第37話 覆いの都
目の前に広がる光景は、別世界だった。
「どうやって……なぜ……空に街を作ったんだ」
ネイは目を見開いたまま街を見渡し、そしてリディアへ問いを向けた。口から漏れた声は、そのまま空へ吸われていく。地上の石壁なら跳ね返るはずの驚きが、ここではどこにも留まらず、静かに消えた。
「詳しくは、おじい様へお聞きくださいませ。ご案内いたします」
リディアは目を伏せ、軽く礼をする。“おじい様”とは恐らく――ギュスターヴ・バイアーンゴルト。聖都で会った、あの老人の名だ。
「ここは外界からは見えません」
リディアは歩きながら、言葉を平らに置いていく。
「先ほど通った“昇降核”と同じように、都市全体が覆いで守られています。迷彩――私たちは“ミラージュ”と呼んでおります」
「ミラージュ……」
ネイが掠れた声で反芻すると、リディアは小さく頷いた。
「蜃気楼のように、目を誤らせます。雲と陽の揺らぎに似た“にじみ”をまとわせ、輪郭を空へ溶かす。遠目には“何もない”。近づいても“そこへ目が止まらない”。――見せないための膜です」
言い方は簡潔だった。だが、その中身は容易には掴めない。
「そして、ここに入れる人間は限られております。危機を避けるための、ひとつの掟です」
「外界との接触を、徹底して断っているということか」
ネイが言うと、リディアは同意するように頷いた。
欄干の外には雲海が広がり、その上を白い橋が蜘蛛の糸のように幾筋も渡されている。遠くで風車がゆっくり回る。羽根が風を噛むたび、低い唸りが空へ薄く溶けた。音は大きくない。大きくしないための工夫が、街中へ染みている。
鐘で告げぬ。叫びで呼ばぬ。必要なものは、必要なだけ届く――そんな仕組みの息づかいがある。
やがて円形の広場へ出る。足裏の感触が、遺跡の石とは違った。滑らかだが、冷たすぎない。熱を逃がし、足音をやわらかく吸うような床だ。靴底の擦れは地上より一拍遅れて消え、歩くほどに、この都市が人へ歩幅を寄せているのが分かる。
人が都市へ合わせるのではない。都市の方が、人へ合わせている。
下層の雲が影絵のように流れ、その上を一本の光の筋が走っていた。馬車の代わりに、決まった道筋の上を台のようなものが滑っていく。
「ここは、物を運ぶ大きな道です」
リディアは言う。橋の分かれ目でも、迷わず歩みを進める。知っている者は、迷わない。
「食糧、薬、資材……すべてはここを通り、ミラージュ昇降核を介して聖都、ロサマリアへと届けられます。それが、さらにローザリア各地へと流れていくのです」
この国は聖都を通じて、間接的にローザリアを潤している――ネイはそこで初めて、その構図を知る。
「だが、俺が乗ってきた昇降核は狭かった」
ネイは、胸に引っかかった疑問をそのまま口にした。
「昇降核はひとつではありません。高さも広さも、用途もそれぞれ異なります。聖都への物資輸送、逆に聖都からの保護、いずれにも別の道を用います」
ネイは、その一節に引っかかった。
「――保護?」
リディアはネイへ目を向けた。澄んだ瞳が、逸らさぬまま答える。
「戦災孤児を保護しています。聖都の手続きと、巡礼の流れを介して」
「……そういうことか」
赤子の戦災孤児を近頃ほとんど見かけなくなった理由が、そこで繋がった。偶然ではない。意図であり、順序だ。
「なぜ、そんなことを」
責めるでもなく、ただ確かめるために、ネイは聞いた。
リディアは目を伏せ、ほんの短く息を入れ替えた。その息だけで、それが容易く語れる話ではないと分かる。ネイはそれ以上、言葉を押し込まなかった。押し込めば、この国の扉は閉じる。
「下界の戦災孤児は、ハーデンベルグの孤児院へ集められ、やがて獅帝戦団の隊士へ育てられます。戦災孤児の未来に、選ぶ余地がないことを、この国は憂いました」
リディアは歩きながら語った。言葉は静かだが、結論は冷たい。国を守るための冷たさだった。
「そのため、下界の赤子を保護し、食と学びを与える。読み書き、算術、道具の手入れ、畑の作り方……ここで生きるための術を与える――それが、この国の選んだ道です」
