最終話 双貌のローザリア
和平の鐘が、聖都の白い石をゆっくりと撫でていた。
祈祷墓苑、白百合区画。
淡い鐘声が石畳を渡り、白壁に触れ、また遠ざかっていく。朝の空は高く澄み、祈祷塔の影が長く伸びて、二人の足元を一度だけ静かに横切った。
「久しぶりだな」
「ええ」
第八小隊の解散から七日。再会の言葉は、それだけで足りた。
並ぶ四つの墓標には、白百合が何輪か添えられている。
新しい石は、まだ角が立っていた。刻まれた名の溝には昨夜の露が細く残り、朝の光を受けてかすかに光っている。
ネイはその前で立ち止まり、外套の襟を正した。
胸の奥に沈んでいるのは、赦しの懇願の言葉の重さと、最後まで明かされなかった“言えぬ理由”の重さだった。どちらも同じ深さで息を狭め、同じ深さで、今なお心の底に沈んでいる。
二人は並んで花を置いた。手袋越しにも石の冷たさは伝わり、その冷えは皮膚を越えて胸の奥まで染みていくようだった。
最初に向き合ったのは、グロワールの墓だった。
ネイは短く目を伏せる。
思い出されるのは、厳しく、無骨で、命令に従い続けた一人の男の背だ。だが同時に、第八小隊を鍛え、守り、戦う術を刻み込んだ“父”としての背でもあった。
鐘の音がひとつ、遠くで重なる。
次に、ソレイユ。
薄い光に縁取られた名は、どこまでも静かだった。
その静けさは眠りではない。もう戻らぬ沈黙だ。
ネイは墓標へそっと手を触れた。
冷たさが掌を貫く。だが、その冷たさの奥に、剣を交えたあの瞬間の熱も、言葉を交わした最後の震えも、なお残っている気がした。
太陽の名を与えられながら、闇として生き、最後にはその闇のまま消えることを選んだ男。
それでもネイの胸の中には、幼い頃から憧れ続けたその背が、今も確かに残っている。
――闇は、ここで止まりました。
――けれど、あなたに与えられた太陽の名まで消えたわけではない。
――あの光は、今も俺の中に灯っています。
ネイはゆっくりと手を離した。
ローザは一歩遅れて、ベロニカの墓前へ向かった。
花を置いたあともしばらく手を離さない。離してしまえば、そこに残るはずの温度まで失われる気がしたのだろう。
伏せられた睫毛の奥に、何を思っているのかは分からない。
けれど、その沈黙は誰よりも深い祈りに見えた。
そして最後に、グラーフ。
ネイは墓標の名を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
――あなたの“禊”は、果たされた。
風が旗を一度だけ鳴らした。布の擦れる音が、小さな弔いの拍手のように聞こえる。
二人は半歩下がった。
祈り終えた者の距離だった。
「王国本軍には……編入できたのか」
「ええ。マリー様の命で、側近の立ち位置になった」
良かった、と口にすることもできた。だが、その言葉を今ここで軽々しく置くことはできなかった。
それでも、ここで伝えなければならないことがある。
ネイは静かに顔を上げ、ローザを見た。
「……ローザ。言っておきたいことがある」
ローザの瞳がわずかに揺れ、すぐに静まる。逃げ道のない静けさだった。
墓苑の空気とは別の緊張が、二人の間へ降りる。
「お前の意志で、その正義で、マリー様を支え……導いてくれ」
ローザは何も言わず、ただネイを見つめていた。
「このローザリアのために」
懇願に近い声だった。頼みというより、託す言葉だった。
ローザはその真意を測るように唇を噛み、やがてゆっくりと頷いた。
「……あなたの代わりに、支えてみせる」
その声は静かだった。だが、決して揺れてはいなかった。
頷いたあと、ローザは一歩だけ踏み出した。
問いを避けぬ距離へ。
「ネイ。あなたはどこへ行くの」
ネイは答えの形を作れなかった。
沈黙が、そのまま肯定になってしまう。
ローザはその沈黙の輪郭を見て取り、声をさらに落とした。
「……デラヴイユ……」
ネイの喉が、一度だけ鳴る。否定しようと思えばできた。だが、それはできなかった。
「否定も、肯定もしない」
その言葉に、ローザは手を差し出しかけて止めた。
触れようとした指先が空を掻き、ゆっくりと拳へ変わる。その小さな動きが、胸に刺さるほど痛かった。
「だが、最後に言わせてくれ」
ネイは息をひとつ飲み込んだ。
「お前がいなければ、ここまで来られなかった。感謝しかない」
少しだけ目を伏せ、それからもう一度、ローザを見つめる。
「本当に……ありがとう」
それ以上の言葉は、要らなかった。要らないと、ローザも分かっていた。
ここで言葉を増やせば、別れは崩れ、二人とも前へ進めなくなる。
ネイはゆっくりと手を差し出した。
それを見たローザは、わずかなためらいのあと、その手を取る。
掌に伝わるその温度には、逃走の日々も、再会も、共闘も、交わしきれなかった沈黙も、すべてが込められていた。
互いの手が離れた、その瞬間だった。
ローザの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
たった一筋だった。けれど、今まで流せなかったすべてが、その一滴に宿っているように見えた。
ネイは外套の前を整え、墓標へ一度だけ視線を戻した。
それは祈りであり、区切りでもあった。
