第3話 決戦の夜明け
戦場の夜が、明ける。
アンブラージュ王国軍はバレンデンを経て、ファウンテンの西――ベルノア王国との国境線に野営を敷いていた。
夜明け前、天幕を出たネイは陣の外れで足を止める。
正面には眠った内湾が、黒く沈んでいる。波は起きず、ただ水面だけが、夜の色を溜め込んでいた。
そして――その海の口を塞ぐように、ひとつの巨大な影が聳えていた。
ローンズベリー要塞。
ベルノア領とアンブラージュ領は、陸で繋がっていない。国境は湾の水面で断ち切られ、渡る手段は限られる。
海から攻めれば、湾口を塞ぐ稜堡の投石が船腹を破壊する。陸から攻めようにも、要塞の出入り口はたった一つ――正面門だけだ。
門へ通じる道は、湾を縫うように伸びた細い陸のみ。稜堡の弩座と弓隊が、狭路に押し込まれた歩兵へ集中砲火を浴びせる構造だ。
まさに難攻不落の要塞。
過去三度、アンブラージュはこの要塞へ挑み、いずれも退けられている。ここを落とさぬ限り、ベルノア王国へは進めない。逆に、ここを破れば覇権は一気に傾く。
――覇権を占う決着の戦場だ。
潮を含んだ冷気が帆布を低く鳴らし、焚き火は削られて細る。樹脂の香りと鉄の匂いが混ざり、煙は霧気に吸われて宙に消えた。火の粉だけが瞬いては消える。
ネイは火から半歩離れ、濡れ布で剣と胴鎧を丹念に拭いた。戦いの前にこそ手入れを怠るな――グロワールに叩き込まれた教えだ。
革紐を締め直すたび、胸の内側に小さな乱れが生まれる。いつもの癖で、胸の飾りへ触れた。
ロッシュは固い黒パンを噛み、盾と槍の縁を指で撫でている。メグは弓弦を抱え、火をただ見つめている。緊張の面持ちを隠しきれていない。ローザは膝の地図に爪で線をなぞり、視線を落としたまま距離を測っている。
各自ばらばらに動いているようで、誰も焚き火の輪から離れない。半歩の距離が、孤児院から続く四人の形だ。
すると、幕舎の前で低く通る声がした。参謀の声だ。
「各小隊長、入れ」
*
幕舎の奥には戦図板が立てかけられ、グロワールが席に座って腕を組んでいた。
要塞を中心に湾と浜と森が白墨と赤墨で描かれ、釘に掛けた紐が進路を示している。
板の一角には、湾口を塞ぐ砦と、そこへ通じる“細い陸の道”が描かれている。三度の敗因は、そこに集約されていた。
狭路へ押し込めば押し込むほど、上から削られる。退けば退くほど、霧と波と矢に追われる。
グロワールは席を立ち、棒の先で正面門を打つ。
「目標は、正面門の突破だ」
浜から門へ引かれた赤線を、棒が乾いた音で叩いた。小隊長たちの目が、戦図板の細い線へ吸い寄せられる。
「まず、前提の作戦を連携しておく。本軍の投石機は、二系統で運用される」
棒が稜堡へ走り、次いで門へ移る。
「第一系統は稜堡へ。弩座と弓隊、そして敵の投石機を叩き続け、門前への攻撃を薄くする」
「第二系統は門を叩き続ける。門が崩れれば、第一系統の攻撃と統合される」
冬の間に量産された投石隊が、この戦場の行方を左右することは確かだ。
――だが、いまここで語られるのは、歩兵連隊の任務内容。
グロワールは棒を板上の“門前の狭路”へ戻した。
「諸君ら歩兵連隊の任務は、門付近の敵兵の誘い出しだ」
棒が狭路をなぞる。
「門を攻めれば、敵兵は門の外へ出てくる。出てきた兵を削る。要は、防衛戦力を削る目的だ」
棒が角笛の印へ移る。
「第二系統の門攻撃は、中軍の角笛の合図によって行われる。よって諸君らは、合図を覚えておくこと」
声が一段、硬くなる。
「角笛一。第二系統は投石準備。歩兵連隊は門へ攻める」
「角笛二。第二系統が門を攻撃。歩兵連隊は門から退く」
「角笛三。状況変化。一旦退く。以降、指示があるまで動くな」
それだけで、命の線が三本引かれたように感じた。
「門が破れれば、本軍歩兵隊と私の隊が突入する。各小隊は退き、支援に回れ」
わずかに、表情が曇った。
「ひとつ注意点がある」
幕舎の空気が、目に見えぬまま一段冷える。
「――“軍神”マーガレット・シュロップシャイア」
その名が落ちた瞬間、小隊長たちの間に薄いざわめきが走った。
彼女が現れた戦役で、勝ちを掴んだ記録はない。まさに、“軍神”の異名を体現している存在。
「この戦役にも参加している可能性が高い。現れたら、退くことも考えよ。討ち取りにこだわるな。諸君らは“勝つ”ために生き残れ」
棒が板面を一度だけ鳴らす。乾いた音が、余計な想像を断ち切った。
「概要は以上。以降、中隊長の指示に従え。各隊、持ち場へ戻れ」
小隊長たちは一斉に頷き、無言で幕舎を出た。
外へ出ると、漆黒だった東の空は深い青へ変わっていた。
鎧紐を結ぶ音、剣を拭く音、革の軋み。戦支度の小さな音が陣一面に散る。
ネイが仲間たちに要点を伝えると、三人は短く頷いた。
「……なぁ、ネイ。軍神って、どんな顔だと思う?」
ロッシュが覗き込むように言う。冗談めいた声の奥に、いつもの癖が透ける。怖さを笑いに混ぜる癖だ。
「強い顔だ」
ネイは剣を拭きながら答えた。
「なんだそりゃ」
ロッシュは笑いかけ、もう一度ネイを見る。
ネイは火の縁で刃を拭き切り、布を畳む。
「強い顔には、守るものの影がある」
ロッシュは鼻を鳴らし、口の端だけで笑った。
「それ、お前の顔にもあるよ」
ネイは少しだけ笑みを浮かべ、空を見上げる。
間もなく夜が明ける。
運命の決戦の火蓋が、もうすぐ切られる。




