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ヒアリング

作者: 三塚未尋

 わたしはこの時間が好きだ。

 朝食を食べ終えて、身支度も完璧にして……リビングで朝のニュース番組を観ている、この時間。ドキドキする。

 べつに、ニュース番組の内容にドキドキしているわけじゃない。そもそも、わたしは番組には興味がない。この時間、わたしが注目するのは、テレビ画面の左上に出ている時刻だった。

 七時一八分。

 もうすぐだ。

 時刻表示からテレビ番組のほうに視線を移すと、俳優の熱愛疑惑が報じられていた。芸能情報コーナーだ。しばらく観ていると、『お泊まりデート!?』という派手なテロップが、有名俳優の写真の下にボンと表示された。

 左上の時刻表示を再び見る。

 七時二二分。

 まだ、かな?

 うずうずしてくる。ベランダの方を見たけど、お母さんは変わった様子もなく、洗濯物を干している。しかたなく、わたしはテレビに視線を戻した。テレビ画面には『熱愛』から一転『破局』の二文字が躍っていた。

 そろそろ来てもいいはず。

 そう思っていると、肩をポンと叩かれた。振り返ると、ベランダから戻ってきたお母さんが、ニコニコして後ろに立っていた。そして、リビングから玄関へと通じるドアを、人さし指で示した。



 家を出た俺は、隣家のドアの前まで歩いていき、インターホンを鳴らした。すると、すぐにドアが開いて、制服姿の女の子が飛び出してきた。

 さえぐさ三枝さなえ早苗だ。白いセーラー服に膝頭が隠れるほど長い紺のスカートという、中学の制服をピシッと着ている。鞄は背負っているので、両手は自由。

『おはよう!』

 早苗は笑顔いっぱい、俺にいつもの挨拶をしてきた。俺も同じように――なるべく笑いながら――『おはよう』と返した。

 そんなふうに、毎朝の日課を済ませていると、彼女の家の中から早苗を呼ぶ声がした。見ると、早苗の母親が小走りでやってくるところだった。

「早苗ってば、水筒忘れてるわよ」

 背後からかけられたその声に、しかし早苗は反応しない。俺を見上げたまま、ニコニコ笑顔を浮かべている。

 俺は指先で彼女の肩をトンと突くと、おばさんを指さした。

 それでようやく、早苗はおばさんに振り返った。

「あわてん坊なんだから」

「……」

 おばさんから水筒――コンパクトなピンク色の水筒だ――を受け取ると、早苗は急いで背中の鞄にしまった。その間、舌先を出して照れ笑いをしていた。

「恭介くん、今日も早苗のこと、よろしくね」

 おばさんに話しかけられて、俺は「はい」と答える。

 すると、おばさんは次に、両手を動かして、早苗に何かを伝え始めた。

 手話だった。

 早苗も手話を使って、おばさんに返事をする。そうして、短い手話のやりとりの後、最後に早苗は『行ってきます』を伝えた。



 三枝早苗は耳が聞こえない、いわゆる〝ろう者〟だ。

 早苗の一家が俺の隣室に引っ越してきたのが今年の春だから、こうして毎朝、一緒にマンションを出るようになって、かれこれ三ヶ月は経っている。

 早苗が通っているのはろう学校。俺はというと、普通の全日制の高校だ。

 さて。

 どうして高校生の俺と、中学生の早苗が並んで登校するのかというと、発端は俺の母親にある。

 今年の四月に、早苗の家族が隣室に引っ越してきた。その際、引っ越しの挨拶などを通して、お互いの母親が仲良くなった。そして、俺の母親は早苗がろう者だと知るや、俺に、彼女の登校に付き添うよう命じたのだ。

 母親から聞いたところによると、早苗の両親は早苗が新しい環境でちゃんと生活できるかどうか、不安だったらしい。彼女がそれまで住んでいたのは、どこかの海辺の田舎町で、この街のようなゴミゴミした場所ではなかった。人口も桁違いなら、自動車の通行量は言わずもがな。そこで、聴者(耳が聞こえる人)の俺が一緒にいれば、早苗を交通事故などの危険から遠ざけることができる。

 それに――都合が良いというかなんというか――早苗の中学までの道のりは、俺の高校までのそれとほとんど重なっていた。具体的には、俺が降りる駅の、その二つ手前の駅が早苗の学校の最寄り駅だったのだ。

 そういうわけで、俺は四月からこっち、三枝早苗の登校に付き添っている。

 初めは嫌だった。中学生の女子と一緒に歩かなければいけないというのは、男子高校生として、恥ずかしいものがかなりあった。相手はよく知らない年下の女の子で、しかも、ろう者。俺は手話なんて使えないから、会話なんてもってのほか。

 俺は接し方に困ってしまったのだ。

 早苗との無言の登校時間が、この上なく苦痛だった。こんなことなら一人で登校するほうが気楽だ、とさえ思った。

 だが、不思議なこともあるもので、一ヶ月も経つ頃には、俺は早苗と一緒にいても特に何も感じなくなっていた。慣れた、というのだろうか。とにかく、それまでの圧迫感がうそのように無くなったのだ。

 会話もすこしずつ増えていった。メモ帳や携帯電話を使って、文面で言葉のやりとりをするようになったのだ。

 もちろん、手話を使える早苗の母親のように、スピーディーに会話ができるわけではない。俺と早苗の会話には文字を使っているぶん、手間と時間がかかる。

 それでも、俺と早苗はその方法に頼るしかない。俺たちの間で、相手に意思を伝えてくれるものは、文字だけなのだから。


 俺も早苗も、学校までは地下鉄を使う。

 マンションから最寄りの地下鉄駅に潜り、二人並んでプラットホームの列に並んで電車を待つ。夏休み直前のこの時期は、駅構内もムッと湿っている。俺は額に浮かんでいた汗を拭った。

 ふいに、早苗が俺の袖をくいっと引っ張ってくる。見ると、早苗はメモ帳を開いて、俺に差し出してきた。リングで綴じられたメモ帳には、彼女の字が並んでいる。丸っこくて、読みやすい文字だ。

『テストどうでした?』

 ハイッというふうに、早苗はシャープペンシルを渡してくる。メモ帳のリングの中に入れられるくらいの、小さなシャープペンシルだ。俺はそれを使って、すぐにメモ帳に返事を書く。

『まぁまぁ。早苗は?』

 メモ帳とシャープペンを早苗に渡す。

『わたしもそこそこ。でも、数学だけ平均点、下回っちゃいました。』

『どんまい。』

 俺は返事を書いたメモ帳を彼女に渡す。わかりやすいくらい、苦笑いを浮かべながら。

 早苗と言葉のやりとりをするときは、表情に気を付けなければいけない。

 早苗と一緒に過ごすようになって、手話の本を読んで知ったのだが、ろう者は手話をする際に、手の動きだけではなく、表情も重視するという。声が聞こえないために、言葉のニュアンスを表情から判別するのだ。

 だから注意して見ていると、早苗や早苗の母親は、手話をしている時、とても表情に起伏がある。だから俺も、早苗と話をするときは、できるだけわかりやすい表情を作るようにしていた。

『夏休みの予定とかありますか?』

 メモ帳を渡してきた早苗は、唇を丸くすぼめながら、首を傾げて見せる。

『とくにない。』

 そう書いた直後、俺は思い出して、付け加えた。

『そういや学校の補習があったな。』

『たいへんそうですね。』

『まぁ、うちは進学校だから。本当はクーラーのきいた自分の部屋でごろごろしていたいんだけど』

 と、そこまで書いたところで、すぐ後ろから「きょーすけ」と呼ばれた。振り向くと、知り合いの女子が立っていた。こひなた小日向ゆき由貴。俺の同級生だ。

「おはよ!」

 由貴は片手をひらひらさせて、砕けた感じのあいさつをしてきた。それから、早苗にも顔を向けて、同じように声をかける。

「早苗ちゃんも、おはよう」

「…………」

 早苗はぺこっと頭を下げた。

「やー、今日も暑いわね。あたし、走ってきたから、ちょっと汗かいちゃった」

 笑いながら言って、由貴はブラウスの襟元をつまんで服と肌の間に空気を送る。俺は反射的に、彼女の胸元から視線をそらしていた。

 由貴は活発な女子だ。栗色のショートヘアと、短いスカートから露わになっている太腿が、彼女のその快活さをさらに強調している。……実際、この女子は俺とは対照的によくしゃべり、よく動くのだが。

「そうそう、聞いてよ恭介。期末の結果が散々でさぁ。赤点を二つもとっちゃったのよ。どーしよ?」

「そんなこと俺に訊かれても……」

「恭介は赤点無かったの?」

 俺はウンと頷いた。

「キーッ、うらやましい! あたしなんて赤点とったもんだから、夏休みに学校出なくちゃいけないのよ? 補習もあるっていうのに。ねぇ、あたしの代わりに行ってくれない?」

「無茶言うなよ」

 由貴とそんな会話をしているうちに、電車がホームに滑り込んできた。電車はどの車両も、学生や会社員で混み合っていた。俺と早苗と由貴は三人ひとかたまりで乗り込む。

 車内は人口密度に比べて、ずいぶん涼しい。空調がしっかりきいているのだ。

 目的の駅までは、この路線一本で行ける。

 到着までの間、俺は由貴とどーでもいい話をダラダラと続けた。由貴が思い思いの話題を提供して、俺はそれに対してコメントする。それが俺たちの、いつもの立ち位置だった。

 ただ、これには問題があった。俺が由貴としゃべっている間、早苗がヒマになってしまうのだ。耳が聞こえない早苗は、会話に参加しようと思っても、参加しようがない。そして自然と、早苗だけが仲間外れになってしまう。

 だから俺は、由貴としゃべっている間も、ときどき早苗に構ってやるようにしていた。顔を見合わせたり、頭を撫でてやったりして。そうすることで、早苗に寂しい思いをさせないように、気をつけていた。この工夫が成功しているかどうかは、俺にはわからない。まさか本人に「寂しくない?」と直球に確かめるわけにもいかない。

 言葉を介さずに彼女の気持ちを知ろうと思ったら、彼女の表情や態度を注意深く観察するしかない。その点、今のところ、早苗が寂しさでヘソを曲げた気配は無い。顔を見るとニコッと笑ってくれるし、頭を撫でるとくすぐったそうにほほ笑んでくれるし。

 そうして、今日も問題無く、早苗を目的の駅で降ろすことができた。

「あの子、恭介によく懐いてるわね」

 早苗がいなくなって二人きりになると、感心したように由貴が言った。俺は何も返事をせず、電車の振動に対応するために足の位置を変えた。高校の最寄り駅までは、あと数駅だ。

