第42話 闇の中心へ
無意識だった。一筋の涙が、頬を伝っていた。
ネイは、話の終わりを受け止めきれぬまま、深く息を吐く。
レオンの壮絶な経緯。英雄アルザスの正体。グラーフ公とソレイユが、デラヴイユの人間だったという事実。
そして――母は、捨てられたのではなかったこと。
ひとつひとつが重いのに、それらは順番を守らず、まとめて胸へ落ちてくる。怒りも、哀しみも、安堵も、互いの居場所を奪い合い、内側でぶつかって砕けた。言葉にすれば軽くなるはずなのに、言葉にした途端、何か大切なものまで薄れてしまいそうで、口が動かない。
「赦してもらえるとは思っていない。だが、言わせて欲しい……本当に、申し訳なかった」
投影のレオンは、体温のない声でそう言った。なのに、その謝罪だけが人の形をして、ネイの胸へ深く刺さる。
――体がなくても、罪を背負う意志だけは、なおそこに残っている。
ネイは袖で頬を拭った。濡れた感触が指に残り、遅れて塩が舌の奥に浮かぶ。泣くつもりはなかった。けれど今夜まで胸の底に沈めてきた問いが、一息で浮上してしまった。
「……俺は大陸を回り……あなたが残してきた“痕跡”を、いくつも見てきました」
言い終えると同時に、景色がいくつも脳裏へ灯る。
ベルメモリーズでの救助と的確な避難誘導。ベルノアで、盗みを働いた少年を罰ではなく更生へ導いたこと。クランベリーで、暴挙に出た若者へ、剣ではなく言葉を置いたこと。
きっと、それ以上に多くの夜を、より多くの人を、救ってきたのだろう。
それらは誰も「王子の功績」とは呼ばない。だが確かに、誰かの明日になっていて、人の記憶の中に刻まれていた。
「あなたは、人を守る剣でした。……いや、剣じゃない」
ネイは一度、言葉を噛み直す。
「言葉で人を救ってきた。逃げ場のない夜に、誰かの肩へ手を置き、寄り添うように。……俺は、誇らしいと思っています」
霧粒の輪郭が、ほんのわずかに揺れた。機械の揺れではない。揺れの“遅れ”が、痛みの輪郭をつくる。
レオンは静かに首を横に振る。否定ではない。受け取ったうえで、それでも自分を赦さない――そういう仕草だった。
「あなたは、悪くない。複雑な事情と時機……運命のいたずらに巻き込まれただけです」
ネイは導光の筋へ視線を落とす。光は整っていて、影は薄い。だからこそ、指先の震えまで隠せない。
「……」
沈黙が、薄い霧のように床へ降りる。
「母が……愛されていたこと。それを聞けただけでも……俺は……いや」
言いかけた言葉を飲み込み、ネイは小さく首を振った。
感謝の形を、間違えたくなかった。
「母は……救われた」
その一言が落ちた瞬間、胸の奥の張り詰めがほどけて、また涙が落ちそうになる。ネイは指先でそれを拭い、濡れた感触だけを残した。
真相は悲劇だった。だが、真相に触れられたことは救いでもあった。母は愛されていて、捨てられたわけではなかったからだ。
「すまない……」
レオンの声が、ほんの一段だけ低くなる。体温はないのに、声の置き方だけがなお“人”のものだった。
ネイは息を吸い、吐いて、次の言葉を選ぶ。
「……ひとつ、腑に落ちないことがあります」
言葉の端が震えそうで、ネイは拳をそっと握り直す。心臓が一拍遅れて鳴った。
「なぜ、グラーフ公は、あなたについて行かなかったのか」
霧粒の束が、かすかに乱れた。そして沈黙が流れる。レオンは瞬きをしない。だが、その沈黙が答えの重さを先に語っていた。
「……私が原因だろう」
意外な言葉に、ネイは目を開かせる。
「それは、何も考えずに、グラウカへ“戻ろう”と伝えてしまったことだ」
ネイの背筋に冷えが走った。たった一言が、人生の針路を折ることがある。
「彼は一介の騎士から、公爵という“地位”を手に入れた。戻るとなれば、手に入れたすべてを捨てることになる。あの日は、私だけが戻ればよかったのだ」
レオンの声は冷静だ。冷静だからこそ、逃げ道がない。ネイの内側で、怒りが熱ではなく、薄い氷の膜になって張った。理が通るほど、刃は鋭くなる。
