第52話 歓喜なき勝利
扉の向こうに残されたのは、“禊”という言葉と、小さな灯だけだった。
ネイの胸の底に沈んだのは、赦しの懇願の重さと――獅子王暗殺の“言えぬ理由”だった。
右手の中で、書簡の封蝋が重く圧し掛かる。そこに記された“意思”が、沈殿した石のように掌へ圧を返してくる。
ひとつ階を降りたところで、ネイは足を止めた。
灯の輪の外に、ひとつの身体が横たわっていた。
――ソレイユ。
薄い光に縁取られた頬は、まるで眠りについたようだった。口元は硬く結ばれているのに、眉間の力だけが抜けている。
太陽の名を与えられながら、自らの選択によって闇へ沈んだ男。光と闇の狭間を生き、名に翻弄され続けた男。そして最後には、闇として消えることを自ら選んだ男。
救われるべき人だった。
少なくともネイは、そう思っていた。
――こんな場所に残したまま、先へは行けない。
ネイは静かに膝をついた。床の冷たさが、膝から腹の底へと沈んでいく。
腕を差し入れると、思っていたよりも軽く、胸が痛んだ。
抱え上げた瞬間、ソレイユの髪が手袋をかすめる。
失われたはずの“光”が、まだ皮膚の奥に残っている――そんな錯覚だけが、残酷なほど確かだった。
息を整える。自分の呼吸だけが、やけに大きい。
ネイはそのまま階段へ向かった。
段を踏むたび、鎧の継ぎ目がかすかに鳴る。その音が弔いの鐘のように耳の奥へ残った。足元の影が揺れるたび、腕の中の重みが“現実”として戻ってくる。
踊り場に差しかかったところで、別の足音が重なった。外套の端が石を擦る、乾いた音。
灯の輪の中に現れたのは、ローザだった。
彼女の腕にも、黒衣の亡骸が抱かれている。
ローザの外套に包まれたその身体は、まるで静かな眠りの中にあるように見えた。
だが、それは眠りではない。もう二度と戻らぬ沈黙だった。
ローザの指は震えていた。震えを止めるために、いっそう強くその身体を抱きしめているのが分かった。
二人は、同時に足を止めた。
視線は互いの顔へは向かわず、それぞれの腕の中にある亡骸へ落ちる。
言葉が喉につかえた。声にした瞬間、崩れてしまうものがある気がした。崩したくないからこそ、最初の一言が出てこない。
先に口を開いたのは、ローザだった。
「……全て、終わった。特務隊は全員、生きて捕捉できたわ」
低い声だった。削れた声だった。勝利の報告であるはずなのに、その響きには虚無が混じっていた。
「でも……全て救えたわけじゃない」
ローザの視線が、外套の内のベロニカへ落ちる。その落ち方は、まるで最後まで届かなかった距離そのものだった。
ネイは腕の中のソレイユを見下ろし、それからローザを見た。ローザの瞳が、ほんのわずかに揺れている。
「殿下は……闇は闇として消える、と言って……自死を選んだ」
ローザはベロニカの髪を撫でた。撫でる指先は優しいのに、その目だけが遠い。
ネイは頷くしかなかった。虚無感が胸の内側にまで染み込んでくる。
「ベロニカは……私の名前を呼んでくれたのに……彼女を取り戻せなかった」
喉がひとつ鳴る。泣き声にもならない場所で、声だけが折れた。
ネイは息を吸い、深く吐いた。肺へ入る空気が乾いている。その乾きが、慰めの不在を際立たせた。
「……殿下も同じだ。闇として消えることを選んだ」
二人は、ようやく視線を合わせた。
互いの目の中にあるのは、勝利でも、正義でもなかった。
――空洞だった。
「……私たち、間違えたのかな」
ローザの声が、ほんの一段だけ弱くなる。強い者が弱音を漏らす時にだけ現れる、薄い震えだった。
ネイは首を横に振った。即答だった。それは自分を守るための即答ではない。
