第54話 別離の刻
城の外は、風が生きていた。
門のそばに、ローザたちが待っていた。
マーガレットは腕を組み、顔色ひとつ変えずに立っている。メグは落ち着かぬ様子を隠しきれず、それでも視線だけはまっすぐだった。ロッシュは笑おうとして、今日は最後まで笑いきれず、口角を半分だけ持ち上げている。
そしてローザは、一歩前へ出た。何も言わず、ただ頷く。
ネイは息をひとつ置いて、言った。
「アンブラージュとベルノアは、和平を結ぶ」
風が門の上を鳴らした。金具が小さく震え、乾いた音がひとつ落ちる。その音が、遅れて届く終戦の報せのように胸へ沈んだ。
ロッシュが、ようやく息を吐く。
「……そうか」
短い言葉だった。だが、その端には隠しきれぬ安堵が滲んでいた。
マーガレットは小さく頷いた。
「お前が繋いだ和平だ。誇ってよい」
だが、ネイは首を横に振る。
誇りではなかった。自分は繋いだのではない。ただ、託されたものを運んだだけだ。
ソレイユとベロニカの名を踏み台にして得る言葉なら、なおさら胸を張ることなどできなかった。
それでも――ここで言わなければならないことがある。
ネイは四人を見た。
共に戦い、逃げ、奪われ、守り、何度も死線をくぐってきた仲間たちを。
「これで――小隊の任務は完了だ」
四人の視線が、一斉にネイへ集まる。
風が止んだように思えた。
「本日をもって、第八小隊を解散する」
言い終えた瞬間、逆に風の音だけが大きく聞こえた。
驚きのあまり、誰もすぐには言葉を返せない。
「獅帝戦団はアンブラージュ王国本軍に吸収される。孤児院も王国直轄で運営されることに決まった」
ローザ、ロッシュ、メグの肩が、同時にほんのわずか下がった。
安堵だった。
自分たちの行く末ではない。あの子どもたちの行く末が守られると知れたことへの、深い安堵だった。
ネイは最初に、メグへ歩み寄った。
「メグ」
名を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
ネイは静かに手を差し出す。メグは一瞬だけ迷い、それから、そっとその手を握った。
小さな手だった。
だが、弓を引いてきた手だ。傷を縫ってきた手だ。命を繋いできた手だ。
「最年少なのに、お前はずっと小隊を支えてくれた」
飾れば、嘘になる。だからこそ、まっすぐ言う。
「弓の腕だけじゃない。医術だけでもない。お前は、いつも人の命のほうへ先に走った」
メグの睫毛が震える。
「クランベリーで子どもを救った時も、そうだった。あの時、俺はお前の背中を見ていた。怖かったはずなのに、お前は止まらなかった」
ネイは少しだけ笑った。
「今もそうだ。お前は確実に強くなった。戦う強さだけじゃない。人を見捨てない強さが、誰より深くなった」
メグが小さく笑い、すぐに俯く。
「……ネイ様や、ローザ様や、ロッシュ……みんながいたからです。私は、ただ……この小隊の力になりたかっただけです」
声が震える。
けれど、その震えを呑み込む術を、彼女はもう知っていた。あの頃より上手になった分だけ、痛みの隠し方も覚えてしまったのだと分かる。
ネイは頷いた。
「ありがとう、メグ。王国本軍への編入を推薦しておく。これからも、誰かの命を繋いでくれ」
メグはついに涙を堪えきれず、握った手を両手で包み込んだ。小さな掌に宿る力は、もう幼子のものではない。未来を掴むための力だった。
次に、ロッシュの前へ立つ。
「ロッシュ」
呼ばれたロッシュは胸を張った。だが、唇は噛みしめられ、表情は少し歪んでいた。
ネイが手を差し出すと、ロッシュは静かに手を握った。掌が熱い。
「お前はずっと、小隊の盾だった」
ネイの喉が少し詰まる。
「前で守ってくれた。横で支えてくれた。時には、背中から無理やり前を向かせてもくれた」
ロッシュが視線を逸らす。ネイは続けた。
「喧嘩っ早くて、声がでかくて、うるさくて……それでも、お前がいたから、この小隊は何度も折れずに済んだ」
少しだけ笑う。
「お前の軽口に、どれだけ救われたか分からない。誰も笑えない時でも、お前だけは笑おうとした。あれは、皆を前へ押す力だった」
ロッシュが、鼻の頭を乱暴に擦った。
「……ネイ。そういうの、今言うかよ。反則だろ」
半分笑顔で、半分泣き顔だった。
「泣くじゃねぇか……」
ネイは短く、だがはっきりと言った。
「お前は、生涯の親友だ」
その瞬間、ロッシュの顔が子どものように崩れた。すぐに隠そうとする。だが、間に合わない。
ネイは一歩近づき、さらに言った。
「王国本軍への編入を推薦しておく。これからも、お前の盾で誰かを守ってくれ」
ロッシュはとうとう堪えきれず、嗚咽を漏らした。
「……っ、ああ……!任せとけ……!」
そのまま二人は、強く抱き合った。
次に、マーガレットの前へ進む。
「マーガレット」
