第49話 闇へ還り、光を託す
その視線は、闇に沈んでいた。
ほんのわずかな隙を見せれば、こちらの心まで呑み込まれてしまいそうな、底の見えない暗さだった。ネイは剣を抜かぬまま、帯の上から鞘を押さえた。
レオンから託された“赦しの懇願”を、グラーフ公へ届ける――その一点だけを胸の芯に据え、ここまで来た。
だが、階段の前に立つ男が、最後の障壁のように道を塞いでいる。
ソレイユ。
幼い頃から憧れ、その背を追い続けてきた男。その憧れの人が今は、ひとつの“門”のように立ち、背後の闇を守っていた。
「お前は本来、拘束されたままここにいるはずだった」
ソレイユの声は静かだった。
口元には、苦笑にも似た形が浮かんでいる。
「予想外の展開にはなったが――ここでお前を確保できれば、何の問題もない」
ネイは喉の渇きを呑み込み、静かに息を吐いた。
「俺を狙う理由は、何ですか」
「父の命だ。それだけだ」
即答だった。そこに迷いの欠片もない。
「……違う」
ネイはまっすぐ言い切った。
「あなたの父は、グラーフ公ではない」
ソレイユの瞼が、ほんのわずかに開く。
「……お前は知っているようだな。私がグラーフ公と血の繋がりを持たぬことを」
小さく笑う。乾ききった笑いだった。
「たとえそれが事実だとしても」
ソレイユは目を伏せる。
「私の父は――グラーフ・フォン・ハーデンベルグ、ただ一人だ」
言い終えるや否や、ソレイユが腰の剣を抜いた。鞘から引き抜かれた銀の光が、薄闇を一本、鋭く裂く。
ネイもそれを見て剣を抜く。
――その瞬間、距離が消えた。
ソレイユが目前に迫る。踏み込みの音が遅れて届くほど、速い。
高く鋭い金属音がひとつ鳴り、戦いの幕が切って落とされた。
返す刃。重ねる刃。ネイは受け流しに徹した。
――速い。だが、その剣先は急所を外している。
殺すためではない。止めるための剣だ。命令を果たすための捕縛。その意図を、ネイはすぐに見抜いた。
影が伸び、影が縮む。揺れる灯の下で、二人の輪郭だけが鋭く削られていく。
ネイは一歩、退いた。
「こんな戦いは無意味だ!」
叫ぶネイに、ソレイユは剣を返しながら、視線ひとつ逸らさない。
「意味はある。父上に命ぜられたから動く。それが使命――いや、血盟だ」
乾いた言葉の底に、重いものが沈んでいた。
「血盟……?」
「特務隊は血盟を結ぶ。グラーフ公への忠誠を誓うために」
跳ねた刃が壁を掠め、石に細い傷を刻む。
「……父上は、私が赤子の頃に炎の縁から救い上げてくれた。私を育て、戦士として鍛えた」
その声は淡々としていた。だが、その平板な響きの底にこそ、消しようのない執着があった。
「そして、闇としての在り方も、戦い方も――それを教えてくれたのは、グロワール殿だ」
「総将……!?」
ネイの目が大きく見開かれる。やはりグロワールは、特務隊の一員だった。
「父の地位を守るためなら、グロワール殿と共に私は何でもやった。対抗勢力を潰すための暗躍。周辺貴族を失脚させるための謀略。必要とあれば、この手を血に染めることも」
“必要とあれば”――。
その一言の背後に、いくつもの闇が透けて見えた。
ネイの声が低く沈む。
「……獅子王の死も、その“必要”に含まれていたというわけですか」
沈黙が落ちる。
角灯の火が揺れ、刃の縁だけが白く浮いた。
「――その沈黙が答えです」
ネイの言葉に、ソレイユの瞼がかすかに震えた。
二人の双眸が絡む。
「父上は、ある時から止まれなくなった」
先に口を開いたのは、ソレイユだった。
「止まれぬ父の背を、影として支える。それが私の誓いだ」
「止まれぬ父を止めるのが――“子”の務めではないのですか!」
その瞬間、ソレイユの目の色が変わった。
「何も知らぬお前が言える立場ではない!」
初めて荒げられた声に、ネイは一瞬、体を強張らせる。
グラーフ公が止まれなくなった理由。それが何なのか、ネイには分からない。
「赤子の私を救い上げてくれた手だ。私は父を止めることなどできん」
ネイは、わずかに剣先を落とした。
「恩を返す先は、過去じゃない。“これから”です」
声を押し出すように告げる。
「本当に恩を返したいなら、最初の一手は“止める”ことだ!」
ソレイユの声が、ひとつ硬くなる。
「ここで父上を裏切れば、私が私ではなくなる」
「ここで“父上”を断ち切らなければ、あなたは“あなた”を取り戻せなくなる!」
ネイは説得するように、なおも言葉をぶつけた。
「――取り戻せる、だと?」
ソレイユの片眉が、わずかに動く。
「私はこれまで闇として生きてきた。どうやって“私”に戻れと言う」
ネイは一瞬だけ言葉を失った。その沈黙の隙を縫うように、ソレイユが笑う。
「所詮、血に塗られた人生だ。闇に救いは差さない」
その言葉を聞いた瞬間、ネイは剣を完全に下ろした。
ソレイユの目が、かすかに見開かれる。
「あなたは、もう救われている」
ソレイユの眉がわずかに上がった。
「……どういう意味だ」
ネイは息を整えた。
