1ペインの悪夢
1ペインの悪夢
しんと静まった船の中
少年は眠れずにデッキに佇んでいた
一年に一度だけ奉公先から家に帰ることが出来る日
嬉しさのあまり寝る事などできないのだ
潮風を受けながら水面を見下ろす
恐ろしい闇色の海も
満月の光りを反射して光沢を帯びる
あまりに大きな月が落ちてきやしないかしら
そんな心配など知らぬげに月はやわりと闇を侵蝕している
肌寒さも手元の暖かいお茶のため気にならない
赤いお茶も月光を跳ね返して光る
胸元を飾る水晶のペンダントもきらりと光った
少年は何だか幸せだった
明日には両親にも妹にも会えるのだ
奉公先のおやじさんがたまにくれた小遣いも使わずに貯めた
故郷のハーナおばさんの店で妹の大好きなお菓子を買ってやろう
それとも可愛いリボンを買ってやろうか
でも欲を言えば
あと余分に1ペインあればいいと思う
そうすれば妹に星のように美しいキャンディーをお土産にできるのに
港のショップで見つけたキャンディー
初めて見たとき本当に食べれるのかしらと疑問に思ったものだ
カップの中で砕けた月の光はペンダントの中を巡った
「君の願いは何ですか?」
少年は突如聞こえた声に驚き後ろを振り返った
そこには全身を黒衣で纏めたものが立っていた
少年は目を丸くする
少年が甲板に出た時には確かに他の人間が甲板にいたが
今目の前に居るものとは明らかに違う
視線を巡らすと
もう一人の人間がいた
少年より先に甲板にいた者だ
艶かしい女だった
そちらも驚いたように黒衣のものを見つめている
「・・・あの」
「私は月夜に呼び出される魔物ですよ」
おろおろと視線をさ迷わす少年にそれはフフッと笑った
「まもの・・・」
「ええ願いを叶えるためのね。」
それに呼び出されたのですと魔物は少年のペンダントを指差した
満月に導かれて現れる魔物をジンと呼んだだろうか
そんな話をずっと昔に聞いた気がする
ああ、そうだ
まだ家にいた頃に寝物語として聞いたのだ
『とても大きな満月の夜にはねジンが現れるんだよ
彼はとっても気まぐれで
時に願い事を叶えてくれる』
「さぁ、願い事はなんですか?」
願い事?
自分の願い事は・・・
ああ、そうだ
あと1ペインあったら
少年が考え込んでいたら向こうから女が近づいてきた
少年には目もくれず、魔物を凝視している
「なんでも叶えてくれるのかい?」
女は甘やかな声で尋ねた
「願い事によりますが」
「不老不死なんかもかい?」
「場合によりますね」
魔物は質問に答えながらも女のほうをチラッとも見ない
あくまで契約者は少年なのだ
「ぼうや。願い事はなんなのさ。」
女は鼻を鳴らしながら言った
「・・・1ペイン」
少年の声は小さかったが、ここは寝静まった船の上
「1ペインですか・・・?」
「1ペイン!」
女は叫んだ
1ペインなど彼女の一回の食事代にも遠く及ばない
彼女の形の良い爪一枚とてもっと金がかかっている
「ぼうや。私が1ぺリオンあげるから、私の願い事を叶えさせておくれよ。」
1ぺリオンは100ペインである
それだけあったら小さな店の菓子など全部買ってお釣りがくる
「1・・・ぺリオン?」
少年には縁もない金額だった
すごい額であることは分かるがいまいち現実味がない
「でも・・・1ペイン」
そう
少年のほしいのは1ペインなのだ
星のキャンディーを買うための
「1ペインなら文句無いんだね」
女は少年に1ペインコインを投げつけた
銀色の光りは少年の手に滑り落ちた
「ほら、これで私は願い事を買ったんだ。いいだろう!」
少年はこくりと頷いた。
「ありがとう」
少年は律儀にお辞儀をして礼を言ったがもはや女の目には映っていなかった
女はぬらりと光る唇を笑みの形に歪めた
「さぁ、私の願いを叶えておくれ」
「・・・いいでしょう」
魔物はため息をついたようだった
「あなたの願い事は何ですか。」
「見て」
女は自分に手を当てた
「象牙のような肌。金糸の髪。エメラルド色の瞳。珊瑚のような唇。ねぇ、美しいでしょ?」
女が言い張るとおり、女は美しかった
肌には傷一つ無く、髪は月の光すら眩むほど
深い色の瞳は誰をも惹きつける
均整の取れたからだのラインは名工による彫刻のようだ
「努力の賜物よ。」
「これが失われるなんて御免だわ。私ずっと美しいままでいたいの。」
女は魔物を真正面からとらえる
「さぁ、叶えて頂戴」
「ずっと美しいままで・・・?」
「そうよ」
―象牙の肌、金糸の髪、エメラルドの瞳、珊瑚の唇、真珠の歯、桜貝の爪・・・
「ええ、良いですよ」
魔物は嗤った
どんな絵画の魔物よりも禍々しく
どんな名工の彫刻よりも美しく
「美しいままでね」
潮風が魔物の衣を翻す
深海よりなお深い闇が眼前を埋め尽くす
―もっと美しくなりたい?
それは暗く甘美に浸透する闇の言葉
「もちろん」
無知な人間は耳を塞ぐ事を知らない
―いいでしょう
―象牙の肌、金糸の髪、エメラルドの瞳、珊瑚の唇、真珠の歯、桜貝の爪・・・
いつの間にか魔物も言葉も消えてしまった
月光に照らされるのは女だけ
「ああ」
そこにあったのは言葉通りの体だった
「もう誰にも負けないわ」
女は笑った
―そう、ずっと・・・
「そうよ。永遠に!」
―永遠にね・・・
その時
波がうねった
夜の扉が開き
闇色の触手が女を捕らえる
氷のように冷たいソレは女をなお冷たい海底に攫っていく
「 」
音にならない叫びが泡となって溶けていく
―象牙の肌、金糸の髪、エメラルドの瞳、珊瑚の唇、真珠の歯、桜貝の爪・・・
貴石で造られた体が浮かび上がることはない
―よかったでしょう?
―これであなたに傷を付けるものはいませんよ
―永遠にね
―まぁその美しさを賞賛するものもいませんがね
『願い事は何かと聞かれたら
一つしか言ってはいけないよ
一つ目の代償は1ペイン
もう一つ目の代償は魔物の口付けだから
二つ目を聞かれても
耳を塞がなくてはいけないよ
うっかり聞いてしまえば
気がついたときには海の底なのだから』
読んでいただいてありがとうございます。この作品『彼方より響く唄』と同シリーズになっています。よろしかったらそっちも読んでみてください。ご意見、ご感想をいただけると幸いです。