第44話 王冠に繋がれる鎖
王城の天蓋は高く、息を律する。
アンブラージュ王城、謁見の間。白い石柱が幾列も立ち、床を走る黒曜の筋が奥へ奥へと視線を誘う。磨き抜かれた石は光を撥ね返し、燭台の火は規則正しく揺れていた。
「ベルノア王国特使、ローザ・ステラグレイ――」
呼名が玉座の間に響き渡ると、ローザは一歩進み、膝を折って頭を垂れた。
玉座の高みに、マリー女王が座していた。艶を抑えた深い色が幼さを覆い、気高さだけを前へ押し出している。
――だが。
ローザを見た瞬間、マリーの瞳がわずかにほどけた。
「……ローザ。よく参られました」
呼びかけは小さい。だが、その小ささのうちに確かな温度があった。
侍従が静かに進み出る。金の盆が差し出され、ローザは封じた書簡を両手で捧げ、そっとその上へ置いた。
「ベルノア王より、女王陛下へ。急ぎの書簡にございます」
マリーは書簡を一度見つめ、それからローザを見た。
「……ハーデンベルグから、あなたが消えたと聞いた。ずっと……心配しておりました」
抑えた声なのに、言葉はまっすぐだった。
「ベルノアに――おりました。事情がございました。ご心配をおかけいたしました」
ローザは喉の奥でひとつ息を整える。
「ベルノアは……あなたを受け入れてくれたのですね」
マリーは淡く笑みを見せ、書簡を手にする。
「はい。あの国の王は、信義を重んじるお方でございました」
ローザがそう言うと、マリーは書簡を胸へ引き寄せ、ゆっくり頷いた。
「ローザ、よく持ち帰ってくれました。体を休めてください」
ローザの胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。“渡せた”という事実が、心の内側へ刺さっていた針を一本抜いた。
深く頭を下げ、玉座の間をあとにした。
*
ローザたちは城下にある宿場の二階の一室を借りていた。
ローザは窓辺の小卓に腰を下ろし、まず水を飲んだ。
喉へ落ちる冷たさが、ようやく現実を縫い留める。ひとつ息を吐くと、胸の奥へ溜め込んでいたものが少しだけ抜けた。
「任務は達成、だな」
壁にもたれたマーガレットが、短く言った。
「……書簡は、確かにお渡ししました。アージェンス陛下も安心されることでしょう」
返しながら、ローザは己の肩の内側がふっと落ちるのを感じた。
マーガレットは窓の外を一瞥し、通りの雑踏を背にしたまま言う。
「――ひとつ、朗報がある」
ローザ、ロッシュ、メグの視線が一斉に上がる。
「オスカー・ランブラーだ。戦争扇動の首謀者として、ベルノアに収監された」
さらりと言うが、内容は刃だった。
「女王陛下の襲撃も企てていたらしい。戴冠式でも事件があったそうだ」
胸の奥が、ひとつだけほどける。ローザリアの闇を、ひとつ払えたということだ。
「目的は単純だ。アンブラージュとベルノアの戦が続けば武器は売れ続ける。獅子王は……よい客だったそうだ」
マーガレットの口調は淡々としている。ローザは無言で頷いた。ベルイシスで見た、あの笑み。
――平和になれば誰かが救われるが……苦しむ人間がいることも、忘れるなよ――。
オスカーがネイに放った声が、記憶の底へ刺さったまま残っている。
忠告だったのか、嘲りだったのか。どちらであれ、ローザリアの混乱を端的に示していた。
*
ネイがアンブラージュ王城の城門をくぐったのは、夕刻だった。
ベルノア特使の証のおかげで、検問は形だけで終わった。
門を抜けた瞬間、街の匂いが懐かしく感じた。白百合の旗が高く掲げられ、風が大きくはためかせる。
だが胸の底には、レオンの言葉が沈んでいる。赦しの懇願をグラウカに伝えること。王位を継いでほしいと託されたこと。重すぎる願いは整理できないまま、心臓の下に刺さっていた。
――そして、もっと現実的な問題がひとつある。
このベルノア特使の証で、ハーデンベルグに入れるか。ネイは、女王陛下の裁可があれば安全だと考えた。
ネイは城門の衛兵二人へ歩み寄り、名を置く。
「ベルノア特使、ネイ・カイザーハイン。女王陛下への謁見を願い出ます。お取次ぎいただければ、陛下もご理解くださいます」
