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双貌のローザリア  作者: あかまる
最終章 双貌

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第43話 動き出す闇

 ネイから託された書簡と真紅の証が、羅針盤のように二人を東へ向かわせていた。


 ローザとメグは、アンブラージュ王国領ゼンブラを歩いていた。


 東へ続く土路は、初めのうちは広かった。轍が二筋、そのあいだに踏み固められた獣道が一本。路肩の灌木は硬く、枝葉は風に擦れて乾いた音を立てている。鳥の囀りが聞こえる。平時の音だった。


 やがて峡間路が見えた。左右の斜面が寄り、空が細い帯へ変わる場所。土は締まり、声は遠くへ届かなくなる。風が一本の管のように通り、匂いまでもが細く引き絞られて流れていく。


 踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。


 ローザの背筋を、冷たいものが這う。黒革の外套が峡間の薄空の下で揺れ、その先、道の中央に人影が並んでいた。


 ――特務隊。


 先頭の男が一歩、前へ出る。


「――久しぶりだな、ローザ」


 ソレイユだった。


 ローザの脳裏にネイの言葉がよぎる。


 ――グラーフ公も、ソレイユ殿下も、特務隊も……今はすべてを疑うべきだ。


「停戦中に特務隊はどちらへ向かわれるのです」


 ローザは目を細めた。沈黙が二人のあいだへ落ちる。


「特務隊の任務だ。申し訳ないが言えない」


「ネイは、特務隊から監視されていると言っていました。標的はネイですね」


 ローザは間を置かずに言った。ソレイユは視線をローザへ戻し、乾いた声をもう一度だけ落とす。


「通させてもらおうか」


 ローザは動かない。嫌な予感があった。メグの指が、無意識に弓へ触れる。


 ローザは目を細めたまま、言葉を選んだ。


「……何をされるおつもりですか」


 ソレイユは答えない。答えないことで、答え以上のものを見せた。代わりに、背後の特務隊へ振り返りもせぬまま命じる。


「前進」


 背後の足が一斉に動く。砂は鳴らず、布も擦れない。音を立てぬ歩法が、かえって異様さを際立たせた。命令だけが空気に残り、身体だけがそれに従う。人が歩いてくるのではない。手順そのものが迫ってくるようだった。


 ローザの身体が先に動いた。


「ここから先は――行かせない!」


 剣が鞘を離れる音が、峡間に一本だけ通った。音が通った瞬間、敵の動きがさらに研ぎ澄まされる。


「ならば、排除するまで」


 最初の一撃は矢だった。灌木の陰から短弩の初弾。音が遅れて来る。


 ローザは矢筋の癖を見て、半歩だけ斜めへずらす。矢は髪を断ち、背後の岩へ突き立った。乾いた音が鼓動を一拍早める。耳より先に、皮膚が熱を知る。


 正面からは短剣兵。素早く間合いを潰し、次の手で剣を叩き落とすための型。ローザは刃を峰へ寝かせ、相手の短剣を滑らせるように受け、返す反動を借りて柄頭で肘を打った。


 だが相手は崩れない。訓練された肉体が、命令だけで立っている。


 左で矢筋。右でも矢筋。峡間の空気そのものが“狙う形”へ整えられていく。退路が、注ぎ口のように細っていくのが分かった。


 ソレイユが無音で迫った。刃が来る前に、気配だけが背の皮膚を撫でる。ローザは息を詰める暇もなく、足だけで退いた。


 一閃。


 ソレイユの剣がローザの剣を跳ね上げる。剣が弧を描き宙に舞う。ローザは即座に腰の短剣を抜いた。だが、その切っ先は斬るためではなく、止めるための角度を取っていた。


「不殺の剣か」


 ソレイユの声が低く落ちる。


 次の瞬間、刃が横から来た。ローザは短剣で受け、弾き、弾かれた反動で肩を沈める。膝が砂を噛んだ。


「我々の剣は違う」


 ソレイユの目が冷たく光る。


 そこへ特務隊が短剣を抜き、メグへ襲いかかった。メグは咄嗟に弓で受ける。痺れが腕を走り、弓が落ちかける。彼女は歯を食いしばり、膝を落として受け身を取った。小さな身体と弓は接近戦に向いていない。それでも、ここで倒れれば終わる。


