第55話 決意と継承
乾いた風が頬を撫でる。
日が傾き、白い瓦礫帯と半ば崩れた柱廊が、茜に染まっていた。
デラヴイユ王国遺跡。
石は折れ、柱は崩れている。だが、意志の輪郭だけは、今なおこの地に残っていた。
ネイは馬上から降り、手綱を短く整えた。視線の先では、リディアが待っている。薄い外套の裾を、風が静かに揺らしていた。
「全て、終わったのですね」
「分からない。……だが、一つの区切りはついた」
自分でも驚くほど、声は低かった。終わっていった者たちの名が、まだ喉の奥に引っかかっている。
「レオン陛下に、俺の決意を伝える。“空”へ連れて行ってくれ」
リディアは静かに頷き、歩き出した。
昇降核へ至る導線を進むのは、これで二度目だ。
それでも足は、わずかに躊躇った。示された場所に立つと、昇降核が低く唸るように動き始める。
震えは小さい。だが、その静かな力は、世界の層を一枚ずつ剥がしていくようだった。
足元の遺跡が遠ざかり、雲の縁が近づく。夕焼けが雲の谷を赤く染め、青い影がその赤を噛んでいた。
しばらくして昇降核は止まり、扉が開いた。
夕暮れの空中都市は、以前とは違う表情を見せていた。
雲海の上に、淡い金が広がっている。空気は冷たい。だが、どこかやわらかい。街路には灯がともり始め、石と金属の縁が薄く光っていた。人の足音がある。短い会話がある。祈りの鈴の音が、遠くでかすかに揺れている。
覆いの中で生きる都市は、今日もまた“静かに続く”ことを選んでいた。
ネイはリディアの案内で、中心尖塔へ向かった。道の傍らを流れる細い水路には、夕の光が波紋となって揺れている。水面に映る空がかすかに乱れ、すぐに戻る。揺れては戻る、その反復が、この都市の呼吸のように思えた。
尖塔の入口では、ギュスターヴが待っていた。
彼はいつものように穏やかな微笑みを湛え、一礼する。その礼の角度に迷いはない。都市の“中核”として揺らがぬ男だった。
「お戻りになられましたか、殿下」
殿下、と呼ばれるたび、胸の奥で王紋が冷える。
「レオン陛下への報告に来ました」
ギュスターヴは何も挟まず、ただ道を開けた。語られぬものがある時、言葉を減らすのもまた礼儀なのだと、その背が示していた。
玉座の間へ向かう廊は静かだった。
静かだが、空虚ではない。壁の紋様、灯の置かれ方、磨かれた床の鈍い輝き。ネイはそこで、初めて自分が深く息を吸っていることに気づいた。
玉座の間に入ると、玉座の傍らにはリディアの母が立っていた。彼女はネイに向かって深く礼をし、ネイもまた応えるように一礼する。
そして、巨大な画面が明滅した。
光が揺れ、像が立ち上がる。
「ネイ、よく戻ってきてくれた」
像の表情には安堵があった。かすかに笑みを浮かべている。だが、その輪郭は以前よりも、わずかに薄い。
――“生きている”と言えるのは、この光がなお残っているからだ。
残っているのは命ではない。意志だった。
「あなたの言葉を、グラーフ公に伝えました」
ネイは、その笑みに応えられる表情を作れなかった。伝えた言葉が救いになったのか、あるいは追い詰める刃になったのか――その答えを、まだ自分の中で確かめきれていないからだ。
ネイは、地上で起きた全てを伝えた。
グラーフは権力欲だけで動いていたのではないこと。
レオン、グラーフ、グロワール――三人の想いが噛み合わぬまま走り、そのわずかな狂いが、やがて悲劇へと繋がっていったこと。
ソレイユが自死を選んだこと。闇は闇のまま消えると、自ら言い切ったこと。
そしておそらく、グラーフもまた“禊”を果たし、死を選んだであろうこと。
語るほど、胸の底が冷えていく。だが、語らず抱えれば、それはまた闇のまま増えていく。
「そして、グラーフ公からあなたへの言葉を預かっています」
ネイはひとつ息を呑む。
「“私をお赦しください”――と」
グラーフからの最後の言葉を受け取ったレオンは、目を伏せた。
頷きもせず、否定もしない。ただ、光の像の口元だけが、わずかに歪んでいた。
「……それぞれの想いが、それぞれを狂わせた……何という……悲劇か……」