「ちょっと羨ましいわ」

「?」

 俺はつり革を握り直した。

「羨ましいって……どういう?」

「ひみつ」

 由貴はフフッと笑って、答えをはぐらかした。言いたくないことを無理に聞き出すのもヤボなので、俺はそのことを追及しないことにした。



 電車を降りて、改札を抜ける。そして、学校に一番近い出口から地上に出る。由貴と一緒にいるのは、そこまでだった。

 俺はこのまま学校へ向かう。だが、由貴はここで恋人を待つのだ。

「じゃ、恭介。またね」



 ベッドの上でゴロゴロしながら、わたしはいつまでも携帯電話の画面とにらめっこをしている。携帯の画面には、メールの下書きが表示されている。

 メールの宛先は、なとり名取きょうすけ恭介。お隣に住んでいる、あの高校生の人だ。

 その、恭介さんへのメールを、送ろうかどうかで、わたしは今すっごく悩んでいる。たかがメール一通……という気もするが、この一通はわたしにとっては大問題なのだ。

 メールの本文自体はとても簡潔。

『今朝の女の人と、付き合っているんですか?』

 たった一文。

 その一文に、わたしはこんなにも頭を抱えている。

 ――今朝の女の人。わたしと恭介さんが話しているときに、横から入ってきた、恭介さんのお友達。たしか、名前は小日向由貴さんだったと思う。

 あの人――由貴さんは、ずいぶん恭介さんと親しげだった。一方の恭介さんも、由貴さんと楽しそうにしゃべっていた。わたしから見ていても、今朝の二人は親密そうに見えた。

 今日だけじゃない。

 これまでだって、今朝のように由貴さんが途中でわたしと恭介さんの間に入ってくることは多々あった。そして、その度に、彼女は恭介さんと笑いながらおしゃべりするのだ。

 そんな二人の様子を見ているうちに、わたしはだんだん、あの二人が交際しているんじゃないかと思えてきた。そう思うようになったのも、今に始まったことではなく。かなり前から、わたしは二人の仲を疑っている。

 恭介さんは由貴さんについて、あまり教えてくれない。わたしの知っていることは、由貴さんが恭介さんと同じ中学出身で、今も同じ学校に通っているということぐらい。

 恭介さんが由貴さんのことをどう思っているのか。正直なところ、そんなのわからない。友達として見ているということぐらいなら、わかるものの、それ以上のところは訊いてみないとわからない。

 でも、その逆は、わかるような気がする。

 由貴さんが恭介さんをどう思っているのか。

 わたしは由貴さんと直接話したことが無いから、彼女がどういう人なのかは知らない。ただ、彼女がわたしを見る目には――ほんの少しだけど――敵意があるように感じられる。

 恭介さんと談笑している時、一瞬、わたしをチラッと見る由貴さんの瞳。そこには決まって、わたしだけが感じられる冷たさが隠されている。

 ……ひょっとしたら、そんなのは、わたしの思いこみなのかもしれない。

 わたしの目の前で、恭介さんを一人占めする由貴さんに対して、わたしは暗い気持ちをいつも感じている。その暗い気持ちが、由貴さんへの邪推に繋がっている可能性も、全く無いとは言えない。

 それでも、なぜか、わたしにはわかる。

 由貴さんは恭介さんを好きに違いない。

 そして、わたしはもう、確かめずにはいられなかった。

 勇気を振り絞って、携帯電話のメール送信ボタンを、ぽちっと押した。数秒後、画面には『送信しました』のメッセージが現れる。

 わたしはどっと疲れた気がして、ベッドにうつ伏せになった。顔を枕に埋めて、大きくため息をつく。

 と、握っている携帯が突然振動した。

 返信が来たのだ。早い……。

 わたしはメールボックスを開いて、受信メール一覧を見る。新着メールは、やっぱり、恭介さんから。

 すぐに見ることはできなかった。おかしなことだけど、わたしは恭介さんからの返事を見るのが恐かった。どうしてそんなことを恐がるのかは、自分でもわからない。とにかく、メールを見るまでに、しばらく時間がかかった。

 深呼吸をして、恭介さんからのメールを開く。

 そこに書かれた文字を見て、わたしはドキッとした。


『付き合ってなんていないよ。あいつはただの友達。』


 わたしは何度もその本文を読み直した。そうしているうちに、ホッとした気持ちがだんだんと嬉しさに変わっていく。

 恭介さんと由貴さんは恋人なんかじゃなかった。

 ただの、仲のいい同級生だったんだ。

 わたしは自分の頬が緩んでいるのがわかった。それがなんだか恥ずかしくて、もう一度、枕に顔を押しつけた。



 昼休み半ば。

 俺は弁当箱を空っぽにすると、教室を出て、早足で購買へ向かう。どうにも腹が減ってて、弁当だけでは物足りない気がした。午前中の体育で消耗したようだ。

 廊下にはうだるような熱気がたちこめている。廊下の窓はどれも全開になっているものの、風が吹いていないために、空気がこもっている。ちょっとしたサウナだ。

 そういえば、水筒の中の麦茶はもう少なくなっていた。午後を乗り切ろうと思ったら、持参した麦茶だけでは足りない。食事のついでに、パックのジュースでも買おう。

 購買に着く。さすがにこの時間では、パンやおにぎりはほとんど売り切れていた。選択肢は少ない。が、文句は言えない。

 俺は適当なパンを一つと、パックのミルクティーを店員のおばちゃんに渡した。代金はぴったり二〇〇円。財布から百円玉を二枚、取り出す。

「あれー、恭介じゃん!」

 呼ばれて振り向くと、由貴が財布片手に立っていた。由貴の周りには誰もいない。一人で購買に来たらしい。

「奇遇ね」

 由貴は笑いながら、そんなトンチンカンなことを言った。同じ学校にいるのだ。会うことだって当然ある。奇遇も何も無い。

「恭介はなに買ったの?」

「パンと飲み物」

 おばちゃんに代金を渡して、そのパンと飲み物を手に取る。俺は一瞬迷った末に、すぐにこの場を離れることにした。正確には、由貴から離れることにした。

「じゃ」

「あ……ちょっと待って」

 由貴にシャツの背中をぐっと掴まれた。立ち止まって振り向くと、由貴が困った表情を浮かべていた。

「そーいや、あたし、いま細かいの持ってないのよ」

「……なんの話だよ」

「サイフの話よ。今ね、奇跡的に五十円ぐらいしか細かいのが無いの。あとは万札だけなの」

 万札と聞いて、俺は思わずため息をついてしまった。

「自慢?」

「べつに、そーいうつもりじゃなくって」

 由貴はチラッと購買の商品棚を見た。

「あたしね、食後のちょっとしたデザートを買いにきただけなのよ。一品ね。それ以上食べると太るから」

「それで?」

「えっと、だからね……たった一つ買うだけに万札使うのって、気が引けるじゃない? おつりとか大変だし」

 そこまで言われて、俺はようやく、由貴が何を言いたいのか理解した。ようするに、おごって、ということだった。

 しかたのないやつ。

「……どれが欲しいんだ?」

「やった! さっすが恭介! えーっとね……」

 上機嫌そうに笑いながら、由貴は商品棚のプリンを指さした。

「これ、いい?」

 俺は何も言わずに、そのプリンをおばちゃんに渡した。一〇五円。おばちゃんは苦笑いしながら、俺から一一〇円を受け取った。五円のおつり。

「ありがと、恭介!」

 プリン――それとプラのスプーン――を手にした由貴は満面の笑みを浮かべた。

 それから俺と由貴は、結局一緒に、並んで歩くことになってしまった。お互いの教室があるのは同じ階なので、行き先は同じ。離れて歩くのも変なので、当然の流れなのだが……せっかくの俺の配慮がパーである。

「小日向さんよ、もうちょっと気を付けろよ」

 軽く注意してみる。

 しかし、本人は首を傾げて、

「えー? なんのこと?」

 と言う始末。

 あまり直接的なことは言いたくないのだが、言わざるをえない。俺は小声で口にする。

「あんまり、俺と仲良くしてると、誤解されるぞ。ただでさえ朝の電車で一緒になることが多いんだから」

「あ、なんだ、そういうこと?」

 けらけらと由貴は笑う。

「そんな心配しなくていいのに」

「……俺が原因でケンカでもされちゃたまらないからな」

 由貴にはかれし恋人がいるのだ。彼氏以外の特定の男子と仲良くしているのを、周囲に見られるのは、あまりよろしくないだろう。それが一対一ならなおさらだ。

「心配性ね、恭介は」

 困ったことに、本人がそういうことには、まったく気を遣っていない。

「最近、彼氏とはどうなんだ?」

 俺は思わず尋ねていた。

 すると、由貴は「うーん……」と考え込むようなそぶりを見せて、苦笑い。

「まぁ、そこそこってとこね」

「……そうか」

 俺は深くは尋ねなかった。だが、内心では驚いていた。由貴のことだから、てっきり「ちょー順調!」という明るい答えが返ってくると思っていたのだが。

 うまくいってないのだろうか?

 俺がそんなことを考えながら、教室のある校舎への連絡通路を歩いていた時だ。ふいに、隣の由貴がふふっと笑った。

「なんだよ?」

「べーつに。ただ、ヘンなのって思って」

「へん?」

 由貴は横目で、俺をチラッと見た。

「恭介でも元カノのこと心配するんだ、ってね」

「ばか」

 俺は慌てて周囲を見回した。さいわい、誰もいない。ひとまずホッと胸を撫で下ろす。

「お前な……」

「なに焦ってるのよ。べつに、秘密にしておくことでもないでしょ?」

 由貴は唇を尖らせながら、けれど、どこかイタズラっぽく言った。



 俺と由貴は、中学時代、付き合っていた。

 最初は単なるクラスメートだった。クラスメートと言っても、言葉を交わすような間柄じゃない。友達でもなんでもない。名前を知ってる人とか、ただ同じクラスの子、という程度の関係だった。

 その関係が変わるきっかけとなったのは、委員会だ。俺はたまたま、由貴と同じ委員会に入った。各クラスの各委員は男子女子一人ずつ。当然、作業をする時には、いやがおうでも会話をしなければいけない。俺と由貴が話すようになったのは、そうやって、必要に迫られたことによるものだったのだ。

 なにか劇的な出来事があったわけではない。

 二人はごく普通に、クラスメートとして委員会の仕事を一緒にこなした。教室でもときどき話すことはあったが、たったそれだけ。特別なことなんて、俺たちの間には無かった。

 そんな俺たちの関係を変えたのは、由貴の告白だった。

 ある日、由貴は俺に「あたしと付き合ってみない?」と軽い口調で言ってきた。俺は彼女の告白に驚いたし、戸惑いもした。小日向由貴は俺にとって、〝ちょっと仲の良い、同じクラスの女子〟でしかなかった。でも、多かれ少なかれ、俺にも恋愛感情があったらしい。俺はその場で、ウンと頷いていた。

 実際、由貴は魅力的だった。他の女子よりも、際立ってかわいかったし――なによりも、明るい気質だった。彼女の言動に周りが頭を抱えることもあったが、それでも、どこか憎めない。無邪気な女の子なのだ。

