ…!?」
ふと割れてしまったコロに目を向けると、そこには破片ひとつ落ちていなかった。
「コロ………」
また涙が溢れてきた。
私が小さい頃から家にあったコロ。
置物だから鳴かないし尻尾も振らないし、手を舐めもしない。
でも見守ってくれてるみたいな優しい目が大好きだった。
夏場はすごく冷たくて、コロに抱きつくのが大好きだった。
そうするとひんやりして、私の熱がコロに移って、おんなじ温度になっていって…それがなんだか嬉しくて、全身で抱きついてた。
中学校に行ってイジメに合って…だんだん自分のことしか見えなくなって、コロに目も向けなくなって。
高校になってからなんて存在すら忘れてた。
それなのに…。
それなのにコロは私を守ってくれた。
何度アイツに殴られても必死に喰らいついて、私を守ってくれた。
怖かったでしょう?
痛かったでしょう?
こんなに酷い持ち主のために…。
ごめんね…ごめんね…。
「コロが…守ってくれたのね…」
お母さんが呟いた。
どうして忘れてしまったんだろう。
私の大切な友達だったのに。
私は嗚咽を抑えることができなかった。
「あら…?ちか、あれ…!!」
「…?」
お母さんが何かに吃驚しながら私の肩を揺する。
そしてお母さんの目線の先を見ると…
「わんっ!」
私は目を見開いた。
いつもコロが座っていた場所に、ダルメシアンの子犬が座っていたのだ。
その子犬は尻尾をぶんぶん振って、私を見ている。
前足は我慢できないと言った風に、今にも走り出しそうに足踏みをしている。
「コロ…?」
「!!…わんっ!!」
私が名前を呼ぶと、待ってましたと言わんばかりに駆けてきて私に飛び付いた。
「コロ、おまえ…神様に犬にしてもらったの?」
「わんっ!」
コロの尻尾は千切れそうなくらい左右に振れている。
私の顔を、涙をペロペロと舐めてくれる。
ずっとこうしたかったんだ!
そう言われているみたいで、嬉しさが溢れる。
舐めてくれたのに、また新たな涙が溢れてくる。
「コロ…ありがとう。ありがとう…!!」
私は泣き笑いでコロにお礼を言う。
お母さんがそんな私の背中を擦ってくれている。
その目はとても優しくて…あぁ、私は今まで何をしていたんだろう?
甘えれば良かったんだ。
跳ね返すだけじゃなくて。
全身でお母さんに、家族に甘えればよかったんだ。
イジメのことも、例え解決はしなくても。
でも絶対に家族は味方になってくれる。
どうしてそんなことが分からなかったんだろう。
高校ではひとりになりたくなくて、友達に合わせて。
でも全然楽しくなんてなかった。
家族を悲しませてるって分かってたから。
私は私にしかなれないのに。
でも絶対家族は…コロは、何があっても受け入れてくれる。
もう、大丈夫。
「ふふ…コロ、大好きよ」
「わん!わん!わん!」
もう、間違えない。
「お母さん、この子飼っていいでしょう?」
「何言ってるの…。前からうちにいたでしょう?」
お母さんと笑い合う。
あぁ、久し振りの優しい空気。
きっとこれからも苦しいことはある。
でも、その後にはきっと幸せが待っているから。
逃げても、泣いてもいい。
でも、諦めない。
ね、コロ。
読んでくださってありがとうございます!
嬉しいです!!