第35話 極光の下の岐路
「穢れた者」――。
ベロニカは、倒れ伏した“アルザス”をそう呼んだ。
「名を騙った……?」
ネイは思わず小さく呟いた。あの英雄アルザスが、アルザスではなかった。
ベロニカは、感情の色を含まぬ目で、血に濡れた男を見下ろしていた。
「この穢れた者の名は、オルガ・ヴァンフリート。元特務隊の脱走者。この者は強欲のために英雄アルザス様の名を騙り、傭兵稼業で荒稼ぎしていた」
月光の下、その声音だけが冷たく平らだった。
「裏切りは死罪。特務隊としての正義の執行」
ネイたちは、ただ言葉を失った。
ベロニカの言葉の端々からは、特務隊の内側にある苛烈な秩序が、血の匂いとともに滲み出ていた。
「……カイザーハイン殿は安心してください。ご存知かと思いますが」
その一言に、ネイの目がわずかに細くなった。この女は知っている。ソレイユによって、自分が“逃がされた”という事実を。
ベロニカは、そこで唐突に問うた。
「カイザーハイン殿は、どちらへ向かわれるのですか」
ネイは一瞬だけ黙り、冷えた眼差しを返した。
「言う必要があるのか」
その声音に棘はなかった。だが、拒絶としては十分だった。
ベロニカは、ほんのわずかに目を見開く。
「では、失礼」
そう言い残すと、彼女はアルザスの遺体を抱え、闇の中へ溶けた。灰の法衣だけが一度、月をかすめ、次の瞬間にはもう見えない。
ローザは無言のまま、その闇を見つめていた。呼び止めることもできたはずだ。問い質すことも。けれど、幼い日の名を呼ぶには、今のベロニカはあまりにも遠かった。
*
ネイたちがローンズベリーへ着いたとき、空はすでに漆黒へ傾ききる寸前だった。
城壁の外は、かつて戦地となった場所だ。砲煙と戦いの記憶が、いまだ石と風のあいだに残っている。
「こんな街だったのか……」
ネイが小さく漏らす。
通りの角で、手回しの小さなプレス台から鋭い音が鳴った。真鍮の円板が一枚、布の上へ落ちる。観光客向けの打刻屋だった。
「……記念の印、ですか」
メグが足を止めると、老人は顔を上げ、細い目をさらに細めた。
「表は“獅子王”、裏は“五稜”の印だよ」
「ベルノアでアンブラージュの……?」
ローザが一度だけ眉を動かす。そこで老人の首に、客籍札が下がっていることに気づいた。薄い木札に刻まれた“客籍”の文字。よそ者でありながら、この街に居を許された者の札だ。
「意外かもしれないが、獅子王は人気があった。ベルノア王は領土を失い続け、小国王と卑下されているからな」
老人は笑いながら、刻印へ目を落とした。
「アンブラージュには伝説がある。一代で巨大な国を築いた獅子王と、ある傭兵団の長の話だ」
獅子王の横顔の鬣には柔らかな陰影が彫られ、裏の五稜は幾何学の正確さで光を拾っていた。
「かつて名もない傭兵団の長がいた。獅子王に見込まれて男爵を得た。周りの小旗が倒れ、席が空くたび、子爵、伯爵と位を上げ――気づけば、公爵だ」
老人はさらりと言った。
「一介の傭兵団の長が公爵にまで成り上がる。こういう話は、民の記憶に強く残るものでね」
カン、と新しい円板が落ちる。
ネイは黙って聞いていた。だが、その話が指し示す先は明白だった。
傭兵団の長。周囲の旗が倒れ、気づけば公爵。
それは、ほとんど“グラーフ公”を語っているに等しい。
「記念に一枚、いかがかな」
メグが銅貨を差し出すと、老人は頷き、打ちたてのメダルを渡した。冷たい重みが掌へ沈む。
*
日が落ちきったため、三人は宿を取ることにした。
薪の火は深く赤く、爆ぜる音も小さい。塩とスープの匂い、乾いた藁の匂いが漂う。静かな時が流れていた。静かであるほど、心の奥の音だけがよく聞こえる夜だった。
ネイは卓の中央に、さきほどのメダルを置く。表は獅子王、裏は五稜。続けてその隣へ、グロワールの書簡を置いた。封蝋の縁に火の赤が落ちる。蝋は柔らかな光を返し、紙の端は熱でわずかに波打っていた。
「さっきの老人の話……ある傭兵団の長。周りの小旗が倒れ、気づけば公爵――それは」
ネイは静かに目を閉じた。
「グラーフ公のことだろう」
ローザとメグが同時に顔を上げる。
「そして、公爵に成り上がるまでの経緯。偶然とは思えない。どうしても、謀略や策略を勘ぐる。ベルノアで話した獅子王戦死の件も、その延長にある気がする」
言葉はまだ仮説の域を脱してはいなかったが、ネイの胸の内では、すでに一本の線になりはじめていた。