衛兵の眉が一瞬だけ動き、ネイを見定めるように見つめる。ネイは姿勢を崩さず、真紅の鷲の意匠を示した。衛兵はそれを確認すると、城内の兵を呼びに走った。
しばらくして戻った案内役の兵が、短く頷く。
「お通りください」
豪奢な回廊を抜け、王城の中心へ。扉が静かに開く。
玉座にはマリー女王陛下が座していた。
「ネイ」
ネイは即座に片膝をついた。膝を折る速さそのものが、敬意の証になる。
「陛下。ご無沙汰しております」
マリーは笑いかけようとして、途中で抑えた。
女王として感情を律しようとしている。それでも、声の端は隠せない。
「……生きていてくれて、よかった」
命令ではなく、安堵だった。ネイの胸の奥が、わずかに緩む。
「ここに居るということは、異端嫌疑は晴れたのですか」
「はい。聖都の指示により理由は申し上げられませぬが……無事に」
言葉を選びつつ、最小限の説明で形を整える。
マリーは少し不可解そうに眉を寄せたが、やがて頷いた。その頷きは“信じる”というより、“信じる形を取る”に近い。
「先日、ローザが来ました。そしてベルノアの書簡を預かりました」
「……安堵いたしました。アージェンス陛下の書簡が、無事に陛下へ届いたこと」
ひとつ息を吐くと、心の内の楔が少し抜ける。マリーは書簡を抱えたまま、静かに言った。
「あなたたちは……ベルノアにいたのですね。心配しておりました」
「ご心配をおかけし、申し訳ございません」
謝罪の形は、信頼を崩さぬための手順でもある。マリーは首を小さく振る。否定が優しいのに、強い。
「謝る必要はございません。ローザが無事で、あなたも無事なら……それでいい」
そして一瞬だけ、少女のように息を吐く。次の瞬間には、女王の声へ戻る。
「それで、ネイ。何用ですか」
ネイは息を整えた。
「ハーデンベルグ公国への入国許可と、グラーフ公への謁見の裁可を願い出ます」
マリーの指先が止まり、次いで瞳がほんのわずかだけ曇る。
「……グラーフ公に、許可をいただく必要があります」
ネイは反射的に顔を上げ、マリーを見つめた。その目は大きく開かれている。
女王が、公爵の許可を取る。言葉にすれば簡単だ。だが、その順序は歪んでいる。
「……つまり、返答を待て、と」
「はい」
マリーは視線を逸らさない。
「承知いたしました。待機いたします」
言い切った瞬間、マリーの肩がほんの少しだけ落ちた。安堵に似た息が漏れる。
「控えの別室を用意します。客人として扱いましょう」
薄い布でも、いまは必要だ。ネイは深く頭を下げた。
「過分なお心遣い、痛み入ります」
侍従が現れ、小さな部屋に案内された。
ネイは窓の外の旗を見た。布は大きくはためいている。自由なようで、柱から離れられない。その事実が、いまの世界の縮図に見えた。
――陛下は、グラーフ公に操られているのか。
疑念は火種のように胸の奥で灯る。
*
ハーデンベルグ公国、執務室。
窓の外は灰色で、光が薄い。灯は低く、机上の紙をかろうじて照らしている。
グラーフ・フォン・ハーデンベルグは、椅子に座ったまま身じろぎしなかった。
目の前に立つソレイユが、単刀直入に報告する。
「父上。ネイは現在、アンブラージュ城におります」
グラーフの指先が机の端を一度だけ叩いた。
部屋の温度が一段下がる。火の芯が細くなるように、空気が締まる。
「……そうか」
グラーフは目線を下げたまま呟く。
「“種蒔き”は終わった。――軍神の邪魔は入ったが、今度こそ“回収”する」
ソレイユは一拍で理解し、頷いた。
「御意」
グラーフはようやく視線を上げた。その瞳には怒りも焦りもない。ただ透明な冷たさだけが宿っている。
「異端嫌疑として確保しろ」
そして、目の色がわずかに変わる。透明な冷たさの奥で、黒い芯が点る。
「“鍵”をこじ開け……“扉”を開ける」
ソレイユは表情を動かさず、深く礼をした。命令は受け渡された。あとは実行するだけだ。
執務室の扉が閉まると、廊下の先で待つ兵たちの影が一斉に揃い、無言のまま武具を確かめる。
――その夜、アンブラージュの城内にも、ひとつの“確保令”が静かに滑り込んだ。
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