呼ぶと、彼女は一歩だけ距離を詰めた。その速度は、いかにも軍人だった。情があろうと、所作は崩さない。
ネイが手を差し出すと、マーガレットは迷いなくそれを握る。
「ローンズベリーであなたと対峙した時、正直、怖かった」
ネイは率直に言う。
「強さも、判断の速さも、何もかもが研ぎ澄まされていた。ロサマリアで再会した時も、まさか同志になるとは思わなかった」
マーガレットの目が、ほんのわずかだけ細くなる。
「だが、今なら分かる。あなたの剣は、ただ強いんじゃない。守るべきものを見失わない強さだった」
言い切る。
「あなたがいなければ、俺たちはここまで来られなかった。間違いなく」
マーガレットは沈黙したまま聞いていた。
ネイは、もう一歩踏み込んだ。
「そして俺が一番救われたのは、あなたが“軍神”である前に、一人の人間だったと知れたことだ。強いだけじゃない。迷いも痛みも知った上で、それでも前に立つ人だと」
わずかに、マーガレットの口元が動いた。
「……褒め言葉として受け取っておく」
いつもの調子だった。
だが、その声音はほんの少しだけ柔らかい。
「私も、お前たちと行動できたことを誇りに思う。同じ信条のもと、共に同じ道を進めたことを」
彼女はひとつ息を置く。
「特に、お前だ。ネイ。理想だけでなく、最後まで責任を背負おうとした。見事としか言いようがない」
ネイは目を見開き、すぐに静かに頷く。
「……ありがとう」
マーガレットは、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。
「我が王にも伝えておく。お前は、よき同志だったと」
最後に二人は手を握り直す。強く。短く。だが、決して忘れぬという意思が伝わる強さで。
そして最後に、ローザの前へ立った。
ネイは手を差し出そうとして、一瞬だけ迷う。
ローザは副長だ。仲間だ。戦場を共に越えてきた、誰より近い存在だ。
――そして、ただの仲間という言葉だけでは足りない絆があった。
だが、ローザのほうが先に手を差し出した。
ネイは、その手を取る。
指先が少し冷たい。戦いの後の冷たさ。抱えてきたものの冷たさ。失ったものの名が、そのまま指先に残っているような冷たさだった。
「ローザ」
名を呼ぶと、彼女の睫毛がかすかに震えた。
「俺が小隊長だった時、お前はずっと俺を支えた。……いや、違うな」
ネイは首を横に振る。
「俺がいる時も、いない時も、お前はずっと第八小隊を支えていた」
ローザの喉が小さく鳴る。
「即位式の日の夜――お前が俺を逃がしてくれたから、今の俺がある」
ネイは、手を握る力を少しだけ強くした。ローザは俯きかけ、堪えるように視線を上げる。
「……やめて」
拒絶ではなかった。
それ以上言われたら、保っていた何かがほどけてしまう――そんな声音だった。
けれどネイは、今だけは言わなければならないと思った。
「感謝している」
短い一言だった。
だが、その一言に、これまでの逃走も、再会も、共闘も、沈黙も、すべてが込められていた。
ローザの瞳が潤む。
それでも涙は落ちない。落とさない。彼女もまた、そうやってここまで来た。
「……あなたは、どうするの」
その問いに、メグもロッシュも、マーガレットも視線を寄せた。
役目を解かれた後に、何が残るのか。小隊長という名を脱いだ後、ネイという一人の人間が、どこへ向かうのか。
ネイは一拍置いた。
「……色々ありすぎて、疲れた」
苦笑が漏れる。笑ってよい場面ではないのに、笑いだけが先に零れた。零れた笑いは、すぐに風に削られる。
「だから、一度、自分を見つめ直す旅に出たい。今は……それ以上、うまく言えない」
ロッシュが口を開きかけ、閉じる。
メグは目を伏せたまま頷いた。理解というより、受け止めようとする頷きだった。
マーガレットは何も言わない。ただ、その沈黙が肯定だった。軍人らしい、静かな肯定だった。
ローザは、ただネイを見つめている。
「ローザ」
もう一度、名を呼ぶ。
彼女の瞳が、わずかに揺れる。
「和平合議の日。式が始まる前に、聖都で会えないか」
ローザの眉が少し動いた。
「……何の話?」
ネイは答えなかった。
答えれば、今ここで彼女の肩に別の重さを載せることになる。そういう重さは、渡し方を間違えれば刃になる。
だから、今はまだ言わない。
ネイはそっと手を離し、外套の襟を整えた。
風が一枚、二人の間を抜けていく。
冷たい風だった。けれど、その風が引いたあとに残る別れの輪郭だけは、どこか温かかった。
「……その時に話す」
それだけ告げて、ネイは歩き出した。
振り返らず、ただ前へ進む。
もう一度、自分の中の“器”が何を受け、何を守るためのものなのか――それを、自らの足で確かめるために。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると更新を追いやすくなります。




