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双貌のローザリア  作者: あかまる
第3章 追憶

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第40話 名を灯した夜

 軋む音を引きずりながら、重い扉がゆっくりと開かれていく。


 蝶番が擦れ、金属が喉を鳴らすように低く悲鳴を上げた。扉板の内側へ溜め込まれていた冷気が、青白い作業光に溶け、薄い霧となって押し出される。霧は床を這い、ネイの足首をひと撫でして、すぐ見えなくなった。


 ――静かすぎる。


 高い天蓋は闇へ吸われ、光は床から湧き上がるように均一に満ちている。


 視線の先にあるのは、玉座と、その脇に控えるひとりの女性。


 そして――玉座は、空だった。


 空席は不在を示すだけではない。役割が欠けた“穴”として、部屋の中央に重く居座っている。ネイの胸元で王紋が冷たく鳴った気がして、呼吸が一拍遅れた。


 リディアが一歩進み、玉座脇の女性へ、祈りのように静かな礼をする。


「殿下。こちらは私の母で、陛下を長くお支えしてこられた方です」


 女性は言葉を持たず、礼の形だけで応えた。修道衣の袖口から覗く指は、祈りで磨かれた石のように白い。視線は低いのに逃げない。ここが祈りの場であり、同時に“鍵”の場であることを、姿勢だけで示していた。


 ネイも反射で礼を返した。だが、肝心の“王”がいない。空いた玉座の輪郭を見つめていると、喉の奥が乾く。


「それで……王は……どこに……」


 問いが床へ落ちる、その寸前だった。


 玉座の背後にある巨大な光板が、息をするように一瞬だけ明滅した。


 霧粒が束ねられ、散り、また束ねられる。輪郭線が縫い直され――肩、額、眼窩、頬の影。光の粒が、誰かの面差しを“思い出して”いくように形を結んでいく。


 ひとりの男の相が、光の膜として立ち上がった。


 明らかに“人”としての体は成していない。だが、“目”だけは確かにこちらを見ている。


 その眼差しに、ネイの胸の奥で何かが強く軋んだ。


 知らないはずの相貌だった。だが、知らないだけでは済まない何かが、その輪郭の内にあった。鏡の奥に、自分より先に生きた誰かを見たような、逃れようのない近さだった。


「君が……ネイ……ネイ・カイザーハインなのか」


 滑らかな声。だが吐息が伴わない。言葉が、空気ではなく装置の奥から出てくる。


 ネイは一歩、足を引きかけた。


 光の相には影がない。胸も上下しない。指先も震えない。人が人として生きているときに、そこにあるはずの微かな乱れが、一切なかった。


 それなのに、声だけがあまりにも自然だった。


「……何だ、これは。どういうことだ。――これは一体、何なんだ……!」


 自分でも狼狽していることは理解していた。声が跳ねたからだ。だがこの部屋は、声を返さない。空へ吸われ、どこにも刺さらない。ネイは振り向き、背後のギュスターヴへ視線を投げる。だがギュスターヴは目を外したまま、“答えを待つ”形を崩さない。


 ネイは、現実を掴むために、言葉を選び直す。


「……あなたが……王なのか……」


 光の相が、ほんのわずかに頷いた。頷きの角度まで、整えられている。


「私が……デラヴイユ王……レオンだ」


 名が、無機質な音として落ちた。


 落ちた名は胸の底へ沈み、遅れて痛みに変わって広がる。父と呼ぶべき存在が、光の相として“そこにいる”。


「申し訳ない。もはや“人”ではない私に驚くのも、仕方のないことだ」


 謝罪の形だけが、丁寧すぎるほど整っている。整っているからこそ、ネイの内側が擦れる。怒りも、悲しみも、触れ合いの欠落に行き場を失う。


「……どうして、こんな……」


 声が掠れ、視線が揺れた。


 もし生きているのなら、なぜ姿を現さなかったのか。

 もし生きていないのなら、なぜここに“いる”のか。

 目の前にあるのは再会なのか、それとも、もっと別の何かなのか。


 答えに届く前に、感情だけが胸の内でぶつかり合う。


 レオンの光の相は、しばしネイを見つめた。そこに憐れみがあったのか、あるいはただ事実を受け止める静けさだけがあったのか、ネイには分からなかった。


 ただ、その眼差しだけは確かに人のものだった。


「これまでの経緯を……話そう」


 *


 二十五年前、デラヴイユ崩壊の夜――。


 レオンは焦土と化す故郷を、胸に焼き付けるように見つめ、静かに拳を握る。


「生き延びてみせる。生きていれば、やり直せる……」


 眼差しは憂いに満ちながら、それでも折れてはいない。


「そして、いつの日か――共にデラヴイユを復興させよう」


 レオンは力強く決意を語った。グラウカは静かに膝をつき、頭を垂れる。


「必ずや……騎士の誓いにかけて、私が殿下をお守りいたします」


 その声には、従者の域を超えた、騎士としての鉄の意思があった。


 レオンは胸元の青い薔薇の装飾を静かに握りしめた。心を鎮めるためではない。決意を留めるためだ。


「名は盾だ。だが、これからは刃にもなる……この先、我らは名を捨てるのが賢明だろう」


 ――名は重い。受け継いだものは、ルクス神に選ばれた“器”という名の、誇り高き王家の血だ。捨てられるはずがない。だが名は“標”になる。あらゆる危機を避けるため、いまは捨てる。


 生き延びるため。やり直すために。


 最後に空を見上げる。炎の照り返しで、空は鮮やかな茜に燃え、やがて灰に沈んでいく。そして故郷は亡国と化すのだろう。


 だが必ず、いつの日か、このデラヴイユを復興させてみせる。


「……私は今日から“アルザス”と名乗る」


 グラウカは目を伏せ、ただ一拍だけ置いた。彼は言葉を薄く切り出す。


「では……私は……“グラーフ”と」


 レオンは頷き、腕の赤子ノワールへ視線を落とす。熱い頬が袖に擦れ、かすかな呼気が掌に触れた。


 泣き疲れたのか、赤子は声にならない息を吸っている。小さな胸が上下するたび、灰を含んだ夜気がその体に入り、また出ていく。


 ――それだけで、この世界にまだ“明日”があると錯覚できた。


「この子には、闇の名ではなく、我らの希望――太陽の名を」


 灰の降る空の下で、その声だけが折れなかった。


 名が灯になる。灯は小さくとも、闇を切り分けられる。


「――ソレイユ――」


 名を与えた瞬間、赤子は泣き声ではなく、声にならない呼気をふっと温かく漏らした。小さな指がレオンの指を掴み、すぐ離れる。その一瞬の触れ合いが、焼け落ちる街より重く胸を打つ。熱ではない。命の重さだ。


「良い名です」


 グラウカはそう言って、赤子を見た。


「ソレイユは……私が責任を持って育てましょう」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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