第7話 闇の胎動
新たな王が、目前に立った。
マリー王女だった。幼少期からハーデンベルグ城に庇護されていた、あの少女だ。
年相応の柔らかな笑み。裾を少しつまみ、礼を取る。二人は反射で姿勢を正した。
「お久しぶりにございます。ローンズベリー戦役に参加されていたと聞き、陰ながら心配しておりました」
マリーは柔らかな口調で語り掛ける。ネイとローザが、かつて護衛兼お付きだった過去は、言葉にしなくても滲んだ。
「勿体なきお言葉にございます、殿下」
「お健やかにあらせられて何よりに存じます」
二人の様子に、マリーは微笑みで返す。けれど、その目は少し精悍になっている。国の重さが、瞳の奥に小さな火を灯していた。
ネイの中で、ひとつの記憶がほどける。
*
冬の小礼拝堂。
清めのための聖水盤は薄氷で閉じ、灯りは低く揺れていた。
「表面が凍っている……」
幼いマリーは薄氷に指先を当て、すぐ引っ込める。予想以上の冷たさに眉を寄せた。
そして薄氷を割ろうと手を上げたとき、ネイはそっと手首を押さえた。
周囲を見回し、脇の卓に置かれた小さな器――香油の空瓶を見つける。ローザが理解して頷き、侍女に目配せする。
侍女は静かに下がり、ほどなく温湯を持って戻ってきた。
ネイは氷を無理に割らず、静かに温湯を注ぎ込む。薄氷は音もなく、生き返るように水に戻った。
「……壊した方が速いのに」
不思議そうに見上げるマリーへ、ネイは柔らかく言う。
「壊せば速うございます。ですが砕けば氷の縁が鋭くなります。殿下の手を傷つけるやもしれませぬ」
ネイは膝をつき、マリーに目線を合わせると続けた。
「温めて水に戻す、もしくは器を変える。その方が安全にございます」
マリーは小さく復唱した。
「温めて水に戻す……器を、変える」
ローザが巾でマリーの指をそっと拭い、マリーは二人の所作を真似るように小さく会釈した。
「ネイ、ありがとう!勉強になりました!」
満面の笑みが、幼い声のまま胸に残る。
*
記憶がほどけ、成長したマリーが目の前にいる。
「では、明日はよろしくお願いいたします。ネイ、ローザ」
二人の名を残し、踵を返す。ネイはかすかに笑みを浮かべ、敬礼のまま見送った。
*
出立の朝、街道は薄霧に濡れていた。山から下る冷風が、白百合の紋を縫った輿の帷をやわらかく揺らす。
列頭にはネイ。輿の両側にロッシュとメグ。最後方にローザ。侍従らは輿を囲むように歩く。
北へ開けた街道を渡り、森へ入ってしばらく進んだ――そのときだった。
「待て」
ネイの手が上がる。視線が森の奥を裂く。
「人の気配がする。複数だ」
小隊の空気が一気に変わる。すると鳥が一斉に飛び立ち、空気が逆流した。
土を蹴る音。革紐の軋み。吸い込む息。矢が空を裂く。――ロッシュの盾縁で跳ね返る乾いた音が鳴る。
木陰から飛び出した腕を、ローザが“切らない角度”で払った。柄で骨の近くを打ち、力だけを奪い、男は倒れる。即座にメグが矢を一閃放つ。倒れた男の袖に矢柄が刺さり、男は動けなくなる。そこへロッシュが踏み込み、息の残るまま確保した。
二人目が輿へ向かって剣を振るう。ネイは踏み込みに合わせ、鞘のまま横へ払う。顎下の一点へ打突。男は膝から崩れて砂を噛み、失神した。
三人目が輿へ腕を伸ばす。ネイの左手がその指を掴み、即座に捻り上げる。男の悲鳴が走る。背後からローザが男を地面へ沈めた。
「終わった……ようだな」
ネイは周囲を見回し、短く息を吐く。
「傷は浅い。縛れ。息はある」
ローザが告げ、メグが頷く。矢を抜く角度は丁寧だった。
「殿下、ご無事でございますか」
ネイが輿へ手を添える。返ってきた声は、揺れの奥で確かな温度を持っていた。
「ありがとうございます……怖うございましたが、見ておりました。皆さまの動きが、とても鮮やかで」
安堵と、どこか感嘆が混じっている。
「畏れ入ります」
ネイは礼をする。ローザも小さく礼をする。ロッシュは照れ隠しに咳払いし、メグは矢を拭いながら視線で無事を伝えた。
ネイは頷くと、縛られた襲撃者へ目を移す。
痩せ細った体躯。草臥れた服。外套には魚脂の匂いが染みつき、腰帯には粗雑な革紐。見るからに野盗の装いだ。だが押収した剣や弓はいずれも新しい。
そして、すべてにベルノア製の刻印が打たれていた。
「ベルノアの者か」
ネイは男の剣を手に取り、刻印を確かめる。
「そうだ」
男は吐き捨てるように言う。
ネイは男の腰帯に吊るされた袋を取り上げ、中を改めた。
――金貨が一枚。
ネイは目を見張る。汚れた指と釣り合わない輝きだった。
「この金貨は何だ。……悪いが、お前の見た目でこの金貨は不自然だ」
金貨を掲げ、男の目に入る位置へ置く。男は思わず視線を逸らした。
「誰から依頼された」
ネイの声は低い。襟を掴み、目線を外さない。鋭い視線が男を刺す。
「ず……頭巾を深く被ってて顔はよく分からなかった。前金を貰って……武器を渡された。殺さなくていい、傷つければそれでいいって言われてよ……成功すりゃ、前金の倍が出るって――」
男は項垂れ、言葉を吐き出すように落とした。
「どこで依頼された」
ネイは声色を変えない。
「……ベルノア王国領、ベルイシス」
ネイはゆっくり立ち、ローザへ言う。
「王都で裁かせる。連行しろ」
「了解」
高枝で小鳥が一声だけ鳴いた。
列は剣を下げ、速さではなく品位で進み直す。輿が再び動き、薄霧はほどけ、車輪が土を踏む音に列の息が戻っていく。
やがて遠景に、アンブラージュの石壁が霞んだ。門前の人波は喪の沈黙で道を開け、帽を取り、頭を垂れる者もいる。香の匂いが薄く混じり、祈祷師が目を伏せた。
輿の帷が静かに上がり、マリーは一歩、土を踏む。小さく深呼吸し、周囲へ会釈する。若く小さい体が、国の重さに耐える準備をしている。ネイを含めた四人は一歩下がり、同時に膝をついた。
「あなた方にお願いして良かった。命を奪わず制す。素晴らしい仕事でした」
その言葉を残し、マリーは石段を昇りはじめる。門の内側には人波と喪の沈黙。
白百合の帷は城内へ――王女が女王になる時が、確かに近づいていた。
任務を遂げたネイは、ひとつ深く息を吐く。
だが脳裏に、疑念が浮かぶ。
何のための襲撃だったのか。護衛が付く以上、襲撃は想定内だ。
しかし意外だったのは、停戦を結んだはずのベルノアからの、たった三名の刺客。しかも手慣れの者ではなかった。
さらに「殺さなくていい、傷つければいい」――その指示の意味が、喉に引っかかる。
獅子王の死を発端に、何かが動き始めている。ネイはそれを、肌の内側で直接感じ取っていた。
――闇が蠢き始めている。




