90話
「そう。その条件ならお断りします。当然ね」
ディアーネの冷たい声が扉越しに聞こえる。それと同時に、ディアーネの魔力が膨れ上がったのが分かった。
……ディアーネの力の源は、憎悪だ。つまり、そういうこと。
「そう言うだろうと思ったがね。……だが、改めてもう一度言おう。ディアーネ。魔道競技大会へ出場しなさい。そして、同じく魔道競技大会に参加する勇者様か、或いはティーナに負けなさい」
「お父様ともあろうお方が、お姉様の実力を信じていらっしゃらない、という事かしら?」
ディアーネの皮肉めいた物言いにも、クレスタルデ伯は動じなかった。
ディアーネの親父さんだし、大都市クレスタルデの領主なのだから、当然と言えば当然かもしれない。
「勇者様には私から個人的な投資をしていてね。今後、世界に対して勇者様の力を見せつけていく必要がある。そのために『クレスタルデの娘』に勝った、という事実は有効だろう」
『投資』。アンブレイルに、クレスタルデ伯が。
……何をしたのかは分からないが、とりあえず、これで『クレスタルデ』が俺に対して非協力的であることは間違いなく読めたな。
「……だが、クレスタルデ家に『負けていい娘』は居ない。……そう、ディアーネ、お前を除いてね」
「ええ。そうね。『できそこない』が負けたところで、クレスタルデの名に傷はつかない。そう仰るのね?」
「ああ、そうだ。ディアーネ、お前はとんだできそこないだが、帝王様より炎の石を賜る名誉を受けている。勇者様の名声には十分だろう」
俺の隣で、ヴェルクトが至極気まずそうにしている。
……ここん家はこうだよ。こんなかんじだよ。
平民のヴェルクトには理解できないだろうが、貴族なんてどこの家でも大小の差こそあれ、大体はこんなもんだ。
ここは家族が家族に優しい世界じゃない。ある意味、どこまでもシビアでビジネスライクな……ネビルムみたいな暖かさとは、無縁の世界である。
「勿論、お前が頷くとは思っていない。……そこで、だ」
クレスタルデ伯がドアの向こうで動く気配があった。
何かを取り出した、のだろうか。
「……これは」
「お前が優秀なら15になった時に渡すはずだったものだな。……クレスタルデ家の紋章だ」
ディアーネは、クレスタルデの『紋章』を持っていない。
クレスタルデ家の紋章って何か、っつったら……とっても簡単に言うと、『クレスタルデ家の一員である証明』であり、『クレスタルデ家の一員として認める』っていうものである。
本当はこれ、15になったら貰えるものだから……ディアーネは去年の内に貰っているはずだったものだ。
これが無いと、正式に『クレスタルデ家』であると認められない。
誰が認めないかっていうと、まず、貴族。他の貴族たちと肩を並べることができないという事だ。紋章が無いなら正式な家の子じゃない、って事になるからね。
そしてそれ以上に問題なのが……王。ヴェルメルサ帝王が、認めない。そういう法っていうか、儀式があるっていうか……。
……手っ取り早く言うと、『クレスタルデ家の紋章』を持っていないと、『ディアーネがクレスタルデ領の領主になることができない』。
勿論、紋章さえあれば領主になれるって訳でも無い。当然。今の状態だったら、順当にティーナが領主を継ぐだろうし、ティーナが継がなくてもメイアが継ぐだろう。
ただ、領主になるなら最低限、クレスタルデ家の紋章は持ってないといけない。
紋章を持っていないディアーネはまだ、スタートラインにすら立てていない状態ということに他ならない。
……0%だった可能性が、0.1%になる。
これは、そういう取引だ。
「……あら、お父様ったら、随分と大盤振る舞いをなさるのね?……私にクレスタルデを下さるなんて」
先に言葉を発したのはディアーネだ。
その声は蜜の様に甘くすらあるが、俺には毒に思える。
捕食対象を捕らえ、動けなくするための毒。動けなくなった獲物を嬲って、食い殺すための毒だ。
「勘違いするな、ディアーネ。ただお前をクレスタルデの末席として認めてやるというだけの話だ。それと領主の座とを同じにしてもらっては困る」
