第46話 白百合の名のもとに
夜更けの王城は、昼よりも静かだった。
静かすぎて、廊下の灯が呼吸しているように見える。火が揺れるたび、影が一度だけ伸びては戻る。
ローザは案内の侍従に導かれ、奥の小間へ通された。扉の前で侍従が一瞬だけ視線を伏せる。その癖ひとつで、ここが“客の部屋”ではないと知れた。
重い扉が閉まる。外の足音が消える。残ったのは、蝋燭の芯が焼ける微かな音――そして、布越しに聞こえる、わずかな呼吸。
そこにいたのは、マリー女王だった。
昼の謁見で見せた“女王の顔”は、なお保たれている。だがローザを見た瞬間だけ、目の奥に張りつめていたものが、ほんの少しほどけた。
「ローザ……。緊急の話とは、どうされました」
名を呼ぶ声が、わずかに柔らかい。ローザは深く一礼し、膝を折った。床へ視線を落とし、感情が喉を突き破らぬよう、ひとつ息を磨く。
「恐れながら、陛下。ネイが――獅帝戦団に連行されました」
マリーの指先が机の縁へ触れ、すぐ離れた。触れたこと自体が“動揺”になってしまうのを恐れたように。
「……実は、ネイからハーデンベルグへの入国許可要請がございました」
言葉の端が、わずかに震える。マリーは唇を結び直し、続けた。
「ですが、グラーフ公からは――継続中の異端嫌疑のため拘束すると」
――グラーフ公。
ローザの胸に、ひとつの確信が沈む。ネイは、グラーフ公の命で捕らえられた。ローザは目線を上げぬまま、言葉だけを鋭く据えた。
「陛下。ネイの異端嫌疑は、聖都にて解決済みでございます」
マリーの瞳が揺れる。驚きではない。知っていた者の揺れだ。
「……ネイから聞いております」
「ならば、無実が証明されている者が拘束を強いられるのは……不条理にございます」
強く放ったつもりはない。だが、声は抑えたぶんだけ芯を持った。小間の空気が張り、蝋燭の火が小さく揺れた。
マリーは無言のまま目線を下げる。女王の沈黙は拒絶ではない。――鎖の擦れる音に似ていた。
「陛下……?」
ローザがそっと呼ぶ。マリーはゆっくり視線を上げ、ローザを見た。女王の瞳の奥には、なお少女の色が残っている。
「私には……どうすることもできません」
その一言で、ローザの胸の奥へ確信が刺さる。
女王の椅子は玉座ではない。檻だ。鍵は別の者――恐らくグラーフ公が握っている。
だからこそ、ここで言葉を間違えてはならない。追い詰めれば、最後の細い糸まで切れる。ローザは覚悟を決めたように額を上げ、まっすぐに言った。
「恐れながら申し上げます、陛下。お願いがございます」
「お願い……ですか」
マリーが反芻する。女王としての声の形を保ちながら、その奥に“少女の戸惑い”が滲んだ。
ローザは息を整え、言葉をひとつずつ置いた。
「陛下に、刃を持てとは申しません」
マリーの瞳が瞬く。
「陛下が自由に動けぬのであれば――私が、動きます」
そして、もう一歩踏み込む。
「陛下が沈黙を強いられているなら、私が陛下の声になります」
その一文が、小間の空気を変えた。蝋燭の火が揺れ、影が跳ねる。マリーの喉が、小さく鳴る。
ローザは続ける。祈りのように。だが、命令よりも確かな温度で。
「私が――生涯、陛下をお守りいたします」
誓いではなく、宣言だった。守ると決めた者の声は、震えていても折れない。
マリーの表情が変わる。恐れではない。決めた者の顔だ。決めた瞬間、肩から落ちるものと、肩に乗るものが、同時に増える。
女王は紙とペンを引き寄せ、ためらいなく筆を走らせた。文字は速い。速さは迷いのなさを示し、筆圧の重さが背負うものの大きさを示している。そして書き上げた文の末尾へ、女王は封蝋を落とした。
女王印。
それは小さな白百合だった。だが、国の重みが宿る印。マリーはそれを見つめ、まるで自分の指先へ火を移すように言った。
「これを持ってハーデンベルグへ」
声を落としたその言葉は、女王の声に戻っていた。
「あなたを……アンブラージュ特使に任じます」
ローザは文書を受け取る前に膝を折り直し、額を深く下げた。名と命を預かった者の礼だ。
「……御意にございます、女王陛下」
マリーは一瞬だけ息を詰める。そして願いを“命令”に見せぬよう、言葉を研いだ。
「ハーデンベルグ公国へ。私の名のもと――ネイの解放を、ローザに託します」
ローザは文書を胸に抱き、立ち上がった。扉が開く。廊下の灯が同じ角度で揺れている。
だがローザの中で揺れていたものは、もう揺れない。
*
城を出ると、城壁の影は深く、月は薄い。だが空だけは広い。広いからこそ、息が戻る。ローザが石段を下りると、外門の脇――街灯の届かぬ場所に三つの影が待っていた。
マーガレットが先に気づき、短く顎を引く。その横でメグが駆け寄ろうとして、寸前で歩幅を殺す。ここは王城のすぐ外だ。感情は明かりになる。ロッシュは壁にもたれ、痛む脚を隠すように立っていた。
「どうやら、“武器”を手に入れたようだな」
マーガレットの口元が、ほんのわずかに緩む。褒め言葉を、過不足なく削った形。
ローザは文書を胸元から少しだけ見せた。女王印の白百合が一瞬、闇の中で灯のように浮く。
「陛下の命により――私はアンブラージュ特使となった。ハーデンベルグへ向かう」
ローザの言葉に、メグが息を呑み、胸に手を当てて笑った。祈りがそのまま形になったような笑みだった。
「……よかった」
「特使ってのは……つまり、“堂々と殴り込め”ってことだよな」
「言葉が荒い」
ローザはロッシュを咎めるのではなく、微笑の温度で返した。
「分かってる。だけどさ――こういう時くらい、胸張らせてくれよ。俺、ずっと役に立ててねえ」
ロッシュは肩を竦める。
「私たちの“盾”が、なにを言ってるの。ロッシュがいなければ、ここまで来れていません」
メグがすぐ隣で、ロッシュの外套の襟を直した。言葉ではなく手で叱る。
「……そうか」
ロッシュは嬉しそうに、そして誇らしげに、背筋を伸ばした。
「ネイを救う」
ローザの声は決意を示していたが、表情は固い。固さは恐れではない。背負うものが増えた証だ。
「……安心しろ。この私がついている」
ローザの不安を見抜いたように、マーガレットは一瞬だけ口角を上げた。軍神の言葉は、守りの盾そのものだった。ローザは目線を上げ、力強く頷いた。
マーガレットが借りて来た馬の綱を引く。四頭――夜の中で息が白く宙に舞う。
四人は鞍へ跨った。蹄が石畳を打ち、夜の静けさに響く、短い号令のようだった。城門を抜け、街道へ出る。背後に残る王城の灯が遠ざかるほど、小さくなる。だが視界の先――ハーデンベルグの方角だけは、暗闇の中で異様に黒い。
かつての“家”。ハーデンベルグの中心たる城の頂が、遠い闇の輪郭として浮かびはじめる。
夜風が外套をはためかせる。夜が、音もなく裂けた。
――裂け目の向こうで待つのは、ネイと戦団の闇。
黒い巨城へ向かう蹄音が、胸の鼓動と同じ拍で脈打っていた。
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