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双貌のローザリア  作者: あかまる
第3章 追憶

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第36話 白藍の門

 乾いた風が、髪を靡かせる。


 丘の彼方に、砂へ半ば呑まれた白藍の遺跡が見えていた。かつて通った道を、今は逆から眺めている。同じ輪郭のはずなのに、まるで別の顔だった。光の当たり方が違うだけで、廃墟はこれほどまでに冷たく見えるのかと思う。


 あの時は、ただ軽い気持ちで、どんな国だったのだろう、と考えた。今、その言葉は胸の深い底へ重く沈んでいる。砂が靴の縁で鳴るたび、その重みが一粒ずつ増していくようだった。


 ――デラヴイユ王国遺跡。


 ついに辿り着いた。いや、戻ってきた、と言うべきなのかもしれない。


 ネイは乾いた息をひとつ整え、遺跡へ足を踏み入れた。


 目に入ったのは、半球形の建物の骨格だった。空を噛むように崩れた弧。かつては一点の狂いもなく円を描いていたのであろう巨大な器が、今は抉られたように欠けている。


 ――月の器。


 そんな言葉が、ふと浮かんだ。


 風が通るたび、内部の空洞から低い共鳴が鳴る。まるで亡国そのものが、なお遅い呼吸を続けているように聞こえた。


 白藍の模様は、本来は星図だったのか、祈りの文様だったのか。今は砂に削られ、輪郭だけが辛うじて残っている。青は白へ、白は灰へ。色が失われていくその過程そのものが、時の厚みとなって石へ沈んでいた。欠けた石片が風に転がるたび、触れ合った破片どうしが乾いた音を立てる。その音は軽い。軽いのに、胸の奥へ妙に深く沈んだ。


 崩れた回廊の壁には、浅い刻文が残っていた。


 ――「光は、隠さねばならない時がある」。


 砂に磨かれ、句だけが生き延びている。言葉の輪郭だけが、白い骨のように浮かび上がっていた。その下には、さらに薄い刻みがある。摩耗し、もはや読み取れぬはずなのに、“覆う”“温存”という断片だけが辛うじて残っている。


 そのときだった。


 白い支柱の影から、ひとりの女が現れた。


 巡礼僧じみた装束。だが、布の重ね方は祈りのためではなく、機能のために選ばれている。風を避け、砂を防ぎ、視線を外すための折り重なり。ひとつ外せば砂が眼へ入り込むようなこの場所で、一枚一枚が意味を持って重ねられていた。歩みは軽い。だが、砂を蹴らない。音を立てず、影だけが先に滑ってくる。


 リディア・バイアーンゴルト。


 その視線は澄んで、揺れない。胸元で揺れる三連の銀糸は、この遺跡へ通じる者だけに許された“鍵”にすら見えた。


 彼女は無言のまま胸に手を当て、深く礼をした。ネイもまた、軽く頷く。礼の角度が、そのまま互いの距離を測っていた。


 リディアはネイへ視線を移すと、わずかに眼の色を変えた。


「一度、お聞かせください」


「何だ」


 リディアは静かに息を吐く。


「あの時は、“事情を説明する”と申しましたが……“知る”覚悟はございますか」


 その問いには、試す色があった。ただ事実を告げるための前置きではない。踏み込めば戻れぬ場所へ、相手を立たせるための問いだった。


「ああ」


 ネイは短く答えた。だが、その声は揺れなかった。リディアは改めて深く礼をすると、床の中心を指さした。


 そこだけ、何も刻まれていない“無紋”の円がある。周囲が祈りや星図の欠片で埋まっているからこそ、その無が異様に際立っていた。沈黙そのものが、輪になって置かれているようだった。


「そこへお立ちください」


 一歩、円の内へ踏み入れた瞬間、足裏の重さが消えたような感覚に陥る。


 円周から細かな光の塵が立ちのぼり、空気が硝子めいた密度を帯びた。


 聴こえる音が、一段低くなる。世界が細い筒へ変わり、自分の鼓動だけがやけに近い。


「な、何だ――」


 ネイは思わず足元を見た。影の輪郭が、薄く揺れている。


「大丈夫です」


 リディアの声は落ち着いていた。透き通った壁の向こうで、やわらかく反響する。


「これは迷彩が施された“昇降核”です。遺跡と――王国を繋ぐ装置。起動の権限は、限られた者にしか与えられておりません」


「……迷彩……? 昇降核……? 装置……? 起動……?」


 聞いたことのない言葉が続き、ネイの理解は一歩ごとに置いていかれる。


「地上の言葉で申せば、“隠しの道”です」


 リディアはひとつずつ、噛み砕くように言った。


「扉を隠すのではありません。扉へ辿り着く“気配”そのものを薄めるのです。見る者の目線を逸らし、足を別の場所へ導く。迷彩とは、そのためのものです」


 透き通る壁に、読めぬ記号めいた光がいくつも走った。水面へ石を落としたように、細かな波紋が空気の内側を渡っていく。耳が軽く詰まり、視界の端で文字とも文様ともつかぬ列が明滅し、すぐに消えた。


