第5話 残響の果て
軍神が、ベルノアの盾となって立ちはだかる。
城塞門前の通路――その中央に、黄鉄の眼が静かに灯っていた。
“軍神”マーガレット・シュロップシャイア。
彼女がそこに立っているだけで、前へ流れていた隊士たちの呼吸がひとつ、受け身へ転じる。
城塞そのものが、ひとりの女の立ち位置に合わせて息を変えたようだった。
だが前線を預かる中隊長は、門を割った勢いと軍神の出現が生んだ停滞を、“好機”と誤認した。
「怯むな! 前列、押せ! 軍神を討ち取れ!」
各小隊が喉の恐れを押し潰すように声を上げ、門前へ駆ける。
その叫びを見て、グロワールの表情が焦りへ変わり、怒号が飛んだ。
「違う! 退け! 前列、いったん退け!」
だが怒号と金属音、そして投石が爆ぜる音に削られ、その声は前線まで届かない。
最初に飛び込んだのはロッシュだった。軍神は微動だにせず立ったままだ。
次の瞬間、ロッシュの体が宙に浮いた。
鈍い衝撃音と共に、大盾が石畳を滑り、ロッシュの身体が地を這う。続いて突っ込んだ別小隊も、同じように弾かれた。
軍神は退いていない。なのに、押し込んだ側だけが理由もなく下がっている。
斬られてはいない。ただ、壁に跳ね返されたような感覚だけが残る。
「ど、どうなってんだ――!」
起き上がろうとしたロッシュの胸板に、剣先が静かに触れた。喉でもなく、心臓でもない。“そこまで”と線を引く位置。殺す意志ではなく、前進を禁ずる意志に見えた。
ロッシュは顔を歪め、息を呑んで後退する。
続いたローザは、速さで斬りかかる。斜めに踏み込み、稜堡の狙線を外す角度を取り、上段から鋒を落とした。
だが軍神は退かない。肩の高さを一寸も崩さず、刃を峰で受け――そのまま腕を前へ押し出す。
次の瞬間、ローザの身体が弾け、石畳へ叩きつけられていた。
金属音が跳ね、兜が石の上を転がる。剥き出しの額を、海風が刺す。
ローザが顔を上げると、面の奥で黄鉄の眼が細く光った。脅すための眼ではない。敵の力量を測る眼だ。
「……っ」
ローザの喉が硬くなる。反射で理解した。
――太刀打ちできる相手ではない。
ローザは半歩退き、名を呼んだ。
「ネイ!」
ネイが霧を割って滑り込む。構える前から、受けと攻めの線は定まっていた。
「下がれ、ここは俺が――」
言い切る前に剣先が飛ぶ。だが直感する。これは斬るための剣筋ではない。ネイは刃を斜めに立てて受け止める。
衝撃で霧が散る。
刃と刃が重なった瞬間にわかる。
――軍神は、まだ全力ではない。
それでも押し返す余地のある圧。
斜め下の打ち上げを見せ、膝を抜き、半身で横へ出る。軍神の刃が空を切る。互いに取りこぼしがない。均衡している。だが、その縁がわずかにこちらへ沈む感覚がある。
軍神は技量を測りながら、必要最小限の力だけを出している。
――力を抑えて、これか。
ネイの柄が汗でわずかに滑る。握り直しの半拍――その綻びに刃が来る。そう読んだ瞬間。
軍神の剣は手元ではなく、ネイの剣筋そのものを押さえに来た。腕を断つのではない。次の一太刀を出させない位置へ、最短で刃を置く。
攻めを断つ。
勢いを殺す。
前線の流れそのものを止める。
それが、軍神の剣。
押し切れない。だが、押し返されてもいない――それ自体が異常だった。通常なら数合でどちらかが傾く。いま傾いているのは、せいぜいネイの吐く息だけだ。
すると軍神が、はじめて口を開く。
「お前……やるな」
低く澄んだ声。驕りがない。それが、かえって重い。守るために剣を振るう者が、敵を正当に量る声音だ。褒め言葉でありながら、“まだ上がある”ことを隠そうともしない。
「あんたは……余裕みたいだな」
ネイは退かず、視線で応える。そして、剣を交わしながら、ひとつだけ確信したことがある。
軍神の剣は、攻めの剣ではない。これは、守りの剣だ。
肩で息をしながら、孤児院の庭で木剣を打った朝を思い出す。自らが教わったのもまた、守りの剣。
剣筋の向こうに、自分と同じ信条が見える。だが、その力量には、はっきり差がある。
――どうすれば勝てる。
霧の白膜が、わずかに薄くなる。稜堡の弩座がこちらを狙い直す。長くはもたない。どこかで決めねばならない。
――強引に行くしかない。
踏み込む瞬間、ネイは重心を半拍だけ遅らせ、斬撃を外へ流す。剣の腹が擦れ、火花が散ると、軍神の肩が、砂粒ほど沈んだ。
軍神がはじめて見せる隙。その隙へ刃を差し込む――その瞬間。軍神もまた内へ斬り込む。
そして二つの剣は、一つの残響を残して弾けた。
ネイは数歩、後ろへ“置かれた”。退いたのではない。退かされた形にされただけだ。
そのとき、中軍から角笛が鳴る。
三度。
短く、切るような音が戦場を裂いた。
ネイの脳裏に軍議の声が蘇る。
――角笛三。状況変化。一旦退く。以降、指示があるまで動くな――
「退け! 全員、一旦退く!」
ネイが叫ぶと、ロッシュとローザは即座に反応し、メグを挟んで後退の形を作る。
「ここまで来て戻るのかよ!」
ロッシュが噛みつくように吐く。だが足は止めない。
「命令だ! 退くぞ!」
ネイは迷いなく押し返す。グロワールは命令に従いすぎるなと言った。だが、これは別だ。理由がある退きの命令だ。
軍神は追ってこない。剣を肩へ返し一歩も動かず、眼だけで問う。
――なぜ、ここで下がる。
勝てないからでも、負けたからでもない。何かが変わった退き方だと、軍神にもわかったのだろう。
ネイは礼を崩さない。ほんの一瞬、兜を外すと一礼する。軍神も面を上げ、同じく一礼した。
潮の音だけが残る一瞬。
互いに“守る剣”であることを確かめる、静かな間だった。もし互いの立場が違っていたのなら、理解し合える人間かもしれない――そんな思いが、ほんの一瞬だけ胸をよぎる。
「……名を聞いておこう」
軍神はネイの顔を見つめながら静かに問う。
「獅帝戦団、ネイ・カイザーハイン」
ネイも軍神の目を捉えたまま、静かに返した。
「覚えておこう」
軍神はわずかに笑みを浮かべ、踵を返す。
「隊列を崩すな、無駄に騒ぐな! 負傷者を先に回せ!」
グロワールの怒号が、靄の残滓を押し退ける。
ロッシュが盾を後ろへ。ローザがメグを下げ、ネイが最後尾で敵の出方を看る。稜堡の上でも弩は沈黙する。ベルノア側もまた、この撤退の理由を測っていた。
そのとき、中央から走者が転がるように駆けてくる。霧が薄れる通路を裂き、膝から砂に崩れ、声を振り絞った。顔色は抜け、目は恐怖とも動揺ともつかぬ色で大きく見開かれている。
「伝令――っ、至急、全軍に――」
グロワールが走者の肩を掴み、支える。
「何があった!」
短い息ののち、走者は告げた。
「――獅子王、急死の報」
波音が止んだようだった。
霧はまだある。潮の匂いも、石の冷たさも、傷の痛みもある。
それでも、戦場の芯だけがふいに抜け落ちていた。




