七話
昼前に調査は終了した。結果的に母さんにかけられていた魔術的なものはすでに消滅し、害をおよぼすようなことはなかった。池田はそくさくと帰り、俺達は祖母に昼食をしきりに勧められたものの、優がやんわりと断り帰宅した。俺は帰ると、自室のベットに倒れ込む。ベットのバネは俺の重みを優しく受け止めた。目を閉じる。とりあえず、眠りたかった。頭の中にはまだ母さんとの会話が木霊していた。
視界いっぱいな暗闇が広がる。手探りで部屋の灯りを点ける。枕元の時計は夜の十一時を回っていた。喉が乾燥してざらつく。ふらつく頭を振って意識を覚醒させる。水を飲むために俺は台所へと向かった。
「あれ、颯さん?」
風呂上がりなのだろうか、パジャマ姿で首にはタオルを掛けた輝石と目があった。
「ずいぶんと眠ってましたね」
「ん……ああ」
「ご飯温めます?」
「いや、いい」
輝石はゆっくりとこちらに近づいて来る。輝石は心配そうな表情を浮かべた。
「颯さん。泣いてるんですか?」
「え――」
そう言われて、目尻に触れると濡れていて腫れているのがわかった。
慌てて、涙を拭う。大丈夫、何でもないと言おうとして、言葉が詰まった。輝石が俺を抱き締めたからだ。また、あの痛みが襲って来ないかと身構える。しかし、届いたのは温もりだった。俺は流れる涙を拭おうともせず、気づくを抱き締めた。
それから俺は子供のように輝石に連れられて自室に戻った。俺がベット寝転ぶと、隣に輝石が滑り込んでくる。
そのまま輝石は俺を優しくあやすように抱き締めた。俺は母親の胸で眠る子供のように眠ってしまった。
体を湿った何かがくすぐる感触がする。起きると輝石の顔が目の前にあった。心臓の鼓動が急速に加速する。輝石は慌てたように手を後ろに組みながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「おはようございます。颯さん」
「ああ、おはよう」
朝の挨拶をする。すると、昨晩のことを思い出して急激に恥ずかしくなる。恐らく、今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろう。
「っ……着替えるから出てけよ」
「はい。それじゃあ、失礼します」
輝石は何故だかご機嫌のようで、足取り軽やかに部屋を出る。俺も手早く、着替えを済ませると自室を後にした。
そして、俺が輝石の悪戯に気づいたのは洗面台で顔を洗った時だった。いつものように鏡を覗き込んだ俺は自分の顔に落書きされていることに気づく。今朝の湿った感触はこれだったのかと合点がいった。とりあえず俺を探すことにした。
「輝石‼」
叫びながら、輝石を探して屋敷の中を走る。ほどなくして、輝石を廊下の一角で発見する。
「この、小学生のような真似しやがって」
「嫌ですねえ、颯さん。そんなに怒らないでくださいよ。おかげで昨晩はいい夢見れたでしょ?」
輝石のその発言で、またもや昨晩の自分の醜態を思い出す。
「う……」
俺の勢いはそれで完全に停止した。
「冗談ですって。すいません、颯さん。水性ですから洗えば落ちますよ。私が洗いましょうか?」
「いい。自分で洗う」
俺は洗面台に再び向かうと首や顔を丹念に洗う。輝石の言う通り、線は綺麗に落ちた。
食堂に向かう。そこには輝石と刹の姿があった。
「おい、優はどうした」
俺が二人に問い掛ける。
「優さんは塾ですよ」
「ふーん」
優の優等生っぷりはやはりいつでも健在のようだ。俺たちは黙々と朝食を食べる。昨日の夕飯を抜いたせいか、やけに美味しい。刹も昨日の母さんとの会話が尾を引いてるのか普段にまして静かだった。俺たちは朝食を食べ終わると、輝石は紅茶を入れる。