 由貴と過ごす時間は、俺にとって、楽しいひとときだった。付き合うようになってからは、平日の学校以外でも、会うようになった。休日にはよく二人で街に出かけたりもした。デートというと気恥ずかしいが……俺たちのしていたことは、世間一般にはデートと呼ばれる行為だった。

 でも、終わりは突然訪れた。

 ある日のデートの帰り道。いつもは明るいはずの由貴が、その時だけは妙に暗い表情だった。俺が「どうした?」と訊くと、由貴はポツリと「別れよ」と言った。付き合うキッカケを作ったのが彼女なら、別れるキッカケを作ったのも彼女だ。どうして由貴が別れを切り出したのか、俺にはわからなかった。何か彼女に対して悪いことをしたのか。内心ではひどく困惑したものの、俺はなるべく冷静を装って、一言だけ「わかった」と答えた。いま思えば、あの時の俺には、別れようと彼女が言った理由を訊く勇気が無かったのだ。

 ただ、救われたことがある。由貴は別れた後も、俺を避けずにいてくれたのだ。俺たちは教室で顔を合わせれば、以前と同じように言葉を交わした。おかげで、俺は変な寂しさを感じずに済んだ。

 つまるところ、俺と由貴は、恋人同士という関係からもとの、友達同士に逆戻りしただけだったのだ。

 あの中学からこの高校に進学したのは、俺と由貴の二人だけ。俺たちが中学時代に付き合っていたことを知っているのは、俺たちしかいない。さいわいなことに、由貴はそのことを周りに言いふらしていないらしいが……。



「知られたっていいじゃない」

 しれっと由貴は言う。

「それとも、周りに知られちゃったら、恭介の都合が悪い?」

「いや、そういうわけじゃなくてだな……」

 廊下を歩きながら、俺は由貴にどう言ったものか考える。交際していたことが知られても、俺には一切影響が無い。だが少なくとも、由貴には悪影響が及ぶ。由貴には彼氏がいるのだから、へた下手に波風を立てるのはいいことではない。そのことをなんとかして伝えなくては――。

 そうしているうちに、俺たちは連絡通路を渡り終えて、教室のある階に辿りついていた。ここは校舎の中央。理系クラスの俺は左に折れなければいけない。由貴は文系クラスだから、右に折れるはずだった。

「じょーだん」

 別れ際になって、由貴はそう言って笑った。

「ちょっとからかってみただけよ。そんな真剣に考え込まれると困っちゃうわ」

「からかうって……」

 俺は思わずまゆね眉根を寄せた。

「怒らないでよ」

 由貴は笑いながら、財布を取り出した。そして、小銭を摘むと、俺に差し出してきた。

「はい、一〇五円」

「え?」

 彼女の手の平にのっているのは、百円玉と五円玉。さっきのプリンの代金ピッタリだ。俺はビックリしながらも、それを受け取る。

「小銭は無かったんじゃ?」

「あれはウソ」

 由貴が舌先を出して笑った。

「ああでもしないと、恭介、先に戻っちゃってたでしょ」

「…………」

 やられた、と思った。

「ありがとね」

「……プリンの代金のこと?」

「違うわ。心配してくれて、ありがとうってこと」

 それだけ言うと、由貴は「じゃあね」と手を振って、自分の教室に走っていった。俺は手渡された一〇五円を、しばらく見つめていた。



 わたしはシャープペンをプリントの上に転がした。数学の問題がびっしり記されたプリントは、夏休みの宿題だ。特にやることも無かったから、どーせなら宿題を減らしてしまおうと思って、手をつけてみたんだけど……集中力がもたない。

 クーラーから吐き出される冷気がノースリーブの腕に当たっている。涼しい。わたしの部屋は、屋外と比べて、ずいぶん過ごしやすい。

 なのに、どうしてだろう?

 部屋の快適さに反して、わたしの気持ちは、じめじめしている。

 待ちに待った夏休みだった。

 朝早くに起きる必要も無い夏休み。

 お昼寝を許された夏休み。

 夜ふかしをしてもいい夏休み。

 終業式があったのはつい先週のこと。終業式では、先生の手話を見ながら、これから夏休みなんだ、と期待に胸を膨らませていた。

 その期待は、間違いじゃなかった。

 夏休みは何をしてもいい期間。

 毎日が休日で――宿題はあるけど――わたしは自由。

 それでもなにか物足りないと感じてしまうのは、学校が無いせいだった。べつに、学校に行って授業を受けたいとか、そういうわけじゃない。

 夏休みに入って、わたしの生活は変わった。お父さんやお母さんに怒られなければ、いつ起きても、いつ寝てもよくなった。そういう嬉しい変化もあれば、そうじゃない変化もある。夏休みになってから、大事なものが無くなった。恭介さんとの登校だ。

 さみしくはない。恭介さんとはメールでおしゃべりできるし、恭介さんに会いたくなったら、すぐ隣家のベルを鳴らせばいい。だから、さみしくはない。

 ただ、不安なのだ。

 わたしの中学と恭介さんの高校は、ほぼ同じタイミングで夏休みに入った。でも、恭介さんは補習があるから、ほぼ毎日、朝から学校に行っている。学校に行く必要のないわたしは、恭介さんに付いていく理由がない。そういうわけで、恭介さんは毎朝、一人きりで登校する。それが不安の原因だった。

 わたしのいない駅のホームで、恭介さんと、その友達である小日向由貴さんが親しげに話をしている。そう思うと、わたしの気持ちはとたんに重くなり、沈んでしまう。

 もちろん、同じ高校に通っている二人だ。廊下ですれ違ったりすることもあるだろう。そんなことぐらい、わかっているし、我慢できる。でも朝の、通学路での恭介さんを独り占めされるのにはたえられない。恭介さんの隣……わたしの居場所が、あの人に奪われてしまう気がして。

 枕元の時計を見る。午前十一時五十一分。

 恭介さんが帰宅するまでには、まだかなりある。彼が帰ってきたら、すぐに遊びに行こう。そして、たくさんおしゃべりしよう。

 時計の針はのろまだ。もっと早く動いて欲しいのに――。



 プリントに記された英文を和訳しながら、俺はため息をついた。

 うちの高校は夏休みの期間中、夏期補習なんていうありがた迷惑なサービスを生徒に提供している。マジメな学生にとっては嬉しいことらしいが、俺からすればめんどくさいことこの上ない。なぜ夏休みなのに、朝から夕方まで学校にいなければいけないのか。進学校の宿命とはいえ、泣けてくる。

 さらに、補習はただ出席すればいいというわけではない。先生によってまちまちだが、ほとんどの科目では予習と復習が義務づけられているのだ。これで夏休みの宿題が別にあるというのだから、たまったものじゃない。

 風呂から上がってから、俺は自室の勉強机で、明日の授業の予習に取りかかっていた。電子辞書で英単語の意味を調べつつ、和訳した文章をプリントに書き込んでいく。その作業が終わったのは、午後十一時のことだった。

「終わったー!」

 これで今日やるべきことは終了。

 開放感にひたりながら、俺はシャープペンをプリントの上に放り投げると、背後を振り返る。勉強机の後ろでは、俺のベッドが壁に接していた。そして、そのベッドの上には今、パジャマ姿の早苗がちょこんと座っている。早苗は壁に背を付けて、俺の本棚から持ってきたマンガを熱心に読んでいる最中だった。

 夕方から今に至るまで、早苗はなぜか、ずっと俺の部屋にいる。もちろん、夕食や入浴のために一旦、隣の自分の家に帰ったりはしているが……。

 まずそももそもの発端は、早苗からのメールだった。俺が学校から帰ってくると、すぐに早苗から携帯にメールが届いた。本文には「今から遊びに行ってもいいですか?」の一文。俺は着替えをしながら、早苗に「いいよ」と返事を打った。早苗が家のインターホンを鳴らしたのは、それからすぐのことだ。

 早苗が俺の家に遊びに来ることは、これまでもよくあった。だから、何をして一緒に過ごすのかは、もう決まっていた。ただしゃべるだけだ。ゲームをするとか、映画を観るとか、そういうことはしない。早苗が俺の家に来たら、たいてい、しゃべるだけだった。

 もちろん、しゃべるといっても、文字を使ってだ。二人でベッドに並んで座って、一つのメモ帳を使って、言葉をやりとりする。座っているのに疲れたら、横になったりもする。

 そんな二人の時間も、普段なら数時間で終わるはずだった。ずっと文字を書いていると手が痛くなるし、早苗には門限がある。だから、いつもなら、夕食前には早苗と別れることになる。

 しかし、今日は違った。夕食を食べに家に帰った早苗から、数時間後に再び、メールが来たのだ。

『今日はもう会えませんか?』

 俺には特に断わる理由も無かったが、予習をしなければいけなかった。机に向かいつつ早苗の相手をすることはできない。その旨を伝えると、早苗は『勉強の邪魔は絶対にしません』と返事をしてきた。

 実際、早苗は俺が机に向かっている間、一言も話しかけてこなかった。本棚のマンガを取るために動くことはあったが、そんなことぐらいでは邪魔にはならない。

 一体どうして、早苗は一日に二度も、俺の家に遊びに来たのだろう?

 疑問に思ったが、べつに、とりたてて文句を言うようなことではなかった。俺は早苗がそばにいても、普段通りだ。

 ――いや、逆だ。早苗がいないと、おかしい。夏休みに入って、毎朝、学校へ歩いていると、隣に早苗がいないことを不思議に感じるのだ。きっと夏休みまでの三ヶ月、毎日一緒に登校していたせいだろう。

 そんなこともあって、俺は早苗が部屋にいても、特にどうということはなかった。

「…………」

 早苗は俺の視線に気づくと、いつものメモ帳に文字を書いて見せてきた。

『べんきょう終わりましたか?』

『うん。』

『おつかれさまです。』

『ありがとう。』

 俺は椅子から立ち上がって、早苗の隣に腰を下ろした。ベッドが軋んだ。互いの二の腕が触れるかどうかの距離。俺は柔らかい匂いを鼻で感じた。早苗のシャンプーの匂いだ。早苗の頭頂部は、俺の肩と同じくらいの高さにある。

『ひまだっただろ?』

 俺の文字を見た早苗は、首を左右に振った。

『そんなことないです。マンガ読ませてもらってましたから。』

『それならいいんだけど。』

 メモ帳にそう書きながら、俺は内心で、改めて不思議に思っていた。本当に、なぜ早苗がこんな時間に俺の部屋に来ているのか。まさかマンガを読むためではないだろう。

 早苗が何を思っているのかは、わからない。

 でも、理由はどうあれ、今が夜で、ここが男の部屋で、俺と早苗が男と女であることに変わりはない。自分でもわかる。一歩退いたところから見たら、これは、あまりよろしくないシチュエーションだ。