ネイは息を整え、目を開ける。
「そして、あの“アルザス”は本物ではなかった。なら、本物のアルザスは……」
薪の火が小さく鳴る。
「本当に暗殺されたんじゃないのか」
ローザとメグは息を呑んだ。
「グラーフ公と総将が、傭兵団からの主従関係だったとすれば……暗殺の命はグラーフ公から出た可能性がある」
ネイは目線を下げて小さく呟く。
「そして、あのベロニカだ。これまで特務隊が一体何をやっているのか考えたこともなかった。彼女の立ち振る舞いは、“暗殺者”そのものだった」
二人は沈黙したまま、しかし合点のいく表情を見せていた。
「グラーフ公も、ソレイユ殿下も、特務隊も……今はすべてを疑うべきだ」
ネイの言葉は、感情より先に理を備えていた。
卓の端では、獅子王のメダルが火を映して揺れる。揺れは次第に小さくなり、やがて静かに止まった。
三つの視線はそこで重なった。次へ進むために、もはや合図はいらなかった。
*
その夜、ネイは眠ることができなかった。
マリー女王襲撃事件は、オスカー・ランブラーと、あの偽アルザスの首謀と見てよいだろう。目的はおそらく、戦争の扇動だ。
アンブラージュとベルノアが停戦に向かえば、オスカーの事業は損なわれる。もし彼が武器を扱う側の人間であったなら、あの行動にも、あの言葉にも理が通る。
――平和になれば救われる者がいる。だが、その底で苦しむ者がいることも忘れるなよ。
あの言葉は、己の商いを正当化する理屈でもあったのだろう。この件は、おそらく解決に近い。
だが、獅子王戦死の件は違う。
あれはベルノアの仕業ではない。護衛に就いていた特務隊の色が濃い。ソレイユ殿下が率い、あのベロニカが所属する精鋭部隊。そしてグラーフ公。
では、目的は何か。
王権そのものが狙いなら、女王陛下も暗殺するはずだ。だがグラーフ公は、いま摂政として女王を補佐している。
――補佐。摂政。
まさか……マリーを玉座に据えたまま、その背後から王権を操るためなのか。
まだ断定はできない。だが、見えてきた輪郭はあまりにも不穏だった。
そして――最大の謎、デラヴイユ王国。
亡国となったはずのその国の人間が、たしかに存在していた。
リディア・バイアーンゴルト。そして最高科学技術者兼宰相、ギュスターヴ・バイアーンゴルト。
最低でも二人いる。それだけで、亡国は亡国のままではいられない。
リディアが言った。
“事情を説明します”――と。
ならば、確かめなければならない。誰かが語る真相ではなく、自分の目で、自分の足で。
ネイは寝台の上で目を開けたまま、長く息を吐いた。
向かうべき場所は、もう心の中で決まっていた。
*
宿を出ると、朝の光がローンズベリーを眩く照らしていた。
「ローザ」
ネイはふいに彼女を呼んだ。
「何?」
ローザは振り返り、ネイの顔を見ると表情を変えた。
「俺は、確かめなければならないことがある。だが、歩みそのものは止めたくない」
ネイは懐から、ベルノア王の書簡を取り出した。
「ベルノアの書簡を、お前に託したい。マリー女王陛下へ届けてくれ。お前になら託せる」
ローザは一瞬だけ黙った。
「……分かった。必ずお渡しする」
静かに、しかし迷いなく、彼女は二つを受け取った。
メグもまた、ネイを見上げる。
「ネイ様も。どうか、ご無事で」
ネイは頷いた。
「お前たちは先に行ってくれ」
ローザとメグが頷くと、踵を返してアンブラージュ方面の街道へ歩みだす。ネイはその背が見えなくなるまで、ただ黙って見送った。
物陰から、その姿を見つめる巡礼僧がいた。
特務隊所属、ベロニカ・アーノット。
彼女はローザたちには目もくれず、ただ、ネイの背を見ていた。やがて灰の法衣がかすかに揺れ、音もなく、その後を追う。
雲は高く、旗は新しい風を掴んでいた。
ネイは空を見上げる。胸の鼓動が、ひどく鮮明に響く。
沈黙の王国は、何を語るのか。
満月が残る北の空には、淡い緑の極光が、薄く、微かに広がっていた。
それはまるで、死したはずの国が、なお空の向こうで息をしているかのようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
これで第二章が完結です!
次章は【真相】編となります。ネタバレ編となります。
気になった方は是非!プロローグから読んでいただけますと幸いです!