「グラーフ公は……地位を守るために……」
問いは鋭くなりかけたが、ネイは語尾を折った。
「分からない……だが、グラウカを責めることはできない」
ネイは思わず顔を上げた。
「彼は間違いなく、私の一番の理解者であり、いついかなる時でも本物の“騎士”だった。だが、それ以上に“戦友”という存在でもあった。彼がいなければ、私は、あの時のデラヴイユで死んでいた」
投影の眼差しに体温はない。それでも断言だけが熱を持つ。だからこそ、ネイの胸が痛んだ。
「すべて、私が悪いのだ」
レオンは、自らを裁いた。この人の潔さ、慈悲深さ、人としての深さは、底見えぬ海のようだった。
ネイは何も言うことができなかった。
レオンは、わずかに微笑む。
「……ネイ、君に頼みがある」
ネイは背筋を正した。頼みの形を取られても、これは命令ではない。――彼の願いだ。
「君からグラウカへ……“私を赦してくれ”。そう伝えてくれないか」
言葉が静まると、導光の脈も呼吸を止めたかのように見えた。青白い光が薄まる。
ネイは拳を握り、ほどき、もう一度握った。
「……分かりました。必ず、伝えます」
「……頼む」
レオンの声が、ほんのわずか低くなる。命令ではない。祈りの終わりのような言い方だった。
「もうひとつ頼みがある。これは私の我儘だ」
導光の筋が、わずかに強く脈打つ。
「このデラヴイユは、“人ならざる者”が導くべきではない。“人”が……“人の体温”で導くべきだ」
投影のレオンが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。霧粒の影が揺れ、その揺れが、言葉にできぬ恥と願いを混ぜ合わせる。
「……私の後を継いでほしい」
突然の懇願に、ネイの喉には言葉が堆積していく。返す言葉が見つからない。背負うべき名が、胸の中で音を立てて増えていく。
ネイは深く一度だけ息を吸った。青白い光が肺まで沁みる。沁みた光が、いまの自分の位置をはっきりさせる――地上と空のあいだで、まだ揺れている位置を。
「……すべてが終わったら、また来ます」
今はまだ決断できないと示し、ネイは言葉を置いた。逃げではない。先延ばしでもない。地上に残る“手順”を終えなければ、空の答えは語れない。
投影のレオンが、ネイの考えを理解しているかのように、わずかに頷く。霧粒がほどけ、光の繊維がゆるやかに散る。導光路がひと呼吸ぶんの暗を挟み、また脈動を取り戻す。まるで心臓が、言葉を飲み込んだみたいに。
玉座の間を出る。青白い光が背を押し、背後で扉が閉まる音が、これから背負う重さの最初のひと欠片になった。廊下はさっきより狭く感じた。都市の鼓動が遠のき、代わりに自分の鼓動が耳を塞ぐ。
リディアと共に、ミラージュ昇降核へ向かう。
円の縁に立つと、足裏がふっと軽くなる。空気が筒に変わり、遠い地上の匂いが薄れていく。降下のはじまりに、ネイは一度だけ目を閉じた。
ネイは、空の王国から再び地上へ降りながら想う。
“赦しの懇願”を伝える相手――グラーフ・フォン・ハーデンベルグは、いま何を守っているのか。
あの人はなぜ、レオン王子について行かなかったのか。
そして、恐らくグラーフ公は獅子王を暗殺している。
あの人は何をしようとしているのか。
旅の最終地点は決まった。故郷であり、闇の中心でもあるハーデンベルグ。
赦しの懇願を伝えた先で待つのは、“光”か“闇”か――。
*
一方、ハーデンベルグ城にいたソレイユに報告が入る。
「ネイ・カイザーハインが、デラヴイユ王国遺跡で消えたとのこと」
ソレイユはその報告を受けたあと、目を細めた。
「鍵は、そこにあるということか」
静かに“闇の中心”が蠢き始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これで第3章完結です。次は最終章となります。
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