 ――世界が、沈んでいく。


 床が離れ、破れた半球体の建物が眼下へ沈んでいく。腹の底だけが置いていかれるような感覚。


「……う、浮いているのか?」


「空へ移動しているのです」


 ネイは言葉を失った。


 遺跡が縮み、円形都市が掌ほどの大きさになっていく。争いも、道も、壁も、すべてが線へ変わる。街と街、国と国が、指で摘めるほど小さく見えた。息をするたび、これまで当たり前と思っていたものの大きさが、内側から組み替えられていく。


 ――こんな小さな世界で……俺たちは争ってきたのか――


 ローザリアは、想像以上に小さかった。しかも、その小さな世界で人々は戦に明け暮れていた。くだらない、と一瞬だけ思う。だが、その“くだらなさ”の中にも、守りたい顔がある。守りたい手がある。矛盾が胸の中で静かに渦を巻いた。


 やがて暗い層へ入る。音はほとんど消え、わずかな振動だけが骨へ伝わる。地上の風とも、馬車の揺れとも違う。見えぬ大きな器官が、遠いどこかで正確に脈打っているような、冷たく規則正しい律動だった。


 ふいに重さが戻り、足が床を捉えた。


 昇降核は停止し、前方に扉が浮かび上がる。輪郭は柔らかな光で縁取られ、触れる前から“開け”と命じているようだった。


 扉が開く。


 昼光が雪崩れ込み、ネイは瞬きを忘れた。


 ――そこには、世界があった。


 白い橋が空を縫い、環のような歩廊が幾重にも走っている。空に掛かった道はひとつではない。高低を違えて幾層にも重なり、まるで空そのものへ幾何の骨組みを差し渡したかのようだった。


 橋と橋のあいだでは、荷を積んだ台が音もなく滑っていく。車輪は見えない。なのに、床の縁へ吸いつくように進み、止まるときでさえ軋みの音を立てなかった。足元からかすかな震えだけが伝わってくる。まるで重さだけが先に歩いているようだった。


 塔から塔へは、細い光の綱が何本も渡されている。その内側を淡い光が往き来し、まるで空へ浮かんだ血管のように、この都の全身へ何かを送り続けていた。壁の継ぎ目にも細い燐の筋が走り、白い石の内側に、もうひとつの血が流れているように見える。


 高みには、球の形をした庭がいくつも浮いている。薄い天蓋の下、緑は風に靡き、水は噴き上がらず、膜のように静かに巡って根だけを濡らしていた。土の匂いはある。だが泥の匂いはない。生き物を育てているのに、どこにも濁りがない。不思議な清潔さだった。


 通路の脇では、人に似た何かが静かな歩幅で往来している。人の腕ほどの細い肢体。節は金属めき、外殻は白い磁器のように滑らかだ。腕に荷箱を抱え、胸には小さな青白い灯が埋まっていて、脈のように明滅している。彼らは人の流れを妨げず、ほんのわずかに身をかわしてすれ違った。


 ネイは思わず息を止めた。


 人ではない。だが、ただの道具とも違う。命なき従者が、無言の秩序で都を支えていた。


 さらに空路の縁を、薄い舟形のものが滑っていく。橋の上ではなく、橋の“脇”を走るのだ。翼はない。なのに落ちない。ただ均衡だけで飛び、ただ律動だけで進む。下から見れば、鳥ではなく、光に削られた舟が空を渡っているように見える。


 路地の角には、白い果実を積んだ台があり、香辛の匂いがその隣の湯気と混じっていた。遠くでは小さな炉の上に青い火が一定の高さで揺れている。鍛冶の火とも、厨房の火とも違う。熱のための火ではなく、力そのものがそこへ置かれているようだった。


 油と鉄と果実の匂い。そこには、生活の匂いがあった。


 地上のどの都市とも違う。王都の華やぎでもない。港町の喧騒でもない。見たことのない形をしているのに、たしかに街だ。たしかに、人が生きている。


 下界が石と泥と血で国を支えているのだとすれば、この都市は光と秩序と沈黙で支えられていた。


 ネイはただ立ち尽くす。


 胸の内で、遺跡で見た白藍の弧と、今この空にある生きた橋とが、ひとつに繋がる。


 あれは滅びの残骸ではなく、原型だった。


「私はここで生まれました」


 リディアが街並みを眺めながら、静かに言う。


「ここが空中都市――デラヴイユ王国です」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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