「どうして赤子だけなんだ」
ネイは問いを重ねる。胸の底で、正しさと違和感が擦れ合っている。
「地上で生まれ、物心のついた子には、生まれた地へ戻りたくなる感情が必ず生まれます」
リディアは、淡々と言い切った。
ネイは、言いかけた言葉を呑み込んだ。戻りたいなら戻せ、と言いたかった。だが――。
「地上へ戻せば、この国の存在が下界へ知れ渡ることになります。ならば、下界に執着を持たず、地の記憶を持たぬ赤子のみを保護する――それが最善です」
正論だった。だが、戦災孤児に選択肢がないことを憂いながら、何も知らぬ赤子の未来をこの国へ繋ぎ止めている。矛盾は明白だ。
それでもネイは、肯定も否定もしなかった。ここは下界と断絶した、完全に別の秩序を持つ場所だ。
むしろ――ここで生きることこそが“理想”なのかもしれない。そう思ってしまう自分が、少し怖かった。
やがて白壁の施設の入口へ着く。柱は細く、影が薄い。威圧のためではなく、規律のための建築。人の背を押すのではなく、人の足を整える形だ。入口の上には、ルクス規範院の印が淡く浮いていた。彫りではなく、光の滲みで示された印だ。目立たぬのに、見落とせない。
壁に、句が刻まれている。
“光は流出せぬよう覆い、時機まで温存せよ”。
「ルクスの……教えか」
遺跡で見た断片が、ここでひとつの掟として生きている。削れた骨が、いま肉を得て立っていた。
「この国の存在と技術が下界へ流れれば、争いの火種となるでしょう。だから覆い、隠し続けることにしたのです。国も、人も、すべてを」
リディアの声は静かなまま、刃のように定まっていた。言葉が柔らかいほど、決意の硬さが透ける。
次に案内されたのは、螺旋塔の書庫だった。金属の階段が薄く鳴き、光の頁が自ずと捲れていく。紙が擦れる音ではない。空気がかすかに震える音だ。近づくと肌の産毛が立つ。指先へ、見えぬ気配がまとわりつく。
棚の代わりに、円筒の器が幾列も並んでいる。器の口から淡い光が漏れ、触れれば光の頁が立ち上がる。見たいものだけが選ばれて浮かび、残りは眠り続けている。
地上の書庫にある埃や油とは別の匂いがした。乾いた静けさと、金属の清潔さ。知が腐らずに守られている匂いだった。
「ここはルクス教正典と設計図の、双方を守る場所です」
リディアは言う。
「信仰と技術は、同じ檻に置かれました。どちらかが欠けても、都市は成り立ちません」
ネイは器の光へ手を伸ばしかけ、指を止めた。守るとは、鍵をかけることではない。順序を作り、その順序の外へ出さぬこと――その意味が、形になってここにある。ここでは“読む”ことでさえ、許しと責任の上にあるのだ。
さらに歩き、玻璃の屋根で覆われた巨大な吹き抜けへ入ると、空気が一段やわらいだ。温度と湿りを整える見えぬ仕掛けが天蓋の光を和らげ、草の匂いが濃くなる。水の匂いは薄い。湿りは必要なだけ、過不足なく配られている。風さえも、道の形に沿って流れ、髪を乱しすぎない。
都市が、気候までをも制御していた。
ネイは圧倒され続けながら、街並みを進む。
やがて巨大な塔が聳え立つのが見えた。中心尖塔――空へ刺さる一本の針。だが、威圧のためではない。すべての線がそこへ集まり、そこから分け与えられる“中心”だ。連絡橋の白はそこへ向かって細く収束し、光の筋が呼吸のように往き来する。
都市の血管が見える。鼓動が見える。そこで初めて、ネイは悟る。
この巨大な塔が、“国家の心臓”であることを。
塔の入り口に、薄い笑みを湛えた男が立っていた。
「――殿下。よく来られましたな」
ギュスターヴ・バイアーンゴルト。
聖都での異端審問以来の再会だ。最高科学技術責任者にして、この街の宰相。
笑みは柔らかい。
ギュスターヴは、ネイの胸元――王紋のある位置を一瞬だけ見て、すぐに礼の形へ戻した。そして穏やかな声で言う。
「では――語りましょう。光を覆い、隠した経緯を。殿下が確かめに来られた“真相”を」
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