『早苗の両親は』

 男の、と書きそうになった。

『おれの家に行くことになにも言ってなかったか?』

『どうしてです?』

『いつも門限があるみたいだから。』

 早苗はくすっと笑った。

『夏休みだから特別って、お母さんが許してくれたんです。お父さんはちょっと怒ってましたけど。』

 そりゃそうだろう、と俺は内心で頷いた。

『あんまり親に心配かけるなよ。』

『はーい。』

 俺と早苗はそれから、肩を並べたまま、いろいろな話をした。学校のこと、街のこと、友達のこと、早苗が前に住んでいた海辺の町のこと……。口頭で伝えればあっという間に伝えられることばかりだった。メモ帳に文字を書くのは、どれだけ慣れていても、やはりしゃべるよりも時間がかかる。でも、俺は不思議と、それをまどろっこしいとは感じない。かえってこの方が、一つひとつのやりとりに気持ちを込められるような気がしていいとさえ思えた。

 そうやって、何十回目かのメモ帳の交換を終えた時。

 ふあぁと早苗が高い声をもらした。あくびだった。思わず俺はビックリしてしまった。突然あくびをされたことに、ではない。初めて聞いた早苗の声に、驚いたのだ。

『早苗ってそういう声なんだな。』

 それまでの話題をいったん打ち切って、そうメモ帳に書く。それを見た早苗は眉を寄せて、口もとに手を当てた。

『あくび、出てました?』

『うん。思いっきり。』

 早苗は困った顔をしてうつむいてしまう。声を聞かれたのが恥ずかしかったらしい。

『へんな声じゃなかったですか?』

『ぜんぜんふつう。女の子っぽい、かわいい声だったよ。』

 俺がそう書いて見せると、早苗は眉を寄せた。

『なんだか不平等です。』

『不平等?』

 コクリと彼女は頷いて、シャープペンをメモ帳の上に走らせる。

『恭介さんはわたしの声を聞いたのに、わたしは恭介さんの声が聞こえません。』

 俺は自分の体がこわばるのがわかった。

 俺は耳が聞こえて、早苗は耳が聞こえない。俺たちのその違いは、かなりデリケートな問題で、できることなら触れずにおきたい話題だった。

 だから彼女の文句に、俺はどう返事をすればいいのか、かなり悩んだ。まさか『だってお前、耳聞こえないじゃん』と笑いながら返すわけにはいかない。そうかといって、重い感じの文章は書きたくない。

 俺がメモ帳を催促せずにいると、早苗は頬を膨らませて、続けてシャープペンを動かし始めた。彼女が書いたのは疑問文だった。

『恭介さんの声は、どんな声なんですか?』

 今度はさっきとは別の意味で困った。どんな声と尋ねられても、自分の声質なんて覚えていない。自分の頭に反響している声と、相手の耳に届いている声は、全然違うのだ。

『たぶん、平均的な低い声だと思う。美声でもないし、しゃがれてもいない。ふつうの声、かな?』

 早苗は俺の返事を見ると、難しい顔をして、頭をぐらぐら揺らし始めた。俺の声を想像しているようだった。その仕草がおもしろくて、俺はつい笑ってしまう。

『おれの声なんて聞いたって、なんの得にもならないよ。』

 そう書いて見せる。

 すると、早苗は首を左右に振った。

『そんなことないです。わたし、恭介さんの声、聞きたいです。』

 メモ帳に書かれた文字は、いつもどおりの読みやすさ。でも、それを見せる早苗の表情は、読めなかった。いつもは感情をハッキリ顔に出す早苗が、いまは複雑な顔をしていた。ほほ笑んでいると思えばほほ笑んでいるし、悲しそうと思えば悲しそうだった。

 俺の声が聞きたいと言った早苗。俺だって、できることなら、彼女に声を聞いて欲しい。会話がしやすくなるとかそういう理由からじゃない。純粋に、早苗の気持ちに応えてやりたかったのだ。

 だが無理なものは無理なのだ。

 ろう者の早苗は、耳が聞こえないのだから。

「ごめんな」

 俺はメモ帳には何も書かず、早苗の頭を、そっと撫でた。



 宿題を片付けようと机に向かっていたのに、ふと気づくと、わたしはメモ帳のページを最初からめくっていた。恭介さんとの筆談に使う、いつものメモ帳だ。

 スカートに入れておけるくらいに小さいメモ帳。ページを束ねているリングが、少し変形している。残りページもあとわずかとなってきていることだし、そろそろ新しいのを買ったほうがいいだろう。

 四月にこっちへ引っ越してきてから、購入したメモ帳は三冊。どれもわたしと恭介さんの会話に使われた。最後のページまで文字で埋め尽くされて、使い切られたメモ帳は、わたしがちゃんと持っている。捨てるなんてことはできない。どのページにも、わたしと恭介さんとの、大事な会話が残っているんだから。

 メモ帳には、わたしと恭介さんとの思い出が詰まっている。思い出といっても大それたものじゃない。なんでもない、毎日の会話。でも、わたしにとっては、それだけでも楽しい思い出だった。

 そして、そういうメモ帳思い出を振り返るたびに、わたしはいつも不思議な気持ちになる。楽しいはずなのに、ちょっと胸が苦しくなるような痛み。今まで経験したことのない、胸の痛みだ。今もそれを感じている。

 どうしてだろう?

 成長中の女の子は、胸にしこりや痛みを感じるらしいけど……。

 メモ帳のページをめくりながらそんなことを考えていると、ちょんちょん、と肩に何かが触れた。振り向くと、お母さんがすぐ後ろに立っていた。

 わたしはすぐにメモ帳を胸に抱きかかえた。

『宿題やってると思ったのに』

 お母さんはちょっと怒った顔をしている。

 わたしはすぐに返事をする。

『ちょっと息抜きしてただけだもん』

『……まぁ、いいわ』

 お母さんはため息をつく仕草をした。見逃してくれるようだ。

『お昼ごはんにしましょう』



 今日のお昼ごはんはスパゲッティ。リビングでお母さんと向かい合って、フォークをくるくる回す。平日の今日は、お父さんは仕事。なので、わたしとお母さん、二人きりのお昼ごはんだ。

 テレビでは『笑っていいとも!』が流れている。今はテレホンショッキングだ。司会のタモリさんと、今日のゲストである歌手が、なにか話をしていた。

 テレビにやっていた視線を、自分の手元に戻す。

 と、向かいのお母さんの手が、わたしのお皿の近くに伸びてきて、ヒラヒラ揺れた。顔を上げて、お母さんを見る。

『さっきのメモ帳、お隣の彼と使ってるやつ?』

『そうだけど……それがどうかしたの?』

『ううん。なんでもない』

 お母さんは笑って、両手の裏側を見せた。

『ねぇ、お母さん』

『なに?』

 なんとなく、お母さんに訊いてみようと思った。

『相談したいことがあるの』

『相談?』

『うん……わたしね、恭介さんのこと考えると、胸が痛くなるの。これってなんだと思う?』

 わたしが尋ねると、お母さんは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑顔になった。そして、わたしを指さしてくる。

『それはきっと、早苗が』

 お母さんは右手の親指を立てて横へずらすと――

『彼のことを』

 ――右手の人さし指と親指を、あごから下へ下ろした。

『好きっていうことよ』



「恭介」

 地下鉄のプラットホームで帰りの電車を待っていたら、由貴に捕まった。今日の補習は三十分ほど前に終わったばかりだ。ホームにはうちの高校の連中が大勢立っている。みんな思い思いにしゃべっていて、距離があっても、けっこううるさい。

 俺と由貴はグループ連中のいない場所で電車を待つ。

「今日もようやく補習終わったねー」

 由貴はニコニコ笑いながら、勝手にしゃべり出す。

「先生達も嫌にならないのかな? 夏休みにわざわざ授業なんてやってて。たまには海に行きたいとか、思ったりしないのかなぁ?」

「海に行きたいかどうかはわからないけど……嫌になってる先生は多いだろ、たぶん」

「そーだよね! あーぁ、早く補習期間終わらないかなぁ」

 しばらく話していると、電車がホームに滑り込んできた。

 俺と由貴はその電車に乗り、一緒に同じ駅で下車した。その間、由貴はずっとしゃべり詰め。いつものことだが、よく話題が尽きないものだと感心する。中学時代からこういう性格だった。由貴はいつも、明るく俺に話しかけてくれる。おかげで一緒にいると、疲れることはあっても、退屈なことは無い。そんな由貴だからこそ、俺は好意を持ったのだろうけど……。

「恭介、このあと予定ってある?」

 改札を抜けて、地上への出口に向けて歩いていると、由貴が訊いてきた。

「なにも無いけど」

「そうなの? じゃあさ、ちょっと寄り道していこうよ。あたし、のど乾いちゃったしさ。ね?」

 こう言い出した由貴は、なかなか退かない。俺はしかたなく「いいよ」と答えた。すると由貴は小声で「やった!」と呟いた。

「じゃあ、早く行こうよ!」

 ぐいぐいと腕を引っ張られる。同級生に見られたら言い訳に困る場面だ。ただでさえ、由貴には他に恋人がいるというのに。もっとも、由貴が言うには、この駅を利用している同じ高校の生徒は俺たち以外に誰もいないそうだが。

 階段をのぼり、地上に出る。日差しは午後四時の今もまだ強い。半袖から露出している肌が、じりじり焼かれているのがわかる。

 俺は由貴と一緒に、駅前のマクドナルドに入った。店内にはそこそこ客がいる。窓際の席はガラガラに空いていた。俺と由貴はレジで注文を済ませると、二人がけのボックス席に座ることにした。ちなみに、お互い注文したのは、フライドポテトとドリンクのセット。どちらもSサイズだった。

 ポテトとドリンクの載ったトレイを持って、椅子に腰を下ろす。と、俺も由貴も、すぐにドリンクを口にした。冷たい液体がカラカラに乾いたのどを通っていく感覚に、二人とも、思わずため息が漏れる。

「こう暑くちゃたまんないねー」

「まぁな。でも、毎年こんなもんだろ」

「そうね」

 俺と由貴はドリンクとポテトをちびちび口に運びながら、どうでもいい話をし続けた。同じ学校に通っているぶん、早苗と違って、由貴とのほうが共通の話題は多い。そういうこともあって、俺たちの主な話のネタは学校関係だった。

