表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
双貌のローザリア  作者: あかまる
最終章 双貌

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/57

第49話 闇へ還り、光を託す

 その視線は、闇に沈んでいた。


 ほんのわずかな隙を見せれば、こちらの心まで呑み込まれてしまいそうな、底の見えない暗さだった。ネイは剣を抜かぬまま、帯の上から鞘を押さえた。


 レオンから託された“赦しの懇願”を、グラーフ公へ届ける――その一点だけを胸の芯に据え、ここまで来た。


 だが、階段の前に立つ男が、最後の障壁のように道を塞いでいる。


 ソレイユ。


 幼い頃から憧れ、その背を追い続けてきた男。その憧れの人が今は、ひとつの“門”のように立ち、背後の闇を守っていた。


「お前は本来、拘束されたままここにいるはずだった」


 ソレイユの声は静かだった。


 口元には、苦笑にも似た形が浮かんでいる。


「予想外の展開にはなったが――ここでお前を確保できれば、何の問題もない」


 ネイは喉の渇きを呑み込み、静かに息を吐いた。


「俺を狙う理由は、何ですか」


「父の命だ。それだけだ」


 即答だった。そこに迷いの欠片もない。


「……違う」


 ネイはまっすぐ言い切った。


「あなたの父は、グラーフ公ではない」


 ソレイユの瞼が、ほんのわずかに開く。


「……お前は知っているようだな。私がグラーフ公と血の繋がりを持たぬことを」


 小さく笑う。乾ききった笑いだった。


「たとえそれが事実だとしても」


 ソレイユは目を伏せる。


「私の父は――グラーフ・フォン・ハーデンベルグ、ただ一人だ」


 言い終えるや否や、ソレイユが腰の剣を抜いた。鞘から引き抜かれた銀の光が、薄闇を一本、鋭く裂く。


 ネイもそれを見て剣を抜く。


 ――その瞬間、距離が消えた。


 ソレイユが目前に迫る。踏み込みの音が遅れて届くほど、速い。


 高く鋭い金属音がひとつ鳴り、戦いの幕が切って落とされた。


 返す刃。重ねる刃。ネイは受け流しに徹した。


 ――速い。だが、その剣先は急所を外している。


 殺すためではない。止めるための剣だ。命令を果たすための捕縛。その意図を、ネイはすぐに見抜いた。


 影が伸び、影が縮む。揺れる灯の下で、二人の輪郭だけが鋭く削られていく。


 ネイは一歩、退いた。


「こんな戦いは無意味だ!」


 叫ぶネイに、ソレイユは剣を返しながら、視線ひとつ逸らさない。


「意味はある。父上に命ぜられたから動く。それが使命――いや、血盟だ」


 乾いた言葉の底に、重いものが沈んでいた。


「血盟……?」


「特務隊は血盟を結ぶ。グラーフ公への忠誠を誓うために」


 跳ねた刃が壁を掠め、石に細い傷を刻む。


「……父上は、私が赤子の頃に炎の縁から救い上げてくれた。私を育て、戦士として鍛えた」


 その声は淡々としていた。だが、その平板な響きの底にこそ、消しようのない執着があった。


「そして、闇としての在り方も、戦い方も――それを教えてくれたのは、グロワール殿だ」


「総将……!?」


 ネイの目が大きく見開かれる。やはりグロワールは、特務隊の一員だった。


「父の地位を守るためなら、グロワール殿と共に私は何でもやった。対抗勢力を潰すための暗躍。周辺貴族を失脚させるための謀略。必要とあれば、この手を血に染めることも」


“必要とあれば”――。


 その一言の背後に、いくつもの闇が透けて見えた。


 ネイの声が低く沈む。


「……獅子王の死も、その“必要”に含まれていたというわけですか」


 沈黙が落ちる。


 角灯の火が揺れ、刃の縁だけが白く浮いた。


「――その沈黙が答えです」


 ネイの言葉に、ソレイユの瞼がかすかに震えた。


 二人の双眸が絡む。


「父上は、ある時から止まれなくなった」


 先に口を開いたのは、ソレイユだった。


「止まれぬ父の背を、影として支える。それが私の誓いだ」


「止まれぬ父を止めるのが――“子”の務めではないのですか!」


 その瞬間、ソレイユの目の色が変わった。


「何も知らぬお前が言える立場ではない!」


 初めて荒げられた声に、ネイは一瞬、体を強張らせる。


 グラーフ公が止まれなくなった理由。それが何なのか、ネイには分からない。


「赤子の私を救い上げてくれた手だ。私は父を止めることなどできん」


 ネイは、わずかに剣先を落とした。


「恩を返す先は、過去じゃない。“これから”です」


 声を押し出すように告げる。


「本当に恩を返したいなら、最初の一手は“止める”ことだ!」


 ソレイユの声が、ひとつ硬くなる。


「ここで父上を裏切れば、私が私ではなくなる」


「ここで“父上”を断ち切らなければ、あなたは“あなた”を取り戻せなくなる!」


 ネイは説得するように、なおも言葉をぶつけた。


「――取り戻せる、だと?」


 ソレイユの片眉が、わずかに動く。


「私はこれまで闇として生きてきた。どうやって“私”に戻れと言う」


 ネイは一瞬だけ言葉を失った。その沈黙の隙を縫うように、ソレイユが笑う。


「所詮、血に塗られた人生だ。闇に救いは差さない」


 その言葉を聞いた瞬間、ネイは剣を完全に下ろした。


 ソレイユの目が、かすかに見開かれる。


「あなたは、もう救われている」


 ソレイユの眉がわずかに上がった。


