第8話 白い百合と青い薔薇
王都の金の鐘が三度、澄んで鳴った。
早春の気配が宮殿の石壁をなぞり、中心塔から放たれた鐘の音が王都へ流れていく。この日は、喪失を悼む日でありながら、新たな王の誕生を祝福する日でもあった。
獅子王の遺児、マリー王女殿下の即位式。
そして護送での野盗の襲撃を防いだ功として、ネイに勲章が授与されることも決まっている。
主役のために垂らされた白百合の幕は幾重にも重なり、その下の広間には商人、市民、巡礼僧たちが満ちている。吹き抜けの上階では、貴婦人たちが扇で口元を隠しながら静かに見下ろしている。
特設の壇の中央には、王権のしるし――権杖と国璽。そして、その前にひとりの少女が立っていた。
マリー・ド・アンブラージュ。
白を基調とした礼装は、まだ少しだけ彼女の身体には大きい。袖口は長く、掌を半ば隠し、裾は床を撫でるほどに流れている。けれど背筋はまっすぐだった。目に迷いはない。息が胸を上下させるたび、胸元の白綬がかすかに震える。
「あの時の殿下を思い出すな」
ネイの呟きは小さい。幼少期のマリーの面影が、ふと脳裏によみがえった。
「ここまで、お連れできたのね」
ローザはわずかに笑い、横目でネイを見る。
「だが、ここからが始まりだ」
守るべき対象が、“王女”から“王”へ変わる。
獅子王暗殺疑惑。マリー襲撃事件。気がかりなことは、残ったままだ。ネイの表情が引き締まる。
ローザはネイの横顔を見て、静かに言った。
「ええ。でも今日は――少しだけ、喜びましょう」
ローザの気遣いか、助言とでも言うべきか、確かに今日は祝福の日だ。ネイは肩の力を、ほんの少しだけ抜くことにした。
そして、特設の壇の上。マリーの背後から二人の姿がゆっくりと現れる。
対をなす二人――ルクス教の教皇と、ハーデンベルグ公爵にして獅帝戦団総帥、そして新たにマリーの摂政となったグラーフ・フォン・ハーデンベルグ。
まるで光と影の屏風だった。
教皇の白と金の装いで秩序を語り、グラーフ公は全身黒の衣服に包まれ、喪を示している。目の隈まで黒い。
教皇が杖先をわずかに上げるだけで、ざわめきが沈む。グラーフ公が顎をひと分だけ傾けるだけで、列の歪みが自然に正される。
――動かぬこと自体が、権力の形に見える瞬間があった。
管弦が落ちる。司儀が章を改める。司祭たちが白い香煙を掲げ、祭器の銀が揺れ、呼吸のたびに光の粒が舞った。外の雲が厚みを変え、差し込む光が一段やわらぐ。
「私は誓います。――剣は嘆きのためではなく、修復のために。閉ざされた路を開き、消えかけた灯を掲げます」
細いが、澄んだ声だった。幼さを残しながら、その語り方には王家の律が確かに鳴っている。
教皇が頷くと、側近が羊皮紙を一章ぶん送る。マリーの目の奥の決意が、陰影に合わせるように深くなる。
「争いに疲れた者に休息の場を。怒りを抱く者には公平の秤を」
視線が左右へ動く。上階の貴族席へ。下階の市民へ、巡礼僧へ、鉢巻を締めた職人へ。
誰もが、その小さな視線が自分に落ちたと錯覚した。王の視線とは、遠い者にさえ「見られた」と思わせる術なのだ。
「王の名は、あなたがたの安寧のためにある!」
宣誓に、歓呼が沸いた。
「陛下万歳!」
声の波が大広間を満たし、石床に足音のざわめきが重なっていく。聖歌隊の少年少女が歌い出し、その旋律は穹窿を渡って幾重にも反響した。
だが、その歓喜の底で、無表情の視線が二つだけ浮いていた。