 一つの話題が終わり、また次の話に。

 そんなことの繰り返しの途中、由貴が訊いてきた。

「そういえば、あたし、恭介に言ったっけ?」

「なにを?」

「あたし、彼氏と別れたの」

 俺はポテトを口にくわえたまま、しばらく固まった。

「わ」

 ポテトを急いで飲み込む。

「別れたって、いつ?」

「一昨日」

「どうして?」

「うーん、どうしてって訊かれると、答えづらいけど……」

 由貴はドリンクを一口飲むと、苦笑いした。

「あの人、やたらめったら『好き』って言ってきてたのよ。それがもう嫌になっちゃってさぁ」

「ちょ、ちょっと待て……」

 俺は混乱した。由貴が彼氏と別れていたことにもびっくりだが、その別れた理由にも、俺は驚いていた。

「恋人なら、相手に『好き』って言うのは普通じゃないのか?」

「そうなんだけど……あの人の場合、それが多すぎるのよ。なんだか『好き』の大安売りみたいで、なんだかもう、萎えちゃったのよね」

 由貴がわからない。「好き」と言われなくてイヤになるのだったら、理解できる。だが、「好き」と言われすぎて、というのは俺の理解の範疇を超えている。

「そういえばさ」

 由貴がイタズラっぽい目で俺を見ていた。

「恭介は付き合ってるとき、あたしに一回も『好き』って言わなかったわね」

「え!?」

 俺は椅子の背もたれに体重を傾けた。

「……そう、だったか?」

「そうよ。あたし、ちゃんと覚えてるもの」

 そういわれてみると、たしかに。俺も由貴に「好き」と言った記憶は無い。

 対面の由貴は、ドリンクのストローでコップの中をかき回していた。氷が音を立てる。

「いつ言ってくれるのかなぁって期待してたんだけど、いつまでたっても言ってくれなかったじゃない? おかげですっごく悲しかったんだから――だから、あたし、あんたと別れたのよ」

「そんなことが原因だったのか」

「そんなこと、じゃないわよ。あたしにとっては大事なことだったのよ」

 彼女は唇を尖らせる。

「恭介は、どうして別れたと思ってたの?」

「いや、正直……わからなかった。俺が何かヘンなことを言ったりしたかなぁ、くらいしか」

 だが、実際は逆だった。俺が何も言わないことが、俺たちの交際を終わらせたのだ。

「言ってくれれば、ちゃんと口にしたのに」

「ばか。そういうものじゃないのよ」

 これみよがしに、ふぅ、と由貴はため息をついた。かと思ったら、ふふっと小さく笑った。

「でも結局、『好き』って言われまくるのも、ダメだったのよね。だからって恭介みたいに一度も言ってくれないのもさみしいし。――ねぇ、恭介」

 彼女の双眸が、すっと細められた。

「もし、あたしともう一度付き合うことになったら、今度はちゃんと『好き』って言ってくれる?」

 由貴は薄い笑みを浮かべながら、訊いてくる。表情も口調も、いつもの、冗談を言うときのものだ。それなのに、俺はなんとも答えられなかった。

 由貴に「好き」と言えるかどうか?

 なんて、たちの悪い質問だろう。

 俺と由貴は一時期、付き合っていた。たしかに、あの時の俺には由貴への好意があった。さらに言えば、別れてからもしばらくの間、由貴に想いを寄せていた。情けない話だけど、未練があったのだ。もちろん、今は無い。由貴への未練は、高校入試の忙しさの中で、静かに消えていった。

 今の俺にとって、小日向由貴はただの女友達だ。恋愛の相手として見ようとは思えない。それでいい。それがいいのだ。中学時代の苦い思い出があるせいか、俺は由貴との間に、可能性の話を持ち込みたくなかった。

 二人がもう一度付き合えないかどうか、という可能性。

 俺はそんなことを考えたくはない。

 だから、「好き」と言えるかどうかなんて質問されたら、困ってしまう。たとえ冗談であっても。

「……そろそろ出ようぜ。ちょっと冷えてきた」

 俺は残っていたポテトとドリンクを平らげると、由貴の返事も聞かずに、椅子から立ち上がった。



 店を出ると、また暑さが襲ってくる。

 俺と由貴は、家が別々の方向にあるので、その場で別れることになっていた。

「じゃ、またな」

「うん」

 由貴は小さく手を振って見せたが、すぐに歩き出そうとはしなかった。あのさ、と。由貴にしては珍しく、おずおずと話しかけてくる。

「さっきの、話の返事、そのうちちょうだい」

「……さっきのって、もう一度付き合ったらって、やつか?」

 静かに頷く由貴。どこか様子がおかしい。店を出る前と比べて、表情が硬い。緊張しているようにも見える。

「あのな、由貴」

 俺はついため息をついてしまった。

「さっきも思ったんだけどな。いたずらでもそういうこと、俺には言わないでくれよ。いつものお前の冗談なら笑って済ませることができるけど……そういうのは」

「冗談、なんかじゃないわ」

 ドキッとした。俺を見る由貴の瞳は、真剣そのものだった。

「本気よ」

 由貴は、俺と目を合わせたまま言う。

「あたし、本気で恭介が好きなの。中学時代に別れてからも、ずっと、恭介のことが気になってた。前の彼氏と一緒にいる時よりも、恭介と話してる時のほうが、楽しかった。軽い女って思われるかもしれないけど、ホントよ。あたし、ずっと恭介のこと、好きだったの」

「由貴……」

 俺は何も答えられなかった。返事をする余裕なんて無い。由貴から告白された、その事実を、受け止めることでまずは精一杯だった。

 じっと、由貴が俺を見つめてくる。その視線から逃れるように、いつの間にか、俺はうつむいていた。自分の足もとが目に映る。

 ふと、早苗の笑顔が見えた気がした。俺に向かってほほ笑んでいる早苗。それは現実で網膜に入ってくる風景ではなく、頭の中でひとりでに再生された映像だった。

 どうして、俺はいま、早苗のことを?

 そう疑問に思った時、由貴の声が聞こえた。

「タイミング悪いわね……」

「え?」

 顔を上げると、由貴がわずかに眉を寄せていた。視線はわずかに横にずれて、俺の肩先、俺の後ろへと向けられていた。

 由貴の視線を追うように振り返ってみる。

 一瞬、息が止まった。

 俺の真後ろには、本物の、早苗が立っていた。私服で、手に紙袋を持っている。買い物をしていたのだろう。

 早苗は俺と由貴の二人を、訝しそうな目で見ていた。

 俺は急に、居心地の悪さを感じた。三人の間の沈黙が苦しい。どうしようもなくなって、由貴に視線を移すと、彼女は肩をすくめて見せた。

「じゃあね、恭介。また今度。……それから、早苗ちゃんも」

 由貴は早苗にも手を振ると、足早に、俺たちの前から去っていく。

 遠ざかる由貴の背中を見ながら、俺は彼女の言葉を思い出していた。

 告白。

 由貴が俺に好意を寄せているなんて、考えたこともなかった。俺たちはただの友達。そういう不文律が出来上がっていたはずだ。なのに、由貴はそれを破った。

 告白の返事なんて、どうすれば――。

「ん?」

 由貴の去っていった方向を見ていたら、ふいに、早苗が腕をつついてきた。メモ帳を見せてくる。

『由貴さんと一緒に帰ってきたんですか?』

『うん。帰り道でたまたま会って。』

『そうだったんですか。』

 早苗はそれまでの怪訝そうな表情から一転、ニコッと笑った。

 そういえば、と。

 俺はメモ帳とシャープペンを借りて、早苗に訊いてみる。

『その袋、なにが入ってるんだ?』

 話題を変えたのは、これ以上、由貴の話をしたくなかったからだ。そんな俺の内心も知らずに、早苗は素直にメモ帳に文字を書いて見せてくる。

『新しいメモ帳です。これ、もうページが少ないですから。』

 メモ帳の残りページを確認してみる。本当だ。もう数ページしか後には残っていない。

『いつも早苗にばっかり買わせて悪いな。次のメモ帳はおれが買うよ。』

『いいんです。わたし、メモ帳選ぶの、楽しいですから。』

『じゃあ、選ぶのは早苗で、買うのはおれにしようぜ。それならいいだろ?』

『はい!』

 早苗はメモ帳を俺に見せながら、顔いっぱいにほほ笑んだ。それは夏の日差しに負けないくらい、眩しかった。



 明日の授業の予習をしなければいけない。もうあと一時間で日付が変わってしまう。早く、この物理の問題を解かなければ……。

 そう思いつつも、俺はプリントをぼんやり見ながら、別のことをずっと考えていた。

 由貴の告白について。

 家に帰ってきてからずっと、頭の中はそのことでいっぱいだった。食事をしていても、風呂に入っていても、由貴の言葉が頭から離れない。それぐらい、由貴からの告白は、今の俺には重大な出来事だった。

 ひいき目に見ても、由貴はいい女の子だと思う。彼氏と別れた直後に別の男に告白するなど、性格は奔放でときどき困りものだけど、それは素直さの現れだ。他の人には無い、彼女のいい部分だと思う。がいけん容姿も整っているし。俺からは、嫌いになる部分なんて見当たらない。

 だけど、俺は由貴からの告白を、オーケーする気にはなれなかった。中学時代の交際が一度破綻しているせい、ではない。たとえ、あの交際が無かったとしても、今の俺は同じ選択をしただろう。

 俺が由貴と付き合えないのは、もっと、別の理由なのだ。

「――――」

 椅子に座ったまま、後ろのベッドを振り返ってみる。

 ベッドの上には、パジャマ姿の早苗がいる。今日もまた、前と同じように、早苗は就寝前に俺のところへ遊びに来ていた。

 その早苗が、今は仰向けで目を閉じていた。小さな胸が呼吸に併せて静かに上下している。彼女の手元にはマンガの単行本。マンガを読みながら俺の勉強が終わるのを待っているうちに、眠ってしまったようだ。

 気持ちよさそうな寝顔。

 起こしてしまうのもかわいそうに思えて、俺はしばらく、早苗の寝姿を見ていた。



 好き。

 お母さんに言われて、ようやくこの気持ちの名前がわかった。わたしは恭介さんが好き。彼のことを考えるたびに感じる切なさは、つまり、そういうことだったのだ。

 夜、ベッドで横になっている今も、胸の奥が痛む。

 でも今のこの痛みは、好きっていう気持ちだけのせいじゃない。由貴さんのせいだ。今日、あの人は駅前で恭介さんのそばにいた。わたしが恭介さんの近くに行くまで、あの二人は何かを話していた。その時の光景を思い出すだけで、わたしは苦しくなる。

 由貴さんが羨ましい。彼女は恭介さんと同じ聴者で、恭介さんの声が聞ける。彼がどんな声色なのか、どんなふうにしゃべるのか。彼女は全部知っているのだ。

 それに、由貴さんも、きっと恭介さんを好きなはず。

 もし明日にでも、彼女が告白したら……。そう考えただけでも、わたしは泣きそうになってしまう。わたしと由貴さんのどちらかだったら、恭介さんはどっちを選ぶ? きっと由貴さんだ。わたしなんて耳が聞こえないし、由貴さんと比べて、スタイルも子どもっぽいし。いいところなんて、一つも無い。

 でも――好きでいるのをやめるなんてことは、できない。

 わたしはベッドから降りると、勉強机のスタンドライトを点けた。椅子に座って、引き出しから便せんと封筒を取り出す。友達同士で手紙交換をする時に使う、ちょっとしたレターセット。

 ラブレターを書こう。

 恭介さんもわたしのことを好きでいてくれるかどうかは、もちろんわからない。それでも、わたしの気持ちを伝えてみようと思った。もしかしたらっていうこともあるかもしれないのだ。

 シャープペンの先を、便せんの一番上の行に持っていく。そこでいきなり困ってしまった。なにをどう書けばいいのかわからなかった。ラブレターなんて、十四年近く生きていて一度も出したことがない……。

 こんにちは、から始めるのもおかしい気がする。

 形式がわからない。いや、そもそも、ラブレターに形式なんてあるのだろうか?

