第45話 救出への大義
悪い予感が、背筋を凍らせた。
客人として与えられた控えの別室。ネイは硝子杯の水をひと口含み、喉へ落とした。冷たさは確かに身体を鎮めているはずなのに、胸の奥だけが鎮まらない。形のない棘が、そこへ刺さったまま折れずに残っているかのようだった。
――グラーフ公に許可をいただく必要があります。
女王の裁可が、公爵の裁可の下に置かれる。そんな秩序の歪みが“当然”として通るなら、この国の玉座は、すでに見えない鎖で柱へ括りつけられているのと同じだ。
――鎖を握っているのは、グラーフ公。
思考がそこへ触れた瞬間、扉の外の気配が変わった。前室。侍従の軽い足音ではない。鎧の擦れが同じ拍で重なり、革と鉄の匂いが微かに混じって近づいてくる。
扉が、静かに開いた。
悪い予感は、確信へと色を変える。
入ってきたのはアンブラージュ王城の衛兵ではなかった。獅帝戦団――黒の意匠が灯の下で鈍く光り、影を濃くする。先頭の男が一歩踏み出す。
剣術の練習を共にした、かつての仲間。礼の形は崩さぬまま、視線だけが彷徨っている。
「……お前は」
名を呼ぶより早く、男は一枚の紙片を差し出した。封蝋の赤が、薄い灯の中で乾いて見える。受け取ろうと指を伸ばした、その寸前――男は目を伏せ、喉へ刃を当てるような声で読み上げた。
「以前より継続中の異端嫌疑。――グラーフ公の命により、身柄を拘束する。対象、ネイ・カイザーハイン殿」
胸の奥で、雷鳴が落ちた。
聖都では疑いが晴れた。だが聖都以外では、異端嫌疑の札は正式には剥がされていない。
――狙いは、俺だったのか。なら、なぜあの日は逃がした。そして、なぜ俺を監視していた。
問いが幾重にも折り重なるほど、答えの輪郭だけが遠ざかる。息が浅くなりかけて、ネイはそれを喉の奥で押さえ込んだ。
ここで抵抗すれば、言い分さえ封じられて斬られる。彼らが守るのは正義ではない。“命令の形”だ。
ネイは視線を落とし、声だけを研いだ。
「承知した」
その一言を置いた途端、男の肩がわずかに緩む。安堵に似た緩み。罪悪感を薄めるための呼吸。けれど、すぐに顔が固く戻る。命令は命令。彼自身もまた、鎖で繋がれている。
「拘束具を」
命令は短い。背後の若者が鉄を鳴らす。手首に冷たい輪が触れ、次の瞬間、痛みが遅れて来た。締めたのは強さではない。“外れない確実さ”だ。骨の上へ規則正しい圧が乗る。鋭くはないが、重い。逃げ道を消す重さだった。
鎖が落ち、音が床へ吸われずに残る。その残響が、ネイの中の何かを一枚ずつ剥がしていった。
部屋を出る。廊下の灯は整いすぎるほど整い、絵画のような静けさを保っている。だがその静けさの中で、鎖の音だけが異様に響いた。
鳴るたびに、“自由”が削れていく。
*
ローザが宿場の窓辺で、城下の通りを眺めていた、その時だった。
人波が、不自然に割れた。押し合うはずの肩が同じ方向へ避け、視線が一斉に流れる。空気が細く、冷たくなる。その“細さ”の先で、ローザの目に刺さった。
黒の意匠。見慣れた鎧。
――獅帝戦団。
そして、その中心に両手を鎖で繋がれ、静かに歩かされるひとりの男がいた。背筋は折れていないのに、鎖だけが折れた翼のように垂れている。
「……ネイ?」
喉が音を忘れる。心臓だけが遅れて鳴り、次いで血が熱くなる。世界の雑音が遠のき、鎖の音だけが残った。
乾いた輪が石畳を叩くたび、胸の奥のどこかが削れ、そこへ冷気が流れ込む。
――獅帝戦団には闇がある。
――グラーフ公、ソレイユ隊、全てを疑うべきだ。
――監視されている。
ネイの言葉が折り重なって胸を締めた。
護送の列は城門の方角へ向かう。一本道の延長。街道の口。――ハーデンベルグ方面。
「まずい……!」
声が割れた。自分の耳で荒れて聞こえた。突然の叫びに三人が振り向く。
ロッシュは驚きのあまり椅子から転げ落ち、仰向けのまま目を剥いた。痛む脚を忘れて起き上がろうとし、逆にもう一度転げる。
「お、おい! どうした!」
ロッシュが仰向けのまま目線を上げる。ローザは窓枠を掴み、息を削って吐き出した。
「ネイが……獅帝戦団に連行されている……!」
一瞬で部屋の空気が凍る。メグの指先が止まり、ロッシュの顔色が青へ寄る。
「どうしてネイが!?」
声が上擦る。混乱が、そのまま喉を叩いた。マーガレットだけが表情を変えず、目を細める。
踵を返し、扉へ向かおうとするローザの背中を、低い声が縫い止めた。
「待て」
マーガレットだった。椅子から立ち上がり、ローザの前へ一歩出る。大柄な体が壁になり、扉への直線を塞ぐ。
「落ち着け」
「今行かなければ、ネイは――」
噛みつくようにローザが返すと、マーガレットは眉ひとつ動かさずに言葉を重ねた。
「獅帝戦団と、ここで揉める気か」
遮る言葉が鋭い。鋭すぎて、嘘にならない。ローザの喉が詰まる。握った拳の中で爪が皮膚へ食い込む。痛みが、踏みとどまるための楔になる。
「……では、どうすればよいのですか!」
ローザは思わず、叫んだ。吐いた声は悔しさで震えた。
マーガレットは窓の外――護送の列が消えた方角を一度だけ見る。追う視線ではない。戦場を測る視線だ。
「ハーデンベルグに踏み込むための“武器”を手に入れろ」
「……武器?」
ローザは小さく呟く。ロッシュとメグが息を呑む。マーガレットは平坦に答えた。平坦さが、かえって確信になる。
「――大義名分だ。私たちを守ってくれる。いま必要なのは剣ではない。国の名だ」
ローザの胸が跳ねる。答えはひとつしかない。
――マリー女王陛下……。
「……女王陛下に、拝謁を」
ローザは背筋を正し、きっぱりと頷いた。
「動くなら、今だ」
マーガレットは短く顎を引く。
「俺も行く。……置いてかれるのは性に合わねえ」
ロッシュが呻きながら起き上がる。傷の脚を庇いながらも、目は真っ直ぐだった。
「私は出立の準備を整えます」
メグは言葉の端に祈りを宿し、外套を掴む。
ローザは深く息を吸い、吐く。震えを飲み込み、宿場を出た。
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