「いいえ、同じだわ。……私にとってはね」
そして直後、ちゃり、と、鎖がぶつかり合う高い音が微かに聞こえた。
……ディアーネは手に取ったのだ。紋章を。
「分かりました。お父様。確かにその役目、お引き受けしましょう。代わりにこの紋章と……クレスタルデを頂きます」
姿が見えなくても分かる。
今、ディアーネの瞳の奥で、火が燃えている。
それから俺達はドアの前を離れて、勝手にディアーネの部屋に上がりこんだ。
そこにはもうお茶の準備がしてあったので、お茶の淹れ方を指南しつつ、ヴェルクトに淹れさせた。
城勤めになるならこのぐらいの教養はなくちゃ困るからね。
「……ディアーネは、負けるのか」
「ま、それが契約内容だからね」
クレスタルデ伯の事だ。当然、きっちり内容を契約書に記すはずだ。
ディアーネは契約内容を反故にすることはできないから、ヴェルメルサ魔道競技大会に出場して、アンブレイルかティーナに負けなければいけない。
「……そうか。……いいのか、それで」
「ディアーネがいいっつってんだから、俺が口出すことじゃねーよ」
「……そうか」
ディアーネの夢は、クレスタルデを手に入れることだ。
その道中で泥を啜る必要があるとディアーネ本人が判断したなら、俺が口を出す筋じゃない。
「……俺は、嫌だ、な」
「……お前が口出すことでもねーよ」
ヴェルクトは唇を引き結んでいる。納得のいかない顔をしている。
「……分かっている。……嫌なのは俺じゃない。ディアーネだ。それも、分かっている」
だから俺はヴェルクトの頭をがしがし撫でておいた。ディアーネと、俺の分まで撫でておいた。
「ごめんなさい、お待たせしたわね」
それから少しして、ヴェルクトがやっと『ふて腐れた』ぐらいに戻ったころ、ディアーネが部屋に入ってきた。
「……シエル、もうお聞きになったかしら?」
「ん」
「そう。ならその話は後にして、先に……こっちね」
ディアーネは涼しい顔をしているが、内心で何を考えているのか、俺には良く分かる。
『何も考えていない』。
考えることが冷静な判断を妨げることがある。今のディアーネはそれだ。
……だからあえて、ディアーネは自らの感情をコントロールするために『何も考えていない』。
「シエル、これで間違いないかしら?」
そしてディアーネは、厳重に封印された鏡台の隠し引き出しの中から1つの魔石を取り出した。
「ん。間違いない」
触れて確かめるまでも無い。
その魔石の中には俺の一部だったものが入っている。
懐かしい、を通り越して、痛みすら感じるような、そんな感覚。
「……万一って事もある。それ、ディアーネが持っててくれ」
「そうね。万一、シエルが触れて中の魔力を吸ってしまったら取り返しのつかない事になるものね」
きっと、触れたら欲しくなるだろうなー、って、思う。そのぐらいは分かるのだ。
……ただでさえ、今の俺はありとあらゆる魔力に触れる時、理性でそれを吸わないように自らを制御しているのだ。
簡単にやってるけど、簡単な事じゃない。理性と本能との闘いなのだから。
ま、俺程の人物の理性ともなれば、本能ぐらい簡単に伸せちゃうんだけど。だけど……流石の俺も、自分の魔力に触れて、本能を御し続けられる自信は無かった。
「もうしばらくの辛抱、って事だな」
……どうせあと少しすれば『俺の魔力』なんて、掃いて捨てても捨てても捨ててもごみ処理業者が間に合わなくなるぐらいにあり余る。
それまでの辛抱なのだ。むしろ、それまでが楽しい位に思えてくるさ。
さて、これでやっと、クレスタルデに来た目的が果たせた。俺は、ね。
「……で、ディアーネ。そろそろへーき?」
「ええ。ありがとう、シエル。……これよ」
少し時間を置いて、ディアーネは早速立て直したらしい。
ややぎこちない手つきではあるものの、『契約書』をテーブルの上に乗せた。
「早速、『確認』をしましょう。……手伝ってくれるかしら?」
そして、ディアーネは、瞳の奥に爛々と火を灯し、俺に笑いかけたのだった。




