第48話 最後に届いた光
糸で結ばれた視線が、切れることを拒んでいた。
光井から落ちる月明かりが、回廊の石肌を冷たく照らす。
そこに立つベロニカは、黒衣ごと闇の欠片――いや、闇そのものの縁だった。輪郭はたしかに在る。けれど光が触れるほど、彼女は“色”を捨てていく。目だけが刃のように澄み、動かない。
ネイは上階へ続く階段を一度だけ仰ぎ、すぐにローザへ視線を戻した。
ローザは顎をわずかに上げる。
命令ではない。託す――その角度ひとつで、互いの役割が切り替わる。
ネイは短く息を吐き、鎧が鳴らぬよう肩を沈めた。足裏の重心を殺し、影へ体を溶かす。
次の瞬間、ローザの瞳の温度が変わった。ローザは踏み込み、床を蹴る音が遅れて追いつくほどの速さで、剣先をベロニカの足元へ滑らせた。
ベロニカがその剣を受け止めた瞬間、鋭い金属音が回廊に跳ねる。
ネイはその“作られた道”に沿って駆け抜け、上階への階段を一気に駆け上がった。
残された静けさの中心で、ローザは剣の柄に指を添える。ベロニカは無言のまま立つ。黒衣は揺れない。呼吸も揺れない。揺れているのは蝋燭の火だけで、その火が刃の縁で一度だけ砕けた。
ローザは剣の角度を殺す。――非殺の構え。
「ベロニカ。……だよね」
返事はない。瞬きひとつ。瞼が閉じて開く、その僅かな隙に――ベロニカの足が前へ出た。
無駄が削がれすぎて、摩擦の気配すら許さない動きだった。ローザは肩で僅かに外し、刃の根を押さえる。ぶつけない。押し合わない。相手の力を床へ落とす。受けるのではなく、落とす。奪うのではなく、逸らす。
十字の反射が走った。光井から落ちる淡い光が、二人の輪郭を交互に縁取っていく。
ローザはベロニカの目を見ながら、小さく呟いた。
「あなたの目……変わっていない。私を映す鏡のまま」
「…………」
沈黙が流れる。
ローザは剣を半歩だけ引いた。攻めを緩めるためではない。心の間合いを作るための引きだ。届く言葉の距離を、そこへ置くためだった。
「覚えてる? 孤児院のとき。冬、指がかじかんで、パンが硬くて」
声が少しだけ柔らかくなる。微笑んだつもりはないのに、記憶が喉を温めた。
「あなたが『半分』って言って、耳のところをくれた。私、あれで――冬が少しだけ嫌いじゃなくなった」
ベロニカの指が、ほんの一瞬だけ緩んだ。呼吸ひとつ分の揺れ。そこへローザは斬り込まない。ただ、言葉を置く。
「あなたは一人だった私の最初の“友”であり、私の“半身”のような存在」
ローザはベロニカの心へ語りかけるように、静かに言葉を落とす。
「……ローザ」
ベロニカの唇が動いた。掠れた声。震えはない。冷たさだけがある。
ローザは喉の奥で息を整え、言葉を研ぐ。
「やり直せる。今夜からでいい。私が――」
言い終える前に、ベロニカの足が“殺しの角度”へ移った。ためらいが消える。足首が床を噛む音が、静けさの底でたしかに鳴る。目は同じだ。ただ、映すものが変わった。鏡に映るのが“命令”になった。
斬撃は短い。肩、喉、脇腹――刃筋に迷いがない。ローザはそのたび、呼吸と同じ拍で逸らす。逸らすたびに胸の奥が痛む。斬れない相手を、斬らずに止める痛みだ。刃の風圧が頬を掠め、髪の端を切り落とす。
「闇に囚われる必要なんてない!」
「…………!」
十字の反射が、ベロニカの瞳に灯った。沈黙の底で、かつての子どもの呼吸が一度だけ重なる――そんな錯覚が走る。ローザはその一拍に賭けた。賭けるのは勝敗ではない。彼女が光の下へ戻れる可能性だ。
ベロニカの短剣が滑り込み、ローザの喉元へ“無色の光”を差し込む。
ローザは首を引かず、それを片手の剣で受け止めた。
鋭い金属音が鳴り響いたその瞬間、もう片方の腕が腰の短剣を引き抜く。
狙うのは手首の腱。刃の根元ではなく、力の源。
ベロニカの短剣が床を鳴らした。
乾いた響き。
ローザはその瞬間に踏み込む。
首元へ皮一枚、剣先を止める。奪わない距離。殺さない位置。
刃先に触れた吐息が白く散り、すぐ消えた。
勝負は決した。
「違う人生を生きよう」
声は低い。震えているのに折れない。
「……私が、そばにいる。あなたが戻るまで、何度でも待つ」
長い沈黙。
ベロニカは刀身に映る自分の目を見つめた。十字の光が瞼の上を渡り、ゆっくり消える。
そして、息だけが変わった。決意の前に、ほんの僅かに揺れる呼吸。
ベロニカがローザの手首を取る。ローザは目を見開いた。嫌な予感が、胸の奥で形を持つ。
「私は闇そのもの」
小さな囁き。だが、その言葉は鎖の音を連れてくる。
「違う! ……生きていれば、やり直せる!」
ローザは弾かれるように否定した。声が割れそうだった。
「闇は闇のまま消える」
声は小さい。けれど、途切れない。
「――それが私にとっての血盟の誓い」
誓い。誰に。何に。
ローザは問いを口にできなかった。答えが出れば、止められなくなる気がしたからだ。反対の手でベロニカの手首を掴もうとする。温度は冷たく、驚くほど軽い。
その瞬間だった。
ローザが息を吸うより速く。抵抗できぬほど速く。
剣を握る手首が、重力に引かれるように動く。
「待っ――!」
黒衣の襟に、赤い薔薇が咲いた。
ローザの剣が手から落ち、乾いた音が回廊を叩いた。金具が石を跳ねる音だけが、やけに長い。
「……っ」
ローザの膝が崩れる。
崩れ落ちるベロニカの体を抱きとめ、肩口に顔を寄せた。
想像より軽い。軽すぎて、胸の奥が裂ける。血の匂いが遅れて鼻へ届き、喉が痺れる。
呼吸が途切れる音は聞こえない。ただ静かに、世界の片側が欠けていく。
ローザは震える指で彼女の目を閉じた。そして自分の外套をそっとかける。冷えた影へ、最後の布を渡すように。布の重さだけが、今の彼女をこの世界へ繋ぎとめるみたいだった。
耳の奥で、子どもの声が一度だけ響いた。
――『半分』
「私の半分は……ここにいる」
言葉は誰に向けられたのでもない。失われた温度の行方を確かめるような、小ささだった。
非殺のために選んだ角度が、結果として彼女を救えなかった――その事実だけが、重く心に圧し掛かる。
踊り場でローザは両膝をついたまま、何もない天井を見上げていた。
そのとき、雲がゆっくりと流れた。
薄雲が裂け、月が顔を出す。
落ちてきた月明かりが、ローザの肩を照らし、次いでその腕の中の黒衣へ静かに降りた。
ベロニカの閉ざされた瞼の上に、月光がやわらかく宿る。
闇として生き、闇として消えた彼女へ。
遅すぎるほど遅く、けれど確かに、光は届いていた。
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