ひとつは、煌びやかな装いに濃い香油を焚いている商人筋の男。もうひとつは、来賓席に座る、赤い外套と頭巾を深く被った男。
いずれも礼は崩さない。だが“測る目”だけは、礼を装っていなかった。とりわけ頭巾の男は、襲撃者の証言――「頭巾を深く被っていた」――男と重なる。だが、違和感だけでは動けない。ここは祝福の壇上だ。確信を掴めなければ、この式そのものを汚すことになる。
「ネイ、あの二人。気になる」
「ああ。だが今は動けない。注視を頼む」
ローザも同じ見立てだった。ネイは監視を託し、勲章授与のために移動を始める。
即位式は歓呼のうちに、しかし厳かな芯を失わぬまま閉じられ、儀は勲章授与へと移る。書記官の声が張りを増し、名簿の頁がめくられた。紙の擦れる音が、意外なほど大きく聞こえる。
「続いて、護送功労の勲章授与に移る。ハーデンベルグ公国獅帝戦団第八小隊長――ネイ・カイザーハイン」
胸が熱くなった。足を運ぶたび、赤絨毯の毛足が靴底にわずかに絡んだ。大理石の冷えが膝の奥へ忍び込み、かえって背筋が正される。
この勲章は、自分ひとりのものではない。ローザ、ロッシュ、メグ。そしてハーデンベルグにいるグロワールの名も連れて、壇に上がるのだ。
誉れは個ではなく、隊にある。ネイはそう信じていた。ひと息、背筋を伸ばす。
列の端で、ローザが頷く。ロッシュが拳を一度握り、静かに開く。メグは緊張の笑みを押し隠し、裾を踏まぬよう姿勢を正していた。
ネイは歩み出る。多くの視線が一点に降り注いだ。
諸侯の値踏みの目。
民の祝福の目。
巡礼僧の祈りの目。
その視線は、戦場の矢とは違う形で肌を刺す。歩み寄るネイに、マリーは微笑みを隠さずに言った。
「あなたが拓いた路を、今度は私が護ります。――カイザーハイン」
その呼びかけにだけ、少女の年相応が残っていた。だが言葉の芯は、すでに王のものだった。
「身に余るお言葉にございます、陛下」
静かに片膝をつき、深く頭を垂れる。
教皇は瞼を伏せ、祈りの印を描く。グラーフ公は微動だにせず、彫像のように礼節の輪郭を保っている。
侍従が黒い綬箱を台の陰から運び入れ、銀鎖がかすかに触れ合って薄い音を立てた。侍従は勲章の綬をネイの襟元で結び、位置を整える。儀礼は滑らかに進む。
何ひとつ、乱れるはずがなかった。
そのとき――襟の内側で、細い金属がきしんだ。
勲章の留め金が、布の下に隠れていた鎖へわずかに噛んだのだ。
侍従は気づかぬまま結び目を締め直す。
次の瞬間。
勲章の金具に触れ、硬い音を立てながら、小さな青色の装飾物が胸元から滑り出た。白綬の上で、それは小さく揺れた。
青い薔薇が紋様された装飾物。
教皇の瞼が上がる。その視線がネイの胸元の一点に吸い寄せられ、瞬きが消える。目が大きく見開かれていく。
「……その装飾物――」
教皇と、グラーフと、マリー。三人の視線が、同じ一点に突き刺さった。
歓呼は遠くへ退く。上階の扇が一斉に止まる。下階のざわめきも、香の煙の中で固まった。喉を鳴らす音さえ、誰ひとり立てない。
儀礼の中心――壇上にだけ届くような、清澄な声で、教皇が告げる。
「それは本来、聖都ルクス=アークにおいてのみ、厳重に保管されるべき聖紋――」
時が止まったかのように、大広間の空気が沈んだ。水面のように張りつめ、冷たく凍る。
そして一拍おいて、教皇は言い切った。
「――デラヴイユ王紋である」
白百合の旗は、風を忘れたように静止していた。
ネイの胸元で、青い薔薇の意匠だけが、かすかに光を返していた。