 今まで読んだマンガの内容を思い返してみても、ラブレターで告白なんてシチュエーションは無かった。最近だとメールでも告白する人がいるらしいけど。

 わたしは自分の字で想いを伝えたかった。声で「好き」と言えないから、そのぶんの気持ちを、手紙に込めたかったのだ。問題は、その気持ちをどうやって文章にするか……。

 シャープペンを握ったまま、ずっとラブレターの内容を考える。

 ――どのくらいの時間が経ったのか。

 わたしは自分の気持ちを、素直に書くことに決めた。ラブレターとして、それが正解なのかは怪しいところだ。それでも、ヘタに飾った内容を書くよりは、想いが伝わると信じたい。

 便せんにわたしの気持ちを書く。それから、その便せんを二つ折りにして、封筒に入れる。最後にハートのシールで封をすれば完成。

 生まれて初めてのラブレター。

 ドキドキする。

 わたしの気持ち、届けばいいな……。



 机の上に置いた携帯が震えた。メールだ。

 食事の手を一旦とめて、差出人を確認する。早苗だった。

「ちょっと悪い」

 早苗のメールに返事をするため、俺は机を寄せ合って一緒に昼飯を食べていた友達に軽く断わりを入れた。

「メールか?」一人が訊いてくる。

「まぁね」

「ほほぉー、オンナですかな?」

 別のやつが口を挟んできた。俺はそいつに曖昧な返事をしながら、送られてきたメールの本文に目を通す。

『今日の放課後、付き合ってもらえますか?』

 放課後に予定は無かった。俺はすぐに返信を打つ。補習が終わる時間を明記して、最後に、『俺がマンションに帰ってから会うか?』と疑問文を付けておいた。

 メールを送り返し、携帯を机の上に戻す。

「女の子からメールなんて、恭介クンもスミに置けないネ!」

「で、相手は誰なんよ? うちの学校の子?」

 男連中が興味しんしんという様子で身を乗り出してくる。まともに答えるとややこしいことになりそうだ。俺は「ご想像にお任せします」と冗談ぽく言っただけで、明言を避けた。友達は「気になるなぁー」と口にしながらも、それ以上、つっこんでくることはなく。すぐに彼らは別の話題に移った。

 俺はホッとしながらも、内心で首をかしげた。

 早苗は一体なんの用だろう。わざわざ改まって、放課後の予定を訊いてくるなんて。いつもの彼女なら、そんなことはしない。マンションで大人しく待っていれば、夕方頃には、俺と会えるのだから。

 早苗からの返信は、それから五分も経たないうちに来た。男友達にからかわれながら、メールを確認する。

『恭介さんの学校まで行って、校門で会いたいって思ってるんですけど。いいですか?』

 校門……。

 俺は悩んだ。早苗を一人で歩かせていいものだろうか。しかも、俺の高校まで。あのマンションからこの高校までは距離がある。駅前の文房具屋に行くのとは違う。それに、早苗が俺の学校に来たことは、これまで一度もない。地下鉄からここまでは、彼女にとっては慣れない道だろう。

 もし途中で事故にでも遭われたりしたら、大変なことだ。

 でも、あまり心配しすぎるのも、フェアじゃない気がする。俺と早苗は、聴者とろう者。その関係は間違いじゃないが、そういうのを前面に出すのは、やめておきたかった。

 俺は早苗とはなるべく、普通に接したいのだ。どこにでもいる、ごく普通の男女として。

『オッケー。じゃあ、校門前で待ち合わせな。気を付けてここまで来るんだぞ。』

 俺はそうメールを送ると、友達の会話に復帰した。



 ラブレターを書いたのはいいけど、今度は、それをどうやって渡せばいいのかがわからなかった。相手の下駄箱や机の中に入れておくのが、お決まりのパターン。だけど、わたしと恭介さんは別々の学校で、そういう手段は使えない。

 そうなると、残された手段は一つ。

 直接手渡すしかない。

 次に決めるのは、ラブレターを渡す場所。マンションの近くなんかじゃダメだ。もっと雰囲気のあるところで、告白したい。

 わたしが思い当たったのは、街中にある大きな公園だった。夕方になると薄暗くなる公園。あそこなら、雰囲気もあるし、告白する場所には充分だ。

 恭介さんと待ち合わせをして、それから地下鉄を乗りついで公園に行き、タイミングを見計らって告白。これしかない。

 ラブレターを書いた日から、わたしは告白までの手順を、わたしなりにがんばって考えた。そして考えがまとまった今日のうちに、ラブレターを渡そうと決めた。

 早く告白したかった。もちろん、断わられるんじゃないかという恐さもある。でも、それよりも、由貴さんの恐さの方が大きかった。由貴さんが恭介さんに告白したらどうしようという、恐怖。

 だから、今日じゃないとダメなのだ。



 わたしが地下鉄を降りた時には、もう補習が終わっている時間だった。そのため、駅に向かって歩いてくる高校生がたくさんいた。恭介さんの学校の人達だ。わたしはその人波に逆らって歩いていく。

 初めて歩く道だったけど、車道と歩道がガードレールで区切られているから、車に注意する必要はなかった。ときどき後ろを向いて、自転車が来ていないかどうか見るだけでよかった。

 しばらく歩いていくと、学校の校舎が見えてくる。校舎の壁は乳白色で、わたしの学校と見た目は同じだった。緊張していた気持ちが、少しほぐれた。

 外周を回って、校門前に到着。

 周りを見る。恭介さんの姿は無い。念のため、校門のプレートで学校名を確認したけど、間違いない。ここが彼の学校だ。

 恭介さんはまだ学校の中だろう。

 わたしは息を吐き出すと、近くの塀に背中を預けて、彼を待つことにする。

 校門からは高校生がぞろぞろと出てくる。集団で出てくる人達は、みんな、楽しそうになにかを話していた。ときどき、わたしの姿に気づいた人が視線を向けてきて、ちょっと恥ずかしい。

 わたしは肩にかけたバッグの中身を確認する。中に入っているのは、いつものメモ帳とシャープペン、それから、大事な手紙。大丈夫。なにも落としていない。

 と、

 肩を叩かれた。恭介さん、と思ったけど、違った。

 顔を上げたわたしの前には、由貴さんが立っていた。こんにちは、というふうに手を振ってくる。瞬間、わたしは顔がこわばりそうになったが、軽くおじぎをしてごまかした。

 由貴さんは携帯電話を鞄から取り出すと、なにかボタンを操作して、携帯の画面を見せてきた。そこには文字が並んでいた。携帯のメモ帳機能だ。

『恭介を待ってるの?』

 わたしは自分のメモ帳を取り出して、返事をする。

『はい。』

『そう。デート?』

 冗談めかした文面。だけど、それを見せてくる由貴さんの顔は、笑っていなかった。

 この人には、伝えておかないといけない。

 わたしはふいにそんな気持ちになって、メモ帳に文字を書き込むと、それを相手に見せた。

『わたし、今日、恭介さんに告白します。』

 その内容を見た由貴さんは、眉一つ動かさなかった。メモ帳を見ていた彼女は、ふいに、わたしと目を合わせてきた。

 冷たい視線だ。わたしは思わず、目をそらしそうになった。けど、じっと相手の目を見つめ返す。視線をそらしたら負けだと思った。

 先ににらみ合いをやめたのは、由貴さんだった。彼女は携帯の画面に目を落とすと、なにかを打ち込み始める。そして、その文章を、わたしに見せてきた。

『迷惑だと思わないの?』

『迷惑?』

 聞き返すと、由貴さんは笑って頷く。

『だってそうでしょ。早苗ちゃんみたいな耳の聞こえない子と付き合うのって、きっと大変なことよ。恭介に告白するっていうことは、その大変さを、恭介に押しつけることになるわ。まさか、そんなことにも気づかなかったの?』

 わたしはすぐに言い返そうと思った。でも、シャープペンはメモ帳に『でも』と書いただけで止まってしまった。

『恭介にちょっと優しくされてるからって、思い上がるのはやめてちょうだい』

 由貴さんが冷たい瞳を向けてくる。

 わたしは、今度は、すぐに目をそらしてしまった。



 誰もいない下駄箱で、俺は急いで靴を履き替える。補習が終わってから、もうすでに、かなり時間が経っている。あの国語教師にプリント運びの手伝いを頼まれなければ、すぐにでも学校を出られたのに。ツイてない。

 昇降口を出て、校門に駆け足で向かう。早苗が待っているはずだ。ずいぶん待たせてしまった。帰り道でなにかおごってやらなければ……。

 校門を抜けて、周りを見る。

 早苗の姿は、なかった。

 ただ、塀にもたれている女子が一人。

「遅かったわね、恭介」

 由貴だった。俺を見るなり、ニコッと笑ってくる。

「由貴……こんなところでなにやってるんだ? 彼氏でも待ってるのか?」

「そんなわけないでしょ。彼氏とは別れたって、このまえ言ったじゃないの」

 どうやら、早苗はまだ来ていないようだ。道に迷っているのだろうか。心配になったが、しばらく待ってみることにする。

「あぁ……そう、だよな」

 俺は由貴の隣に立つ。

「じょーだんでもそういうこと、言わないでよ。もぅ」

「ごめん」

 額の汗を二の腕で拭う。発汗は、しかし、太陽の熱さだけによるものではない。緊張のせいもあった。告白されてから由貴と会うのは、これが初めてだ。どうしたって、体に力が入ってしまう。