「颯さん、刹さん、紅茶飲みません?」
輝石がお茶に誘う。
「じゃあ、もらおう」
「いただきます」
俺と刹はその誘いに乗ることにした。紅茶を飲みながら、雑談する。
「そうだ、颯さん。屋敷の裏の竹林に行ってみませんか?」
「何でだ?」
「ちょっと面白いものを見つけたんです」
「そうか」
今日は何もやることがないし、昨日の借りもある。
「じゃあ、紅茶飲んだら少し行ってみるか」
「はい」
だから、俺は輝石の提案に乗ることにした。
竹林の中を進む。輝石の案内のもと辿り着いたのは、小さな広場だった。
「なんだこれ、魔方陣か?」
下を見ると石畳には幾何学模様が描かれている。
「なんだこれ。家の術式とはまるで違う」
しかし、家の敷地内にも関わらず魔方陣の形式は見たことのないものだった。
「そうですね。これは私の家系の術式ですから」
輝石はそう言いながら、前に進む。
そう言えば、輝石の実家は元々この近くに根を下ろしていたはずだ。
「なるほど。そうだ――――」
俺はそう言いかけて、飛び退く。
俺の首を刈らんと空中を鎌が走ったからだ。鎌は鎖に繋がれているようで、竹林の中に消えていく。
「誰――――」
言い終わらぬ内に、鎌は再び飛来する。それは先程と同じ軌道を描いて、首を狙う。俺はまたもやそれをかわす。しかし、突如として鎌は軌道を曲げ、俺の右腕を切り落とした。
「――――――――」
声に成らない痛み。俺は輝石の方を向く。せめて謎の襲撃者の魔の手から輝石だけでも逃がさなくては――。
輝石は笑っていた。それで、俺はなんとなくことの顛末を悟ってしまった。俺は三度目の鎌の襲来を勘を頼りに避ける。鎌は再び軌道を変えて襲いかかってくる。俺は魔術を駆使して自身を襲撃者と反対方向に吹き飛ばす。
「くっ、う、あ……」
切り裂かれた腕が着地の衝撃で爆発しそうなほどに痛んだ。全身が震える。その時、自分の体にの線が浮かび上がっていることに気づく。どこかで見たことのある光だった。そう、父親が俺が小さい頃、手品ように見せてくれた異界試験薬が反応した光だ。それは幼い頃の傷を生々しく浮かび上がらせるようで、まさに切り取り線であった。俺は今朝のことを思い出して、こんなときなのに苦笑すらしそうだった。俺は意識を目の前の襲撃者に向ける。俺はなんとか言葉を発しようとした。よだれがだらだらと垂れ落ち、まともに話すことすら出来ない。
「おい、お前、刹だろ」
震える口を懸命に動かして声を出す。
「――――」
林の奥から刹が出てきた。刹は鎌を構える。俺も相対するように左手を挙げた。右腕を失ったのが痛い。普段は右腕で世界に変化をもたらして魔術を行使するトリガーとする。左手ではいつも通りの魔術行使は困難である。魔術の威力、精度、発動時間のすべてが低下する。俺は刹を見据える。鎌が鎌首をもたげて俺という獲物を狙う。
「霹」
俺は雷撃を刹に落とす。しかし、霹は発動しきる前に存在を切り裂かれた。
「――時空断絶」
俺は刹の行使した魔術をそう判断した。それは本来ならありえない結論だ。なぜなら、時空断絶は氷見家の最終目標の一つだからだ。刹は兄弟の中で一番の落ちこぼれだ。その刹がその魔術の行使に成功したということは――――。
「そういうことか……」
鎌が俺の肉に食らい付こうと迫る。
俺は再び魔術で自身を吹き飛ばす。もはや、自身への衝撃など考慮してはいられない。
「うっ、あぁ、うっう……」
地面に叩きつけられる衝撃で傷から痛みが走り全身を貫いた。しかし、鎌は俺の頬を切り裂くのみにとどまる。