ネイは視線を下げた。自分の手に付いた血を思い出す。闇の者たちは闇のまま消え、自ら“終わり”を選んだ。
レオンが、静かに続ける。
「あの日、名を捨てて生き延びた私たちは……“デラヴイユ”という名に囚われ続け、死んだ」
その言葉の重みが、玉座の間に沈んだ。ネイは、その沈みを受け止めるしかない。
「……デラヴイユは、悪夢であり、呪縛だ」
その断言に、ネイは反射的に顔を上げた。
「君は、“デラヴイユ”の名に囚われるべきではない。地上で生きるべきだ」
それは、鎖から外そうとする言葉だった。突き放すためではない。守るための言葉だと、すぐに分かった。
ネイは、ゆっくりと息を整えた。喉の乾きは消えない。だが、それでも言葉を立てる。
「……俺は、決意を示しにここへ来ました」
沈黙が落ちる。
ギュスターヴも、リディアも、リディアの母も、一斉にネイを見た。
「確かに、あなたたちはデラヴイユの名に囚われ続け、死という果てに辿り着いた。悪夢かもしれない。呪縛なのかもしれない。――でも」
ネイは、視線を逸らさなかった。
「デラヴイユは、それ以上に多くの人を救ってきた」
名もなき戦災孤児の救い。密かに地上へ運ばれる薬や食糧。覆いによって混乱を避け、時機まで“心臓部”を守り抜くこと。侵攻回避のための秩序。
救いは派手ではない。派手ではないからこそ、ここまで続いてきたのだ。
「俺は……このデラヴイユも、ここの秩序も、守らなくてはならないと思っています」
投影のレオンの目が大きく開かれていた。像の輪郭がわずかに揺れる。その明滅が、涙の代わりに瞬いているように見えた。
「あなたが言った、“人の体温で導くべき”という言葉――」
ネイは右手の掌を一度開き、そして握った。地上で握ってきた剣の柄の感触が、掌の内側へ戻ってくる。今、握るのは武器ではない。責任だった。
「俺は……後を継ぎ、新たな“器”となります」
言葉は短い。
だが、短い言葉ほど重い。
逃げぬ目。選んだ者の目だった。
「……ネイ……」
レオンが、その名を呼ぶ。声が震えたように聞こえた。
ネイは一息ついてから、初めてその言葉を口にする。
「……父上……」
その一語が落ちた瞬間、玉座の間の空気が変わった。
静けさが、硬い沈黙から、やわらかな沈黙へと変わる。
投影のレオンは目を伏せ、口を噤んだ。
涙は流せないはずなのに、流れているように見えた。像の明滅が、その代わりのように揺れていた。
それを見ていたギュスターヴが、静かに一歩前へ出る。
「その正義感と責任感――殿下は、陛下によく似ておられる。我らが殿下をお支えいたしましょう」
ギュスターヴは微笑み、レオンへ視線を向けた。その目は臣下の目であり、同時に、これからはネイの柱となると決めた者の目でもあった。
ネイは夕の灯を背に、言う。
「デラヴイユが悪夢であり、呪縛ならば……俺が、それらを解き放ってみせます」
言い終えた後、ネイは静かに頷いた。
投影のレオンは笑みを浮かべ、ゆっくりと頷き返す。
「ようやく、私はこの姿から解放される。天へ召され、グラウカやソレイユ……そして――」
レオンは、静かに息を置いた。
「……アンと、失われた時間を取り戻そう」
懐かしむような表情で、ネイの母の名を呼ぶ。
ネイはかすかに笑みを見せ、深く一礼した。
その礼は、臣下の礼でも、騎士の礼でもない。
息子の礼だった。
「ギュスターヴ。機能停止を」
レオンの、最後の指令。
ギュスターヴはその言葉に喉を震わせながら、機構の操作盤へ手を伸ばした。指先が一度だけ止まる。だが、次の瞬間には迷いなく押し込まれた。
投影のレオンの姿が、徐々に薄れていく。
「ネイ……息子よ……ありがとう」
「父上……」
ネイの両眼には、大粒の涙が溢れていた。
やがて、像は静かに消えた。
玉座の間の灯が、夕空の色に合わせるように、わずかに明度を落とす。
雲海の向こうで、陽が沈んでいく。
ネイは静かに胸元の王紋へ指を当てた。
いつもは冷たかったその王紋が、わずかに温度を帯びた気がした。
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