 俺は声には出さず、早苗に祈った。はやく来てくれよ。

「じゃあ、なにしてるんだよ?」

 由貴に尋ねる。

 とにかく沈黙だけは避けたい。

 そんな内心でも汗だくの俺からは、由貴はいつもどおりに見えた。笑みを口もとに浮かべながら、口を開く。

「恭介を待ってたのよ」

「俺を?」

 由貴は「そうよ」と頷いた。

「どうして?」

 重ねて尋ねると、由貴は表情を曇らせた。

「いちおう、言っておいたほうがいいと思ってね」

 なにを、と訊く前に、続けて由貴が言った。

「早苗ちゃんなら、さっきまでここにいたわよ」

「……さっきまで?」

「えぇ、そうよ。あの子、半泣きになりながら、帰って行ったわ」

 俺は耳を疑った。

 半泣きということは、なにか、早苗の身にあったのだろう。だが、ここまで来ていたということは、事故とかではない。となると、誰かに何かをされたか、言われたか……。

 意味もなく、嫌な予感がした。

「由貴。お前、早苗になにかしたのか?」

「べつに」

 ただ、と由貴は言葉を繋ぐ。

「あんたじゃ恭介とは釣り合わないって、教えてあげたのよ」

「釣り合わないって……」

「あー、そっか。恭介、知らないんだ」

 由貴は小さく笑った。

「あの子ね、恭介に告白しようとしてたのよ? だからあたし、耳の聞こえないあんたじゃムリよって、言ってあげたの。あたしって親切でしょ?」

 ついさっきこの場で起こっていたことを、由貴は楽しそうに話す。俺はいつの間にか、そんな由貴をにらんでいた。怒っていたのだ。今まで由貴に対して、こんな不愉快な感情は抱いたことがない。

「お前、なんでそんなこと」

「……だってしょうがないじゃない」

 ふてくされたような口調。

「あたしも、恭介のこと、好きなんだから。恭介を……好きな人をと奪られたくないって思うのは、当然のことでしょ?」

 由貴は塀から体を離すと、俺と向き合った。由貴の瞳がまっすぐに俺へ向けられる。彼女の、直球な気持ちが伝わってくる。

「ねぇ、恭介。この間の話の返事、ここでちょうだい」

 告白の返答を出せと、由貴は言ってきた。

「俺……」

 声を絞り出す。

「俺は――」

 早苗の笑顔が、一瞬、脳裏に浮かんだ。

「俺は、由貴とは、付き合えない」

「どうして?」

 特に驚いた様子もなく、淡々と、由貴は訊いてくる。

「あたしのこと、嫌い?」

「そうじゃない。お前のことは、ずっと、いい友達だと思ってる。けど……」

「けど、なに? もしかして恭介、あの子が好きなの?」

 早苗のことを好きなのか。そう問われて、俺はすぐに返事をできなかった。その沈黙が、答えだった。

「どうして?」

 由貴の口調が、厳しいものに変わった。不可解さを露わにしているようだった。

「あたしよりも、あんな、耳の聞こえない子のほうが、恭介はいいの? 恭介の声が聞こえなければ、普通にしゃべることもできない、そんな子を好きになったって、しょうがないんじゃないの?」

「じゃあ、耳が聞こえるやつを好きになれば、それでいいのかよ!?」

 思わず怒鳴っていた。俺は、由貴の目に怯えの色が広がっていくのを見て、しまったと思った。次の言葉は、息を深く吸ってから、静かに口にする。

「由貴だって、耳の聞こえるやつ同士で恋人になったのに、結局ダメだっただろ? しかも二度も」

「それは――……」

 由貴は言い訳を考えたようだが、結局、なにも言い返してこなかった。つまりは、そういうことなのだ。

「由貴……耳が聞こえる聞こえないとか、そういうのは、問題じゃないんだ」



 電車を降り、改札を抜ける。そして、階段をのぼって、地下鉄駅構内から地上に出たところで、俺は由貴と別れる。

 校門からここまで、俺と由貴は近すぎず遠すぎずという距離を保ったまま、一緒にやって来た。普段の気楽な、しゃべりながらの帰り道ではなかった。今日の俺と由貴は、よそよそしい二人組だった。

 帰り道がたまたま同じだけの二人。

 歩いている時も電車に揺られている時も、由貴は終始、口を閉ざしていた。いつもの明るい雰囲気も無く、ただ、ときどき俺と目を合わせるだけだった。

 一方の俺も、由貴と話すことをしなかった。早苗のことで頭がいっぱいだったし、それに、事実上は告白を断わった直後だったから、気まずさもあった。

 こんなにも長い時間、二人きりでいて一言も言葉を交わさなかったことは、これまで一度も無い。

「それじゃ、な」

 俺は軽く手を上げて見せる。

 すると由貴も、ぎこちない笑顔を浮かべながら、手を振ってきた。その手が、ふいに、止まった。

「恭介」

「ん?」

「早苗ちゃんのこと、だけど」

 由貴は苦しそうに眉を寄せた。

「今度、謝らせて」

 その申し出に、俺はしばらく驚いていたが、やがてハッとして頷く。

「あぁ、いいよ」

「……良かった」

 由貴はホッとしたように表情を軟らかくした。

 俺も思わず頬を緩めていた。

「じゃあ……」

「うん。また明日ね、恭介」

 由貴と別れる。

 俺はすぐに帰路についた。由貴との別れ際で緩んでいた気持ちが、きゅっと引き締まっていく。一人で歩いている間に考えるのは、早苗のこと。

 早苗は今どんな気持ちでいるのだろう……?

 知らず、足早になっていた。

 寄り道でもしていなければ、早苗はもう自宅に帰っているはずだ。

 俺はすぐに早苗に会わないといけない。会って、話をしないと。由貴の言っていたことは間違いだと、伝えなければ。

 駅とマンションの、ちょうど中間あたりに来た。その時、鞄の中で、携帯電話が鳴った。メールではない。通話着信だ。

 歩きながら携帯を取り出す。

「こんな時に……」

 苛立ちながら携帯の画面を見る。

 思わず、足が止まった。

 電話をかけてきた相手の名前は『三枝早苗』だった。

 ありえないことだった。早苗との携帯でのやりとりは、今までメール交換しかしたことがない。ろう者の彼女が電話をするなんてことは不可能だからだ。少なくとも俺とは、文字を使わなければ意志を伝えられない。

 俺は恐る恐る、通話ボタンを押した。

「もしもし」

 受話部分を耳に押し当てる。返事は無い。

「早苗だよな?」

 携帯をいくら強く耳に当てても、聞こえてくるのは相手の息づかいだけだった。落ち着いた、静かな呼吸だ。泣いている様子ではない。

「早苗……」

 どれだけ呼びかけても、俺のこの声は、彼女の耳に届かない。

 それが、たまらなく悔しかった。



 わたしは電話を切った。画面を見ると、通話時間が表示されていた。三十二秒。何も聞こえない三十二秒間だった。彼は何かを話してくれていたのかもしれない。けど、わたしにはなにも聞こえなかった。

 携帯電話をベッドの上に放り投げる。

 恭介さんに電話をかけても、しょうがなかった。最初からわかりきっていたことだ。なのにわたしは、夢見ていたのだ。ひょっとしたら、彼の声が聞こえるようになっているかもしれない、と。

 聞こえるわけ、ないのに。

 また泣きそうになってしまい、わたしは奥歯を噛んだ。家に帰ってきてから、自分の部屋でさんざん泣いた。もうこれ以上、涙なんて流したくない。

 椅子に座ったまま、机に突っ伏す。

 こんなにまで、耳が聞こえない自分を、嫌になったことはない。

 せめて――せめて、彼の声が聞こえるようになりたい。全ての音とは言わない。この世界でたった一つ、彼の声だけを聞けるようにして欲しい。そうすれば、こんなつらい思いをせずに済む。

 由貴さんの言うとおりなのかもしれない。

 わたしは、思い上がっていたのかもしれない。

 ラブレターを渡すなんて、おこがましい。

 だんだん、そう思えてきた。

 足もとに置いてあったバッグから、ラブレターを取り出す。わたしは、それを、封筒ごと破り始めた。



 マンションに着いた俺は、自分の家には帰らず、そのまま隣家のインターホンを押した。玄関を開けて出てきたのは、早苗の母親。

「あら、恭介くん? いま学校から帰ってきたとこ?」

「はい……あの、早苗は?」

 俺が訊くと、早苗の母親は苦笑いした。

「もう帰ってきてるけど、部屋から一歩も出てこないの。ヘンよね。覗いてみても、ベッドにうつぶせになったままだし……ひょっとして、恭介くん、早苗と何かあったの?」

「――まぁ、ちょっと」

「あら。ケンカでもした?」

 俺はどう答えたものか悩んでしまい、何も言えなくなった。それを肯定と否定のどちらと受け取ったのか、早苗の母は静かにほほ笑んで言った。

「ケンカしたなら、なおさら、お互いが相手の言葉をキチンと聞かなくちゃダメよ? 特に早苗とは、ね」

「は」

 早苗の母親は、玄関を大きく開けると、家の中に俺を促した。

 お邪魔します、と口にしながら、玄関を通る。

「早苗の部屋はそこね」

 靴を脱ぐ俺に、早苗の母親が閉じたドアを指さして言った。

「あ、そうだ。わたし、これからちょっとお買い物行くから、早苗と二人でお留守番お願いしていい?」

「そりゃ、いいですけど……」

 よかった、と早苗の母親はニコッと笑う。そして、リビングに入る寸前に、俺を振り返った。

「二人きりのうちに、仲直りしちゃいなさい」

 俺は反射的に、はい、と答えていた。



 いちおうノックしてから、早苗の部屋に入る。ゆっくりドアを開け、中の様子を確認する。早苗の姿は、部屋の奥の、ベッドの上にあった。

 早苗はベッドにうつぶせになったまま、微動だにしない。寝ているようにも見える。

 俺は静かにドアを閉めて、早苗に近づいていく。彼女は俺がベッド脇に来ても、ピクリとも動かない。

「早苗?」

 軽く、肩を叩いてみる。

 と、早苗の首がゆっくり回って、その顔を俺に見せた。目と目が合う。直後、早苗は俺に背を向けて、体を丸めた。まるで怪物か何かを見たかのような反応だ。

 俺は戸惑ったが、構わず、早苗の肩を掴み、こっちへ向かせる。早苗は両の掌で、耳ではなく、両目を覆っていた。これでは話ができない。

「早苗!」

 呼びかけてみるが、そんなことに意味はない。俺の声は部屋の壁にむなしく吸収されていくだけだった。

 早苗は目を隠しているが、口もとだけは掌の間から見えていた。ぎゅっと固く結んだ唇だった。泣きそうなのを、必死でこらえているような唇の形だ。

 胸が痛くなる。

 さっきまで泣いていたのだろう。早苗の頬には涙の乾いた跡がいくつもあった。

「くそ……」

 俺は、早苗から手を離した。

 話をしたい。でも、早苗がこんなふうに、両目を閉じていては話ができない。聞こうという意志が相手に無いかぎり、俺たちの会話はできないのだ。

 こうなったら、早苗が話を聞いてくれるようになるまで、待つしかない。

 俺は早苗の勉強机の椅子を借りた。鞄も、足もとに置く。

 ――ふと、俺は机の上に、紙くずが盛られているのに気づいた。紙くずは大小さまざま。その中から一つを手に取ってみる。

 紙くずは、表面が白で、裏面には薄い青を下地に赤い線が一本引かれていた。しばらく見ているうちに、俺はこれが便せんの破片だと思った。

 便せん――手紙。

 由貴の話によれば、早苗は告白をしようとしていたらしい。いつも文字で会話をする早苗のことだ。もしかすると、ラブレターを用意していたのかもしれない。

 となると、この紙くずが、ラブレターという可能性がある。

 俺は紙くずをあさり始めた。だが、どれを見ても、一文字も書いてない。これはラブレターではなく、早苗が気まぐれに破った紙なのかもしれない。そう思い始めた時だ。俺は初めて、文字の書いてある紙くずを見つけた。

