第39話 脈動する扉
第39話 脈動する扉
「この国には、王がいなかった」
ギュスターヴは、そう言って静かに目を伏せた。
レオン王子は、あのアンブラージュ王国によるデラヴイユ侵攻の折に、死んだと記録されている。
ならば、この国は何を拠り所に、誰の名のもとに、二十五年ものあいだ空に在り続けたのか。
「それで……俺を探していたのですか」
ネイは、ギュスターヴの顔を見つめた。
ギュスターヴは、なぜかほんのわずかだけ表情を歪ませた。痛みに似た何かが、笑みの裏側をかすめたように見えた。
「……俺のことは、いつ気づいたのですか」
ネイは、問いの向きを変えるように言った。
ギュスターヴは視線を細めた。答えを選ぶというより、事実を静かに取り出すような間のあとで口を開く。
「下界観測の折に」
「下界観測……?」
ネイは眉間に皺を寄せる。
ギュスターヴが指し示した先に、巨大な光板があった。
光の板――いや、窓だ。
そこにはローザリア各地の情景が映っていた。風の音、群衆のざわめき、会話の断片までもが薄く重なり、整えられた“記録”として流れ込んでくる。石の街の喧噪が、ここではまるで頁のひとつであるかのように扱われていた。
生きた声が、道具のように保存される感覚が肌を刺した。
「現在のローザリアが、どのような状況に置かれているかを調べております」
ギュスターヴは光板を見つめたまま、声を落とした。
「巡礼僧に扮した一部の者――彼らの“目”と“耳”を通じてです。小さな装置を介して、見たもの、聞いたものを記録しております」
「そんなことが……可能なのですか」
ネイの声は、ほとんど息だった。ギュスターヴは頷く。頷きの角度は、罪悪感ではなく責務のそれだった。
「そして、マリー女王の即位式を観測していたとき。ある名が呼ばれた」
彼は視線をネイへ戻す。柔らかな笑みのまま、言葉だけを刃のように研ぎ澄ませる。
「ネイ・カイザーハイン」
ネイは思わず息を止めた。
自分の名が、ここで“記録”として呼ばれる異様さが喉へ爪を立てる。背中を通る冷えが、遅れて熱へ変わりかけた。
「レオン陛下の血を継ぐ正統後継者。カイザーハインの名を継ぐもの……すなわち殿下を探していたのは事実です。私は喜んだ」
ギュスターヴは整然と言う。
「ですが同時に、異端嫌疑をかけられたことに焦りました。……ゆえに私は、リディアを下界へ送ることを決めたのです。殿下をお救いするために」
隣でリディアが一歩下がり、静かに礼をした。
「これも偶然でしたが、リディアはロサマリアで殿下と会うことができた。そこから先は……殿下もご存知でしょう」
ギュスターヴが微笑むと、リディアも小さく頭を下げた。
「……そういう経緯だったのですか……」
ネイはゆっくりと頷く。胸の奥で、監視されていた感覚が“観測”という名へ置き換えられ、輪郭を持ちはじめる。
「レオン王子は、死んだのですか」
ネイがそう聞いたとき、ギュスターヴは目線を落とし、表情を濁らせた。
ほんの一瞬の濁り。だが、そこに“触れてはならない”線が見えた。
その濁りはすぐに消え、代わりに笑みだけが残る。
笑みだけが残るのが、いちばん危うい。
ネイがさらに口を開こうとした、その前に――ギュスターヴが静かに手を上げた。
「私が語るのは、ここまでとしましょう」
「え……」
ギュスターヴは一歩、近づいた。
さっきまでの穏やかさが、薄い氷のように張りつめる。瞳の“確信”が、いまは問いの形でこちらを測っていた。
「最後に、殿下のご意思を聞かせていただきたい」
声が低くなる。
広間の空気が、一瞬で冷えた。遠くの光字の流れさえ、止まったように見えた。
「陛下にお会いになる覚悟は、ありますか」
胸の奥で何かが弾け、遅れて驚愕が喉を打った。
ネイの思考が、音を立てて止まる。
「……生きて、おられるのですか?」
唾を飲む。喉が痛い。
レオンは死んだ――そう思い込んでいた。
ギュスターヴは答えない。ただ、ゆっくりと身を翻した。
視線の先には、重厚な扉があった。
光の街に似合わぬほど古く、分厚く、そして固く閉ざされている。
扉の縁には、外からは見えぬ紋が淡く走り、まるで脈のように明滅していた。
「この先に進むのであれば……殿下は、名に囚われることになる」
ギュスターヴの声色が変わる。
忠告にも、警告にも聞こえた。どちらであれ、扉の向こうにあるものは、戻れぬ種類の答えだった。
ネイは一度だけ拳を開き、また握った。自分の意思を確かめるように。
「覚悟はできております」
ギュスターヴは目を伏せ、静かに頷いた。
重い扉の向こうで、初めて目にするであろう“父”の姿。
期待と、一抹の不安。
その相反するものが、ネイの胸の内で静かに渦を巻いていた。
扉の縁を走る紋が、脈のように明滅する。
――その鼓動は、ネイの胸の鼓動と、寸分違わぬ間合いで重なっていた。
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