 ローザが反射的にメグの身体を支えた。その隙を、ソレイユは逃さなかった。二度目の弧。刃が視界を白く切り裂く。


 ローザは短剣で受けた。衝撃が肩へ抜け、肩甲骨の奥で悲鳴が上がる。骨の鳴る音が、頭の芯まで響いた。


 包囲の輪が狭まり、左右の矢筋が引き直され、峡間の出口がさらに細る。


 ――このままでは、やられる。


 そのとき、風を裂く蹄音と馬の嘶きが背後から響いた。


 反響しないはずの岩肌が、細い空だけを震わせる。馬上の影が土煙の中から現れ、ほとんど落下に近い勢いで地へ降り立つ。


“軍神”、マーガレット・シュロップシャイア。


 彼女は着地の瞬間に長剣を引き抜く。鞘を捨てず、呼吸を乱さず、刃を最短で“止める角度”へ運ぶ。


 柄頭で手首。肩で体当たり。足で膝を刈る。


 いずれも“壊す”ためではなく、“戦えなくする”ための剣だった。動けぬ者はそのまま戦の外へ押し出され、隊列の呼吸が乱れる。


「この者らの命、私が守る」


 声は大きくない。だが、そのひと言だけで峡間の空気が形を変えた。


 守ると宣言された瞬間、こちらの生が確約された形となる。


 ソレイユの目が細くなる。


「ベルノアの軍神……か」


 短剣兵がマーガレットへ襲いかかる。彼女は二の腕の腱を一点だけ打ち、剣を地へ落とさせる。


 続けて長剣兵の重心をわずかに外へ受け流す。相手にとって、ベルノアの軍神は“不倒の壁”そのものだった。


 そして、もうひとつ影が割り込んだ。


 大きな楯が、ローザの脇へ滑り込む。


「遅くなった!」


 ロッシュだった。


 ベルイシスで負った大腿の傷の包帯はまだ新しい。縁から赤黒い滲みが覗き、痛みが今なお生きていることを示している。息は浅い。それでも身体は前へ出る。痛みを抱えたまま、役目だけは捨てない顔だった。


 ――盾は、痛みでは折れない。折れれば後ろが死ぬと知っているからだ。


 ロッシュは盾を構え、ローザとメグの前へ入った。矢が盾へ噛む。鈍い音。次の矢も、その次の矢も。


 盾は傷を増やし、腕は痺れを増す。それでも一歩も退かない。


「この盾がお前らを守る!」


 メグが泣き笑いの顔で頷く。ローザは息をひとつ整え、剣を構え直した。


 ソレイユが一歩、前へ出た。目に宿るのは、もはや隠しようのない殺意。


 マーガレットが正面を塞ぐ。剣先が、わずかに下がる。


 挑発ではない。受け止めるための構えだ。二人のあいだへ、見えぬ刃の膜が張られる。


 ――だが、ソレイユは踵を返した。


「……撤退」


 短い命令が落ちた瞬間、隊は一斉に踵を返した。


 静けさが戻る。砂が落ち着き、土の匂いが立ちのぼる。


 マーガレットは剣を鞘へ納める音で戦を閉じた。


 ロッシュは楯を下ろした途端、大腿の傷が疼いたのか小さく顔を歪めた。


 メグがすぐに寄り、手早く包帯を締め直す。結び目を作る指には迷いがない。


「……助かった」


 ローザが息を吐くと、自分の息が震えているのが分かった。震えを隠さず、そのまま立つ。隠す余裕はもうない。震えは弱さではない。生き延びた身体の、正しい反応だ。


 ローザはマーガレットへ視線を向けた。


「どうして来たんですか。あなたはベルノアで――」


 マーガレットは短く肩をすくめる。


「護衛だよ。こいつが、どうしてもアンブラージュへ向かうと言った。こんな状態だ。放っておけるか」


 言いながらロッシュを一瞥する。ロッシュは不服そうに鼻を鳴らした。


「当たり前だ。俺はネイ小隊の盾だ。いつまでも寝てるわけにはいかねえ」


 ロッシュを見ながら、メグが包帯の端を噛み切り、結び目を作ってから冷静に落とした。


「そもそも、盾が搬送されちゃだめです」


 ロッシュが一瞬だけ言葉に詰まり、視線を逸らす。


 逸らし方が妙に子どもじみていて、メグは笑いそうになり――笑えずに喉だけが鳴った。


「ところでネイはどうした」


 ロッシュが頭を掻きながらローザに聞く。


「ローンズベリーで別れた。確かめることがあると言って。そしてベルノア王の書簡と、この証を託された」


 ローザはベルノア王の書簡と、ベルノア特使の証を見せる。


「つーか、なんでソレイユ殿下とやりあってたんだよ」


 ロッシュは不思議そうな顔を見せる。傷の痛みで顔色は悪いのに、問いの目だけは真っ直ぐだった。


「突然だった……でも今回のことで分かった。特務隊が“闇の中心”だということ。彼らはネイを追っている」


 ロッシュが眉を寄せる。


「やっぱり戦団には闇があるってことか」


 ローザは、静かに首を縦へ振った。


「……でも今は、ネイから託されたこの書簡を、マリー女王へ届ける」


 遠い東の霞を見据える。霞の向こうに、女王陛下がいる。そこへ辿り着くまで、この書簡は守る。


 マーガレットが一歩、ローザの横へ並び、峡間の奥――影の溶けた方角を一度だけ見やった。


「ここまで来たら、最後まで付き合ってやる」


 軍神の頼もしい言葉に、ローザは力強く頷いた。


 頷いた瞬間、胸元の封蝋がほんの僅かに擦れた。硬いはずの封が、なぜか熱を帯びたように感じる。


 ローザリアの未来が記されているかもしれない、この書簡を守る。


 ――その決意だけが、いまの自分を立たせる。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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