第51話 デラヴイユという名の亡霊
殿下からは、答えは明日でよいと仰せつかった。
だが私は悩んだ。ここまで巨大に膨れ上がったハーデンベルグを捨て、デラヴイユへ戻るべきなのか、と。
後を託すのはソレイユか――いや、戻るのなら、彼もまた共に故郷へ連れ帰らねばならぬ。
では、グロワールか――いや、彼は命令がなければ動けぬ男だ。
そして私は、初めて思い知った。
この国を託せる人間が、誰一人としていないことを。
なぜなら、ハーデンベルグは、殿下のために築いた国だったからだ。
気づけば、朝になっていた。
それでもなお、私は考える時間が欲しかった。
だからグロワールに伝えたのだ。
――アルザスが来たら、面会は明日に変更すると伝えよ、と。
だが、その後グロワールから報告が入った。
アルザスは、私からの“命令”を無視して入城しようとした。
それを止めるためにもみ合いとなり、斬ってしまった、と。
深手を負ったアルザスは、そのままハーデンベルグを去ったとも。
私は愕然とした。
グロワールに責はない。私の言葉は“命令”のつもりではなかった。だが、彼にとっては命令だったのだ。グロワールは、ただ従っただけだった。
私は騎士となった時、殿下を生涯守ると誓った。
それを、自ら破った。
殿下を傷つけたのは、この私だ。取り返しのつかぬ罪を犯したのだと、その時初めて知った。
その後、グロワールは責任を取って、闇の部隊の頭領を辞したいと申し出てきた。
私の右腕であり続けた男だ。だが、彼は責任感の強い男でもある。おそらく、彼もまた悩んでいたのだろう。私はそれを受け入れた。そして彼は、孤児院の子らを育てる立場へと移った。
そして、私は長く悩み続けた。
起きていても、殿下の生死を思った。
なぜあの時、答えを先延ばしにしたのか。
なぜあんな曖昧な言葉を口にしたのか。
自責は、絶えることがなかった。
眠ってもなお、殿下が血に染まる夢を見た。
そして、すぐに目が覚めた。
眠れぬ夜と、自責の念だけが、私を責め立て続けた。
やがて私は、一つの結論へ辿り着いた。
――すべては、“デラヴイユ”という亡霊のせいだ、と。
デラヴイユが存続していなければ。
殿下に、復帰の話など届かなければ。
殿下は傷つくことなく、私が築き上げたハーデンベルグの公爵として在れた。
私は、デラヴイユという亡霊の名に囚われ続けていたのだ。
そして――故郷は、憎悪の対象となった。
*
グラーフの視線はネイへ注がれていた。だがネイは、その目をまっすぐ見返すことができなかった。
「私は、デラヴイユの在り処を探し続けた」
グラーフは静かに続ける。
「そして――突然、その日が訪れた」
視線が、わずかに落ちる。
「マリー様の即位式。教皇の言葉に、私は目を疑った。お前は、殿下が身に着けておられたデラヴイユ王紋の装飾を携えていた」
ネイは目を見開く。
「そして、お前がそれを“母の形見”だと口にした時、私の中に一つの仮説が立った」
グラーフの目が、ゆっくりとネイに戻る。
「この青年は、殿下の息子かもしれぬ――とな」
ネイの喉が、かすかに鳴った。
「そして考えた。デラヴイユは、この青年に必ず接触を図る、と。デラヴイユの場所を炙り出す、またとない好機が来たのだと」
グラーフは、なおもネイを見つめ続ける。
「だが教皇は、お前を異端嫌疑として扱った。聖都に収監されれば、デラヴイユの在り処を炙り出すことはできなくなる。だから決断した。ソレイユに命じ、お前をあえて逃がし、泳がせた」
ネイは息を吐いた。吐いた息は白くならず、言葉にもならぬまま消える。
「……それでも、あの時は異端嫌疑を晴らすまで七日しかなかった。どうして、逃がすという危険を冒したんです」
率直な疑問だった。
「デラヴイユが、必ずお前を救うと思っていたからだ。聖都は、デラヴイユの意向に従うしかない」
グラーフは即答した。
