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双貌のローザリア  作者: あかまる
第1章 微光

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第5話 残響の果て

 軍神が、ベルノアの盾となって立ちはだかる。


 城塞門前の通路――その中央に、黄鉄の眼が静かに灯っていた。


 “軍神”マーガレット・シュロップシャイア。


 彼女がそこに立っているだけで、前へ流れていた隊士たちの呼吸がひとつ、受け身へ転じる。


 城塞そのものが、ひとりの女の立ち位置に合わせて息を変えたようだった。


 だが前線を預かる中隊長は、門を割った勢いと軍神の出現が生んだ停滞を、“好機”と誤認した。


「怯むな! 前列、押せ! 軍神を討ち取れ!」


 各小隊が喉の恐れを押し潰すように声を上げ、門前へ駆ける。


 その叫びを見て、グロワールの表情が焦りへ変わり、怒号が飛んだ。


「違う! 退け! 前列、いったん退け!」


 だが怒号と金属音、そして投石が爆ぜる音に削られ、その声は前線まで届かない。


 最初に飛び込んだのはロッシュだった。軍神は微動だにせず立ったままだ。


 次の瞬間、ロッシュの体が宙に浮いた。


 鈍い衝撃音と共に、大盾が石畳を滑り、ロッシュの身体が地を這う。続いて突っ込んだ別小隊も、同じように弾かれた。


 軍神は退いていない。なのに、押し込んだ側だけが理由もなく下がっている。


 斬られてはいない。ただ、壁に跳ね返されたような感覚だけが残る。


「ど、どうなってんだ――!」


 起き上がろうとしたロッシュの胸板に、剣先が静かに触れた。喉でもなく、心臓でもない。“そこまで”と線を引く位置。殺す意志ではなく、前進を禁ずる意志に見えた。


 ロッシュは顔を歪め、息を呑んで後退する。


 続いたローザは、速さで斬りかかる。斜めに踏み込み、稜堡の狙線を外す角度を取り、上段から鋒を落とした。


 だが軍神は退かない。肩の高さを一寸も崩さず、刃を峰で受け――そのまま腕を前へ押し出す。


 次の瞬間、ローザの身体が弾け、石畳へ叩きつけられていた。


 金属音が跳ね、兜が石の上を転がる。剥き出しの額を、海風が刺す。


 ローザが顔を上げると、面の奥で黄鉄の眼が細く光った。脅すための眼ではない。敵の力量を測る眼だ。


「……っ」


 ローザの喉が硬くなる。反射で理解した。


 ――太刀打ちできる相手ではない。


 ローザは半歩退き、名を呼んだ。


「ネイ!」


 ネイが霧を割って滑り込む。構える前から、受けと攻めの線は定まっていた。


「下がれ、ここは俺が――」


 言い切る前に剣先が飛ぶ。だが直感する。これは斬るための剣筋ではない。ネイは刃を斜めに立てて受け止める。


 衝撃で霧が散る。


 刃と刃が重なった瞬間にわかる。


 ――軍神は、まだ全力ではない。


 それでも押し返す余地のある圧。

 

 斜め下の打ち上げを見せ、膝を抜き、半身で横へ出る。軍神の刃が空を切る。互いに取りこぼしがない。均衡している。だが、その縁がわずかにこちらへ沈む感覚がある。


 軍神は技量を測りながら、必要最小限の力だけを出している。


 ――力を抑えて、これか。


 ネイの柄が汗でわずかに滑る。握り直しの半拍――その綻びに刃が来る。そう読んだ瞬間。


 軍神の剣は手元ではなく、ネイの剣筋そのものを押さえに来た。腕を断つのではない。次の一太刀を出させない位置へ、最短で刃を置く。


 攻めを断つ。

 勢いを殺す。

 前線の流れそのものを止める。


 それが、軍神の剣。


 押し切れない。だが、押し返されてもいない――それ自体が異常だった。通常なら数合でどちらかが傾く。いま傾いているのは、せいぜいネイの吐く息だけだ。


 すると軍神が、はじめて口を開く。


「お前……やるな」


 低く澄んだ声。驕りがない。それが、かえって重い。守るために剣を振るう者が、敵を正当に量る声音だ。褒め言葉でありながら、“まだ上がある”ことを隠そうともしない。


「あんたは……余裕みたいだな」


 ネイは退かず、視線で応える。そして、剣を交わしながら、ひとつだけ確信したことがある。

 