 その紙には、たった二文字。

『好き』とだけ書かれていた。

 俺はこの紙くずの山を、もとの手紙の姿に戻すことに決めた。早苗がどんな気持ちで、自分の手紙を破ったのかは、わからない。それでも、俺はその気持ちを受け止めてあげたかった。泣かなくてもいいんだよと教えてあげたかった。そのためには、早苗が破った手紙を俺の手で元通りにしなければいけない。そう思ったのだ。

 手紙はそれほど細かくちぎられていなかったので、復元するのは不可能ではなさそうだ。ちょっとしたパズルだと思えばいい。

 便せんとは絵柄の違う紙片もいくつかあった。たぶん、便せんと一緒に破られた封筒だろう。まずは、それをわきに寄せてから、便せんのつぎはぎに取りかかる。

 一つひとつ。

 似たような形の紙くず同士を、罫線を頼りに、根気よくつなぎ合わせていく。俺が便せんの復元をしている間、背後からは物音ひとつ聞こえてこなかった。身じろぎの気配さえしない。実際、ときおり、後ろを振り返ってみても、早苗は目を手で覆ったままずっと横たわっていた。

 やがて、紙片の集まりが一枚の便せんになる。仕上げに失敬したセロテープで切れ目をふさげば、終わりだ。

 テープで貼り合わせられた手紙。

 見た目は不格好だが、本文を読むことはできる。

 その便せんに書かれた言葉を見ながら、俺は改めて知った。

 早苗の気持ち。


『好きです』


 たった四文字の本文。

 それ以外の言葉は、なにも書かれていない。

 いつもメモ帳でやりとりするような、短い言葉。

 でも、俺にとっては、この四文字がどんな言葉よりも早苗の気持ちを伝えてくれた。



 わたしはベッドの上で背を丸めている。こんなかっこうをしたままで、どれくらいの時間がたったのだろう。何も見えない。瞳は閉じているし、さらにその上を、手の平が覆っている。見えるのは、まぶたの裏の暗い世界。

 恭介さんは、まだそこにいるのだろうか。気になる。でも、恐くて瞳を開けられない。今のわたしには、恭介さんと顔を合わせる勇気が無かった。

 きっと恭介さんは、待ち合わせ場所にいなかったことを不思議に思って、わたしのところへ来たのだ。どうしてわたしがあそこで待っていられなかったのか、その理由を知っているとは思えない。わたしが告白しようとしていたことさえ、知らないはずだ。

 頭の中で、由貴さんに見せられた言葉が何度も思い浮かぶ。わたしの気持ちは、恭介さんにとって迷惑――そう自覚するたびに、告白しようとしていた自分がイヤになる。

 由貴さんは正しい。わたしは、自分の気持ちばかりを優先して、肝心の恭介さんの心を考えていなかった。自分の子どもさが恥ずかしい。

 でも、まだ全てが終わったわけじゃない。恭介さんがわたしの気持ちを知らない今なら、まだ、引き返せる。告白しようとしていたことを、秘密にするのだ。そうすれば、わたしたちの関係は今まで通りのままになる。ただ家が隣同士なだけの、二人に……。

 わたしは手をどかすと、瞼をゆっくり開けた。恭介さんの後ろ姿が、目の前にあった。まだ、いてくれたのだ。

 恭介さんはベッドの近くの椅子に座っていて、机に向かっている。わたしにはその広い背中しか見えない。

 横になっていた体を起こす。

 と、恭介さんが振り返った。どこかホッとしたような表情を浮かべる。そして、いつもみたいに、優しく笑いかけてくれる。

 息が苦しい。恭介さんの顔を見ていると、自分の気持ちが溢れてきてしまいそうになる。「好き」と伝えたくなる。だけど、もう決めたのだ。わたしの気持ちは、伝えずにおこう、と。

 なにかしゃべりかけないと。そう思ったものの、手元にはいつものメモ帳とシャープペンが無かった。そんなふうにわたしが困っていると、恭介さんは机の上の紙切れを手にとって、それを見せてきた。

 直後、わたしは息が一瞬できなくなった。

 恭介さんが見せてきたのは、さっき破ったばかりの便せんだった。いたるところにセロテープが貼られていて、ボロボロになっているけど、間違いない。わたしのラブレターだ。

 恭介さんがラブレターを直してくれた。

 一度は捨てたわたしの気持ちを、拾いあげてくれた……。

 わたしは、涙が目の奥から込み上げてくるのを感じていた。

 胸の奥が熱い。

 涙が頬を伝っていったが、拭うことを忘れていた。すると、恭介さんが腕を伸ばしてきて、手の甲にわたしの雫をこすりつけた。

 わたしは、我慢できずに、恭介さんの胸に飛び込んだ。一瞬だけ、恭介さんの体が緊張したのがわかった。でも、すぐに、彼はわたしの頭と腰に手を回してきた。背中を抱きしめられ、頭の後ろを撫でられる。

 わたしの気持ちを知っているはずなのに、恭介さんは優しくしてくれる。

 どうして?

 問いかけたくて、わたしは顔をあげた。鼻先が触れ合うくらいの距離に、恭介さんの顔がある。瞳が涙でうるんでいても、彼が笑っているのがわかる。

 その、彼の顔が、いきなり近づいてきた。彼のあごの先がわたしの目の前に迫ってくる。かと思ったら、ふいに、おでこに柔らかいものが触れた。

 ゆっくり顔を離す恭介さんは、恥ずかしそうに笑っていた。

 そこでようやく理解した。額にキスをされたのだ。突然のことにビックリしてしまい、わたしはまじまじと恭介さんの顔を見上げてしまう。

「         」

 恭介さんの唇が動いた。何かを話しかけてくれたようだ。

 彼の声は、やっぱりわたしの耳には届かない。

 それでも、わたしは理解できた。

 恭介さんが何を言ったのか。

 聞こえたわけじゃないのに、わかる。

 わたしを包み込む手の平。

 穏やかに見つめてくる瞳。

 優しく笑っている唇。

 彼の全てが、彼の気持ちを伝えてくれる。今のわたしにはそれだけで充分だった。

 ――好き。

 わたしは想いを乗せて、彼の唇に、自分のを押しつけた。

僕ら聴者(耳が聞える人)は、他人との意志の伝達におもに声を使う。

どれだけメールが主流になろうとも、やはり人との交流で会話ほど直接的で、簡単な手段は無い。

だが、それも完全ではない。

お偉い学者さんもちょくちょく指摘するが、言葉というものは不完全なものなのだから、だ。

いくら工夫しても、相手に自分の意図することを100%伝えることは、不可能だ。


そもそも、人間はやろうと思えば、言葉で自分の本心を隠すことができる。

「本当はこいつのことキライだけど、表面上は友達のフリしないと・・・」という状況などが、それだ。

日本人によくある、ホンネとタテマエというやつ。

そういう、タテマエを大事にするときに、言葉がまた使われる。

これは言葉の悪用みたいで、僕はあまり好きじゃない。

大人の観点からすれば、こういう表面上の言葉で世の中は回っているのだろうけど・・・。

できるなら、そういうウソはつきたくないものだ。


しかし、世の中には、そういうウソの言葉が溢れているのも事実。

政治家などがその最たるものだろう。

彼らは言葉巧みに、自分に都合のいい、かつ、非難されにくい表現をいつも使っている。


僕が何を言いたいのかというと、言葉がその人の心を全て表せるわけではない、ということだ。

どれだけ頑張っても〝気持ち〟を〝言葉〟にするのは不可能なのだ。

では、どうやって人は他人の気持ちを知りうるのだろう?

僕はその疑問に対する答えを、本作に盛り込んでみたのだが、読者のみなさんにはたして伝わっただろうか。

もしも何か感じてもらえたのなら、それ以上に嬉しいことはない。


僕はだいぶ昔に、付き合っていた子がいた。

まぁ、付き合っていたといっても、小学6年生の頃だから、いま振り返ればオママゴトのようなものだったが。

当時の僕はその子が心底好きだった。

理由は自分でもわからないが、とにかく好きだったのだ。

だけど、結局、中学に上がってすぐに別れてしまった。

原因は僕の側にある。

僕はあの子に、なにひとつ、優しいことをしてあげられなかった。

「好き」という言葉も、口ではなく、手紙交換で伝えただけだった。


そもそも、僕とその子との会話は、ほとんど紙によるものだった。

本作の恭介と早苗のメモ帳交換のように、一文書いては相手に渡し、返事が返ってきたら、それにさらに返事を書いて渡す。

この繰り返しだった。

同じクラスにいたのに、なぜ紙で会話していたのかは、未だに謎だが。

授業中でも〝会話〟ができたのは、大きなメリットだった。

もっとも、教師に交換の現場を見つからなければ、の話だったが。


とにかく、僕とその子の会話は、文字によるところが大きかった。

だからかもしれない。

僕は一度も彼女に、別れた後も含めて、「好き」と口にして伝えたことが一度もない。

ただ紙に「好きだよ」と書くだけで済ませていた。

しかも、べつに行動で気持ちを表現した覚えもない。

いや、僕の行動はいつだってどこか狂っているから、かえって彼女を傷つけることのほうが多かっただろう。

あれでは愛想を尽かされてもしょうがない。


僕はもっと行動で表すべきだった。

口に出さないにしても、ちゃんと「好き」という気持ちを伝えるべきだったのだ。

今にして思えば、僕は〝言葉〟や〝文字〟に頼りすぎていて、もっと大事な、伝えようとする気持ちそのものを欠いていた。

当時の僕にそういう自覚があったなら、もうちょっと結果は違ったものになったかもしれない。

今となってはただの仮定の話だけど。


さて。

僕がこの作品に何を込めたかったかというと、人が人に気持ちを伝えるときに〝言葉〟に頼りすぎていてはダメ、ということだ。

言葉が大事であることには、もちろん異論を挟む余地はない。

だが、それ以上に、相手に気持ちを伝えようとする意志が必要なのだ。

これは理屈では説明できない。

とても感覚的なことなので、僕も上手に表現しづらいが・・・。

とにかく、そういうようなことを考えながら、僕はこの物語を考えたのだ。


みなさんも人を好きになったら、言葉ではなく、気持ちを伝えてくださいね。


・・・なんだかマジメくさい文章になってしまった。

赤面。


ちなみに、これはこぼれ話ですが。

本作は構想段階ではタイトルが『愛がきこえる』となっていましたが、なんだかWinkっぽいのでやめにしました。

以上、タイトル決めるのって難しいネ、という話でした。

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