「そして、お前が聖都から解放されたと報告が入り、私は確信した。そのまま泳がせれば、必ずデラヴイユへ至る門が開く、と」
二人の間に、沈黙が落ちる。
「それで俺を、ずっと監視していたということですか」
「そうだ」
短い肯定が、刃のように空気を断つ。
「俺をアンブラージュで捕捉した理由は、何です」
「理由は単純だ。お前はデラヴイユ王国遺跡で姿を消した。場所は掴めた。だが、肝心の王国の姿が見当たらない。ならば、お前を人質とし、デラヴイユと交渉して、その所在を炙り出す」
グラーフは淡々と言った。
「だが、終わりだ」
ふと、その声が落ちる。
「お前たちは、私の想像をはるかに超える動きを見せた。さすがは、あのグロワールが鍛えた小隊だ」
グラーフは目を伏せ、わずかに笑みを浮かべた。
「そして、マリー様に加え、あの“ベルノアの軍神”までも味方につけたお前の人望……私の負けだ」
ネイは勝利の実感など持てず、ただグラーフを見つめることしかできなかった。
「お前は……殿下によく似ておられる」
その瞬間だけ、グラーフの言葉遣いも、表情も、ふっとやわらいだ。
その一言が、ネイの胸に重くのしかかる。
ネイは胸の奥から、言葉を引きずり出すように告げた。
「……レオン陛下から、伝言を預かっています」
グラーフの目が大きく開き、それからゆっくりと視線が上がる。
「……“私を赦してくれ”……と」
その言葉に、グラーフの目には光るものが滲み、長い息が静かに砕けた。
グラーフは目を閉じ、額を掌で一度押さえた。その仕草には、老いた疲れが滲んでいた。
「……殿下は、変わらずお優しい」
その優しさが、この男を救うのか、あるいは追い詰めるのか。
ネイは胸の内で、赦しの言葉の重さをあらためて量り直す。
「ひとつ、腑に落ちないことがあります」
ネイは問いを畳むように置いた。
「なぜ、獅子王を暗殺し、マリー様を傀儡にしたのですか」
「それは言えぬ」
グラーフは即答した。
ネイは目を丸くする。ここまで来てなお、口を閉ざす理由があるのか。
「なぜです」
静寂が流れる。角灯が揺れ、影が伸びる。
グラーフは窓の外の鍛冶煙を見つめたまま、静かに呟いた。
「――世界の均衡が崩れ、このローザリアの秩序は崩壊する」
その言葉を聞いた瞬間、オスカー・ランブラーの声が脳裏に蘇る。
――この世界は、闇によって均衡が保たれている。
ネイは理解した。
この男は、真実を言わないのではない。言えないのだ、と。
それを口にした瞬間、ローザリアの崩壊が始まると考えている。
そしてネイは、言葉を呑み込んだ。
グラーフは机の引き出しを開け、羊皮紙を取り出すと、静かに筆を走らせた。やがてそれを封蝋で閉じ、ネイへ差し出す。
「頼みがある。――これをマリー様に届けてくれ」
ネイは無言で頷き、それを受け取った。
内容は読めない。だが、重さは伝わる。紙の重さではない。
国の意思が――あるいは、罪の行き先が、そこに記されているのだと感じた。
「……これから、どうするおつもりですか」
グラーフは迷いなく答えた。
「禊を果たす」
その言葉は、湖面へ落ちた石のように沈み、波紋だけを遠くへ走らせた。
グラーフの目は、すでに“決心”の色を帯びていた。
「そして、殿下に伝えてくれ。“私をお赦しください”――と」
ネイはグラーフの赦しの言葉を受け取ると、深く一礼し、踵を返す。
扉に手をかけた指先が、一瞬だけ震えた。自身の信条と、赦しの言葉とが、同じ重さで肩にのしかかっていた。
扉が閉まる。室内の灯が、かすかに揺らぐ。
――残されたのは、執務机と、小さな灯だけ。
引き出しの奥で、細い小瓶がかすかに触れ合い、微かな音を立てる。
机上には、金糸を焼き残した書簡の灰だけが残っていた。
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