素早く立ち上がる。立ち上がろうとした。そして、転んだ。立ち上がる、転ぶ、立ち上がる、転ぶ。理解出来ない。俺の両足は無かった。さっきの間に切り飛ばされたのだ。刹がこちらに迫る。
「あー、あっ、あーー」
俺はありったけの魔術を片っ端から発動速度優先で刹に向けて叩きつける。それを刹は紙切れのように切り裂く。ついに、ストックしていた魔術が切れる。先日の荒牧との一戦に加え、道場の封鎖により魔術をストック出来なかったことが原因だった。鎌が刹の手から放たれる。それは最後まで抵抗していた俺の左腕を切り飛ばした。
「お疲れ様です。刹さん」
輝石の声がする。輝石の軽い足音が俺の元へと近づいて来た。
「すいません。颯さん」
輝石が地面に横たわる俺を覗き込むようにして頭を下げた。
「お詫びに、理由を全部話します」
その様子は本当に申し訳なさそうだった。
「これは、私の親と颯さんのお父様との契約から始まるんです。颯さんが幼い頃、大怪我をしてもう助からないと知った、颯さんのお父様はあちこちを調べました。そして、颯さんを救う手だてを発見したのです。その方法は私の体を移植するということでした。颯さんのお父様は当時、神童と呼ばれていた私を私の両親から大金で説得して引き取りました。そして、私の肉体が持つ、己の肉体を最適解するという魔術適正を利用して、颯さんの体に私の手足と内蔵を移植しました。拒否反応は私の魔術適正で発動せず、私は自らの魔術適正で手足と内蔵を再生させました。しかし、その時、颯さんのお父様は私と颯さんを魔術に繋げしまったんです。それはある意味当然です。私の手足と内蔵は私を離れた時点で魔術適正を喪失してしまいますから。ですから、私はずっと自身の肉体が手足と内蔵を求める痛みに耐えなくてはならなかったんです。まるで剃刀を体に差し込まれたような痛みに。それで私は自分の肉体を取り戻す為に、このような犯行に至ったのです」
すみませんでした、と再び頭を下げる輝石。
「それで、颯さん。なにか言い残すことは有りますか?」
なければ、内蔵を取り戻す為に殺すという事だろう。
「なるほどな。今までの行動が全部合点いったよ」
「そうですか」
輝石はそう答えて、薄く微笑む。
「この、くそ女が‼ 俺にベタベタしといて、刹と組んでやがったビッチめ‼」
俺は輝石に向かって叫ぶ。後ろの刹が少し揺れる。
「私の為ですか? 颯さん」
「……なんだと」
「私が罪悪感を持たない為の演技なんですか?」
「ちっ…… お前の為わけないだろ」
颯さんマスターの私が外した、と輝石が下らないことをほざく。
「そうですか。他に言い残す事は有りますか?」
俺は首を横に振った。
輝石が下がり、代わりに刹が前に出た。刹は鎌を構える。
そう、輝石がこの程度でどうにかなるわけがない。あの暴言は刹の為だ。輝石は誰にも弱味を見せず、ずっと笑顔だった。そんなあいつが唯一弱味を見せた相手が刹の筈だ。なら、こんなことで輝石と刹が気まずくなることなんてないんだと俺は思った。
冷たい鋼が俺の肉体に深く突き刺さる。
そして―― 暗闇に落ちた。
氷見家の朝は忙しい。
「輝石、私行くから戸締まりよろしくね」
優は玄関でそう輝石に呼び掛けた。
「はい、いってらっしゃい。優さん」
「あと、刹は放課後道場に行くから、遅くなるって」
優はドアを開けながら、そう付け足す。
「はい。分かりました」
輝石は頷いて、答える。輝石は優を見送ったあと、急いで自分の準備に戻る。低い日差しが輝石の顔にかかり、輝石は目を細める。夏ももうすぐ終わりを迎える。