ここで間違いだったと言ってしまえば、彼らが最後まで差し出した言葉まで、無意味になってしまう気がした。
「救うための言葉が――届かなかった。それだけだ」
脳裏に、レオンの姿が浮かぶ。あの人は、言葉で人を救った。
ネイもまた言葉を持っていた。だが、救い切れなかった。その決定的な差が、胸を刺す。
「行こう。俺たちは、先へ進むしかない」
ローザは黙って頷いた。頷いた瞬間、肩がほんのわずかに下がる。重さを受け入れる者の呼吸だった。
二人は並んで階段を下りた。
ソレイユの髪がネイの手袋に触れ、ベロニカを包む外套の端がローザの膝に揺れる。安らかな二つの顔。
人の温もりを忘れていた二つの“影”が、二人の腕の中で、失った温もりをようやく取り戻したように見えた。
*
最下層の広間は、戦いの後の匂いに満ちていた。
血と汗。濡れた石。剣脂の残り香。
だが、そこには勝利の叫びも、死体の山もなかった。代わりにあるのは、押し殺された息と、縛られた腕、そして壁際に並ぶ捕縛者たちの影だった。
生き残った者たちの影は、まだ長い。
まだ伸びる。
――まだ、選べる。
最初に目に入ったのは、マーガレットだった。
鎧の隙間には血の跡がある。だが、立ち姿は崩れていない。“軍神”の異名を、無言のまま証明するような姿だった。
その隣にはロッシュがいる。額に傷。鼻先に煤。ベルイシスで負った大腿の傷も、まだ万全ではない。それでも口元だけは、不釣り合いなほど明るくあろうとしていた。
「ネイ――!」
ロッシュが笑顔を作って声を上げかける。だが、その視線がネイの腕の中のソレイユに触れた瞬間、言葉は途切れた。
笑顔が、遅れて落ちる。その落ちた後の沈黙が、ひどく人間的だった。
ネイは俯き、短く告げる。
「殿下も……ベロニカも、自死を選んだ。“闇は闇のままで消える”と」
ロッシュの喉が動く。笑みは完全に消え、代わりに唇が固く閉じられる。言葉を失った時、人は歯を食いしばる。
メグがすぐに近づいてきた。弓は背へ回され、肩の角度が戦のそれから祈りのそれへと変わっている。
「……ネイ様」
彼女はソレイユの身体の傾きを一瞥で読み取り、ネイがよろめかぬ角度へ無言で手を添えた。手際は静かで、まるで祈りそのもののようだった。触れる指先は硬いのに、その触れ方だけが不思議なほどやわらかい。
マーガレットが短く報告する。
「特務隊は全員、生きて捕捉した。獅帝戦団の一部も合流し、拘束と移送の手配は整っている」
「彼らの処遇は――マリー女王陛下の指示を仰ぐ」
ネイがまっすぐ見返すと、マーガレットは短く頷いた。余計な慰めはない。
ネイは捕らえられた者たちを見回す。
怯え。諦め。歪んだ忠誠。どれもが混ざっている。
だが、その目はまだ死んでいない。まだ、選び直せる――そう感じた。
「殿下とベロニカは、聖都へ送る。遺体安置の手配をしたい」
マーガレットがネイの肩を軽く叩く。
「私が手配する。聖都側の受け入れも、こちらで話を通しておこう」
メグが小さく息を吐いた。
「……よかった。どんな最期だったとしても、祈りは受けられるべきです」
ロッシュが歯を見せて笑いかける。だが、途中でやめた。無理に明るくしてしまえば、彼らの名が軽くなると知っているのだろう。
「……ネイ、アンブラージュへ戻ろう。まず、戻ろう。話はそれからだ」
ネイは頷いた。
頷いたその瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、ほんの少しだけ動いた。
――戻る場所がある。
今だけは、その感覚だけが救いだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると更新を追いやすくなります。