「……どういう意味だ」


 ネイは息を整えた。


 ここで言わなければならない。真実を、まっすぐ通さなければならない。そう覚悟を決める。


「俺はデラヴイユで、レオン陛下に会いました。……そして、すべてを知りました」


 ソレイユの目が大きく開く。


 角灯の小さな火が、その瞳の奥に針のように刺さった。


「……生きて、おられるのか」


 揺れるはずのない声が、揺れた。


 ネイは一歩も詰めず、ただ真っ直ぐに言い切る。


「赤子のあなたを抱き上げ、救ったのは……グラーフ公ではない。――レオン陛下です」


 沈黙が落ちた。


「嘘だ」


 震えはない。けれど、その声はひどく幼かった。


「そして、ノワールと名付けられた赤子に、闇の名ではなく――」


 ネイは視線を逸らさない。


「太陽の名、“ソレイユ”を授けたのは、レオン陛下です!」


 ソレイユの脳裏を、衝撃が貫いた。


 熱。

 煙の匂い。

 誰かの腕の温もり。

 微かな記憶の奥底に、それは確かにあった。


「その名は、あなたに道を照らしてほしいと願って授けられた、“祈りの名”だ!」


 ネイの声が、薄闇を震わせる。


「それでもあなたは、自分を闇だと言うのですか!」


 ソレイユの目は大きく見開かれ、剣先がゆっくりと下がっていく。


「ネイ……お前は、私を光だと言うのか」


「子どもの頃から……ずっと」


 ネイの喉も震えていた。それでも、目だけは逸らさない。


「あなたは俺にとって、憧れそのものでした」


 ソレイユの喉が、小さく鳴る。


「俺が異端嫌疑にかけられて、絶望の底にいたあの日。あなたが言った“生き延びろ”という言葉は――あの時の俺にとって、“光”そのものだった!」


 ネイは一歩、踏み出した。


「あなたは闇なんかじゃない!あなたは――光だ!」


 その言葉が、ソレイユの胸の深くへと突き刺さる。


 脳裏には、走馬灯のように暗躍の記憶が駆け巡った。

 返り血。

 密命。

 沈めてきた声。

 見捨ててきた命。


 吐き気の代わりに、冷えが胃の底へ沈んでいく。


 ――後悔が、一瞬だけ押し寄せた。


「私は……」


 だが、それ以上は続かなかった。


 ソレイユは自分の両手を見つめる。


 その手が何をしてきたのか、今さらのように、指の一本一本にまで刻み直されていく。


 ネイは、ソレイユの心が変わったと見て、そっと一歩を踏み出しかけ――そこで止まった。


「やり直しましょう……生きていれば、何度でもやり直せます」


 今度こそ、一歩踏み出す。


 ――その時だった。


「……心が、揺らいでしまった」


 ソレイユが呟くように落とした言葉に、ネイは二歩目を踏み出す寸前で、全身を強張らせた。


「……心が揺らいだ時点で、私は私自身の内で、血盟の誓いを破った」


 首筋が冷える。嫌な予感が、肌の下を走った。


「心が動いたということは、あなたに良心があるという証拠です!」


 危険な空気を裂くように、ネイは叫ぶ。


「……父上を、裏切ってしまった」


 ソレイユが静かに顔を上げ、ネイを見る。


 透明で、冷えていて、それでいて折れてはいない目だった。


 ソレイユは一歩、退いた。


 ネイが反射的に踏み出しかけた、その瞬間。


 ソレイユは己の剣を胸の前に立てた。


「待て――!」


 ネイの声が届くより早く、ソレイユは深く息を吸い、胸の中心へ刃を引き寄せた。


 押し込むのではない。己の体重を、ただ静かに預けるように。


 まるで影が、最後まで影の儀式をなぞるように。


 静かに。


 ためらいなく。


 布の裂ける音は小さかった。


 その小ささが、かえって広間の静けさを際立たせる。


 暗い衣の上に、赤い花が咲く。


 ソレイユの膝が折れた。


 誓いがほどけていくたびに、命までもが解けていく。


 ネイは咄嗟に駆け寄り、その肩を支えた。腕の中の身体は、思っていたよりも軽い。軽すぎて、喉が詰まる。


「なぜ……!」


「……これが、血盟の誓いだ……」


 ソレイユの息が、徐々に短くなっていく。


「私は闇で終わる。それが……父への忠義の……証だ」


「そんなもの、忠義じゃない……!」


 ネイの声は震えていた。怒りではない。悲鳴に近かった。


 ソレイユはゆっくりとネイへ目を向ける。


「……所詮、“闇”は“光”にはなれん」


「どうして――!」


 ソレイユの瞳が、ほんのわずかだけ和らいだ。


「……光は――お前だ」


 その一語が、ネイの胸を深く貫いた。


 頬を熱いものが滑る。涙だと気づくのが、遅れた。


 ソレイユの指先から、ついに力が失われる。剣が石に触れ、乾いた音を立てた。


 ネイはゆっくりと彼を横たえる。


 闇の名を与えられ、光の名を与えられ、最後には闇へ還った男。


 名に囚われ続けた男の短い生の終わりに、彼はたしかにネイへ“光”を託した。


 ネイは涙を拭い、上へと続く階段を見上げた。


 ――父レオンの赦しの言葉を、グラーフ公へ届ける。


 だが、闇の元凶たるグラーフ公を、本当に赦すことなどできるのか。


 ネイは深く息を吐き、一段を踏み出す。


 グラーフ・フォン・ハーデンベルグ。


 最後の“闇”が、最上層で待っている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークしていただけると更新を追いやすくなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