 軍神の剣は、攻めの剣ではない。これは、守りの剣だ。


 肩で息をしながら、孤児院の庭で木剣を打った朝を思い出す。自らが教わったのもまた、守りの剣。


 剣筋の向こうに、自分と同じ信条が見える。だが、その力量には、はっきり差がある。


 ――どうすれば勝てる。


 霧の白膜が、わずかに薄くなる。稜堡の弩座がこちらを狙い直す。長くはもたない。どこかで決めねばならない。


 ――強引に行くしかない。


 踏み込む瞬間、ネイは重心を半拍だけ遅らせ、斬撃を外へ流す。剣の腹が擦れ、火花が散ると、軍神の肩が、砂粒ほど沈んだ。


 軍神がはじめて見せる隙。その隙へ刃を差し込む――その瞬間。軍神もまた内へ斬り込む。


 そして二つの剣は、一つの残響を残して弾けた。


 ネイは数歩、後ろへ“置かれた”。退いたのではない。退かされた形にされただけだ。


 そのとき、中軍から角笛が鳴る。


 三度。


 短く、切るような音が戦場を裂いた。


 ネイの脳裏に軍議の声が蘇る。


 ――角笛三。状況変化。一旦退く。以降、指示があるまで動くな――


「退け! 全員、一旦退く!」


 ネイが叫ぶと、ロッシュとローザは即座に反応し、メグを挟んで後退の形を作る。


「ここまで来て戻るのかよ!」


 ロッシュが噛みつくように吐く。だが足は止めない。


「命令だ! 退くぞ!」


 ネイは迷いなく押し返す。グロワールは命令に従いすぎるなと言った。だが、これは別だ。理由がある退きの命令だ。


 軍神は追ってこない。剣を肩へ返し一歩も動かず、眼だけで問う。


 ――なぜ、ここで下がる。


 勝てないからでも、負けたからでもない。何かが変わった退き方だと、軍神にもわかったのだろう。


 ネイは礼を崩さない。ほんの一瞬、兜を外すと一礼する。軍神も面を上げ、同じく一礼した。


 潮の音だけが残る一瞬。


 互いに“守る剣”であることを確かめる、静かな間だった。もし互いの立場が違っていたのなら、理解し合える人間かもしれない――そんな思いが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。


「……名を聞いておこう」


 軍神はネイの顔を見つめながら静かに問う。


「獅帝戦団、ネイ・カイザーハイン」


 ネイも軍神の目を捉えたまま、静かに返した。


「覚えておこう」


 軍神はわずかに笑みを浮かべ、踵を返す。


「隊列を崩すな、無駄に騒ぐな! 負傷者を先に回せ!」


 グロワールの怒号が、靄の残滓を押し退ける。


 ロッシュが盾を後ろへ。ローザがメグを下げ、ネイが最後尾で敵の出方を看る。稜堡の上でも弩は沈黙する。ベルノア側もまた、この撤退の理由を測っていた。


 そのとき、中央から走者が転がるように駆けてくる。霧が薄れる通路を裂き、膝から砂に崩れ、声を振り絞った。顔色は抜け、目は恐怖とも動揺ともつかぬ色で大きく見開かれている。


「伝令――っ、至急、全軍に――」


 グロワールが走者の肩を掴み、支える。


「何があった!」


 短い息ののち、走者は告げた。


「――獅子王、急死の報」


 波音が止んだようだった。


 霧はまだある。潮の匂いも、石の冷たさも、傷の痛みもある。


 それでも、戦場の芯だけがふいに抜け落ちていた。

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