ローザは小さく頷く。その頷きは、引き止めるものではなく、背中を押す合図だった。
ネイは踵を返し、墓苑の門へ向かった。
祭典へは行かない。鐘の下に立てる名ではない。
白い石の通路を進むその背に、ローザは何も呼びかけなかった。
呼べば、止まってしまう気がしたからだ。
白百合が風に揺れた。
揺れは小さい。けれど確かに、別れの線を引いた。
*
大聖堂広場。
鐘が高く澄み、白百合と赤鷲の旗が並んでいる。群衆の息がひとつになり、香の匂いがその隙間へ流れ込んでいく。
正面扉の前には、教皇が白金の法衣と牧杖を携えて立っていた。
階段上には、アンブラージュ王マリー、ベルノア王アージェンス。
マリーの右にローザ。アージェンスの左にマーガレット。
ロッシュとメグは人垣の中から式台を見守っていた。二人の肩は、今日だけは少しだけ軽い。
教皇が牧杖を掲げる。
「――両王よ、前へ」
羊皮紙が広げられ、二人がそれぞれの名を記す。
羽根の先が紙を走る音は小さい。だが、その小ささが、戦のどんな叫びよりも重かった。
互いが見つめ合い、一拍置いて、握手を交わす。
波のように歓声が湧き上がった。
教皇は祝別の印を空へ描く。
「この握手に祝福と和あれ。憎しみの連鎖はここで断たれ、正義は法と慈しみのもとに歩む。――ルクスの御名において」
広場が静まる。
香が、息の浅い者の胸へも容赦なく入り込む。誰もが失ったものを思い出してしまう匂いだった。
その静けさの中、マリーが一歩前へ出る。
背は細い。
だが、その立ち姿は少しも揺らがない。
「アンブラージュ国王、マリー・ド・アンブラージュが申し上げます」
声は澄んでいた。
高く、遠くまで届く声だった。
少女の声でありながら、すでに王の響きを宿している。けれど、その透明さの奥には、誰にも測りきれない深みがあった。
「このローザリア大陸に流れた血を、私は決して忘れません。勝者だけの旗でも、敗者だけの沈黙でもない――人のために剣を収める、その一歩のために、私たちはここに立っています」
群衆のどこかで、裂けた藍の房を胸に提げた老巡礼が、笑顔のまま深く頷いた。
「私たちは、獅子王の時代から多くを学びました。その剛勇は国に繁栄をもたらし、同時に、その拡張の歩みは戦乱を呼び、幾つもの家に喪失の影を落としました」
マリーは言葉を急がない。急げば、痛みが置き去りになると知っているように。
「力は礎となり得ます。けれど、力そのものは正しさではない。正しさとは、倒れた者の名を忘れないこと。正しさとは、泣く者の涙を“なかったこと”にしないこと。正しさとは、明日を生きる者へ、今日の祝福を分け与えることです」
一瞬だけ、マリーの瞳が伏せられる。
「ゆえに我らは、法を前へ。剣は鞘へ。報復ではなく秩序を。忘却ではなく記憶を。孤児の食卓に灯を。働く手に道を。街道に見張りを。違いは境ではなく、橋を」
マリーは息を継ぎ、はっきりと言葉を置いた。
「そして、今日を迎えるために――疑念を受け、追われ、それでもなお歩みを止めなかった者がいます」
群衆の波が、息を止める。
「彼は今、この広場にはいません。だからこそ、その名を、感謝と共に私の口から述べます」
広場の視線が、一斉に階段上へ向けられる。
「その名は――ネイ・カイザーハイン」
階段上で、アージェンスとマーガレットが目を合わせ、短く頷き合う。
人垣の中で、ロッシュが腕を組み、唇を噛み、それから笑った。メグは両手で口元を押さえ、肩を震わせながら頷いている。
ローザは、その名を聞いても動かなかった。
動けば、胸の奥の何かが溢れてしまう。
彼女はただ、抜けるような青空を見上げた。
あの空のどこかに、もう届かぬ背を探すように。
マリーは続ける。
「彼は勝者の剣としてではなく、橋を架けるための剣として戦いました。それは私たちが、互いの痛みを携えたまま、なお共に立つための働きでした」
その声は、最後にわずかだけ強くなった。
「この和平は、痛みを抱えたままでも、なお次を選べるのだという誓いです。この大陸の未来が、報復ではなく、守りと慈しみの道を歩むという誓いです」
マリーは、まっすぐ前を見据える。
「アンブラージュとベルノアが、互いの痛みを携えながら、共に支え合う。それが――」
観衆が一瞬静まり、彼女の次の言葉を待つ。
「未来のローザリアです!」
その宣言は、白い石の広場を真っ直ぐに貫いた。
白百合と赤鷲の旗が、同じ風に大きく揺れる。
次の瞬間、広場の静寂は、堰を切ったような歓声へと変わった。聖都の鐘が祝福のように幾度も響きわたり、祈りの声、泣き声、笑い声がひとつの波となって空へ昇っていく。
ローザは静かに息を吐き、晴天の空を見上げた。
言葉にしなかったものが、鐘の余韻へ溶け、見えない高みへ昇っていくようだった。
――空が、澄みわたっていた。
真実が罪であったのか、救いであったのか――その答えを知る者はいない。
それでも、人はなお選び、なお託し、なお明日へと歩む。
光と闇の双貌を抱いたまま。
ローザリアは、未来へと進んでいく。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これで物語は完結となります。
この作品が、少しでも皆さまの心に残る物語になれていたら幸せです。
ありがとうございました!