ここで言わなければならない。真実を、まっすぐ通さなければならない。そう覚悟を決める。
「俺はデラヴイユで、レオン陛下に会いました。……そして、すべてを知りました」
ソレイユの目が大きく開く。
角灯の小さな火が、その瞳の奥に針のように刺さった。
「……生きて、おられるのか」
揺れるはずのない声が、揺れた。
ネイは一歩も詰めず、ただ真っ直ぐに言い切る。
「赤子のあなたを抱き上げ、救ったのは……グラーフ公ではない。――レオン陛下です」
沈黙が落ちた。
「嘘だ」
震えはない。けれど、その声はひどく幼かった。
「そして、ノワールと名付けられた赤子に、闇の名ではなく――」
ネイは視線を逸らさない。
「太陽の名、“ソレイユ”を授けたのは、レオン陛下です!」
ソレイユの脳裏を、衝撃が貫いた。
熱。
煙の匂い。
誰かの腕の温もり。
微かな記憶の奥底に、それは確かにあった。
「その名は、あなたに道を照らしてほしいと願って授けられた、“祈りの名”だ!」
ネイの声が、薄闇を震わせる。
「それでもあなたは、自分を闇だと言うのですか!」
ソレイユの目は大きく見開かれ、剣先がゆっくりと下がっていく。
「ネイ……お前は、私を光だと言うのか」
「子どもの頃から……ずっと」
ネイの喉も震えていた。それでも、目だけは逸らさない。
「あなたは俺にとって、憧れそのものでした」
ソレイユの喉が、小さく鳴る。
「俺が異端嫌疑にかけられて、絶望の底にいたあの日。あなたが言った“生き延びろ”という言葉は――あの時の俺にとって、“光”そのものだった!」
ネイは一歩、踏み出した。
「あなたは闇なんかじゃない!あなたは――光だ!」
その言葉が、ソレイユの胸の深くへと突き刺さる。
脳裏には、走馬灯のように暗躍の記憶が駆け巡った。
返り血。
密命。
沈めてきた声。
見捨ててきた命。
吐き気の代わりに、冷えが胃の底へ沈んでいく。
――後悔が、一瞬だけ押し寄せた。
「私は……」
だが、それ以上は続かなかった。
ソレイユは自分の両手を見つめる。
その手が何をしてきたのか、今さらのように、指の一本一本にまで刻み直されていく。
ネイは、ソレイユの心が変わったと見て、そっと一歩を踏み出しかけ――そこで止まった。
「やり直しましょう……生きていれば、何度でもやり直せます」
今度こそ、一歩踏み出す。
――その時だった。
「……心が、揺らいでしまった」
ソレイユが呟くように落とした言葉に、ネイは二歩目を踏み出す寸前で、全身を強張らせた。
「……心が揺らいだ時点で、私は私自身の内で、血盟の誓いを破った」
首筋が冷える。嫌な予感が、肌の下を走った。
「心が動いたということは、あなたに良心があるという証拠です!」
危険な空気を裂くように、ネイは叫ぶ。
「……父上を、裏切ってしまった」
ソレイユが静かに顔を上げ、ネイを見る。
透明で、冷えていて、それでいて折れてはいない目だった。
ソレイユは一歩、退いた。
ネイが反射的に踏み出しかけた、その瞬間。
ソレイユは己の剣を胸の前に立てた。
「待て――!」
ネイの声が届くより早く、ソレイユは深く息を吸い、胸の中心へ刃を引き寄せた。
押し込むのではない。己の体重を、ただ静かに預けるように。
まるで影が、最後まで影の儀式をなぞるように。
静かに。
ためらいなく。
布の裂ける音は小さかった。
その小ささが、かえって広間の静けさを際立たせる。
暗い衣の上に、赤い花が咲く。
ソレイユの膝が折れた。
誓いがほどけていくたびに、命までもが解けていく。
ネイは咄嗟に駆け寄り、その肩を支えた。腕の中の身体は、思っていたよりも軽い。軽すぎて、喉が詰まる。
「なぜ……!」
「……これが、血盟の誓いだ……」
ソレイユの息が、徐々に短くなっていく。
「私は闇で終わる。それが……父への忠義の……証だ」
「そんなもの、忠義じゃない……!」
ネイの声は震えていた。怒りではない。悲鳴に近かった。
ソレイユはゆっくりとネイへ目を向ける。
「……所詮、“闇”は“光”にはなれん」
「どうして――!」
ソレイユの瞳が、ほんのわずかだけ和らいだ。
「……光は――お前だ」
その一語が、ネイの胸を深く貫いた。
頬を熱いものが滑る。涙だと気づくのが、遅れた。
ソレイユの指先から、ついに力が失われる。剣が石に触れ、乾いた音を立てた。
ネイはゆっくりと彼を横たえる。
闇の名を与えられ、光の名を与えられ、最後には闇へ還った男。
名に囚われ続けた男の短い生の終わりに、彼はたしかにネイへ“光”を託した。
ネイは涙を拭い、上へと続く階段を見上げた。
――父レオンの赦しの言葉を、グラーフ公へ届ける。
だが、闇の元凶たるグラーフ公を、本当に赦すことなどできるのか。
ネイは深く息を吐き、一段を踏み出す。
グラーフ・フォン・ハーデンベルグ。
最後の“闇”が、最上層で待っている。
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