第34話 穢れた者
夜の街道は、逃げる者にだけ長かった。
ベルイシスを抜けた先、ローンズベリーへ通じる外れ道は、崩れた石垣と低い灌木に挟まれ、月明かりの届き方までまだらだった。海から上がってくる湿った風が草の穂先を撫でるたび、白く乾いた土の匂いが浮き上がる。
ネイは先頭を走っていた。
耳は、夜を裂く靴音だけを拾っている。前を行く影はひとつ。赤い外套。その揺れ方が、さきほどまでとは違っていた。
「……膝を痛めてるみたいだわ」
ローザが低く言う。
月の薄光を受けた足跡は、片側だけ深い。踏み込んだ土が抉れ、次の一歩がわずかに流れている。走り慣れた者の足取りではない。痛みを庇いながら、それでも速度を落とすまいとする足跡だった。
「追いつける」
メグが息を整えながら言った。背の弓に差した矢羽が、走るたび小さく鳴る。
前方で赤い影が石段を踏み外しかけ、すぐに体勢を立て直した。
ネイの目が細くなる。
「この先で詰める。開けた場所へ出たら左右に散れ。退路を消す」
「了解!」
「はい!」
道はやがて、古い見張り台の跡へと開けた。石組みは半ば崩れ、中央にはかつて火を焚いた円形の窪みが残っている。周囲を低木と割れた石垣が囲み、夜の空だけがそこへ落ちていた。
アルザスは、そこでようやく足を止めた。
振り返る。
月下でも、その立ち方だけは崩れない。膝を痛めているはずなのに、上体はまっすぐで、視線にも揺らぎがない。逃げ切れぬと悟った者の顔ではなかった。
「しつこい奴らだな」
低い声だった。だが、その底にあるのは疲労ではなく、なお戦える者の余裕だ。
ネイは剣を抜いた。ローザが左へ、メグが後方の斜面側へ散る。
「逃げ場はない」
「そのようだ」
アルザスは口元だけで笑うと、剣を鞘からゆっくりと引き抜き、構えた。
一歩、踏み込む。
その瞬間、ネイの剣が閃いた。
速い。真正面から斬りかかり、アルザスは咄嗟に受ける。火花が散った。受けの形は鋭い。だが、その直後の踏み替えが半拍遅れる。やはり膝にきている。
ネイは追う。
二撃、三撃。いずれも急所は外している。肩、手首、得物、足運び。殺すための剣ではない。だが容赦もない。戦えなくするための最短だけが、月明かりの下へ次々と打ち込まれていく。
アルザスは捌く。受け流し、刃筋を逸らし、ときに身体ごと沈めてかわす。英雄アルザスと呼ばれたその技量は確かだった。
だが、押されている。
踏み込みの重さが違う。次の一手へ繋ぐ速さが違う。膝を庇うアルザスに対し、ネイの剣は迷いなく前へ出る。打ち合うたび、アルザスの足元の土が深く削れていった。
「っ……!」
アルザスが体勢を崩しかける。その脇へローザが斬り込んだ。
青白い刃が月光を切って横薙ぎに走る。アルザスは受ける。だが、ネイとの打ち合いで鈍った腕には重すぎた。剣が弾かれ、足が半歩ずれる。
そこへメグの矢が飛ぶ。
喉元ではない。肩口でもない。外套の端を縫い留めるような、動きを縛るための射だ。アルザスは身を捻ってかわすが、その回避でさらに膝へ負荷がかかった。
「く、そ……!」
初めて、はっきりと苛立ちが滲んだ。
ネイは見逃さない。
「終わりだ」
踏み込む。剣先は胸ではなく、利き腕の内へ。武器を落とさせる軌道だった。
アルザスは弾く。だが、その返しが浅い。ネイは身体を捻って流し、肩でぶつかる。骨が鳴るほどの衝撃。アルザスが後退する。さらにローザが間を詰め、足払い気味に下段を走らせた。アルザスは飛べない。痛む膝が、それを許さない。
剣戟はなお続いた。
鋭い金属音が連続して鳴る。ネイが前を制し、ローザが側面を削り、メグの矢が逃げ道を狭める。三人の呼吸は合っていた。小隊としての動きが、殺さぬための檻を作っていく。
アルザスの目が、そこで初めて変わった。
――こいつら、不殺の剣か。
気づいた瞬間、アルザスの戦い方が変わった。
受けが雑になる。だが、その雑さは崩れではない。隙を見せて、こちらのためらいを誘う捨て身の形だ。
アルザスはネイの刃をわざと肩で受け、痛みごと懐へ踏み込んだ。ネイが驚いた表情を見せて、一歩後ろへ引く。殺されないと知った者だけが選べる、無茶な前進だった。
次の瞬間、その手が地を蹴って斜め後ろへ回り込む。
狙いは、剣を持たぬメグだった。
「――っ!」
メグが弓を持ち直すより早く、アルザスの腕がその首元へ回った。短剣が抜かれ、刃が白い喉へぴたりと当てられる。
「動くな」
低い声だった。だが先ほどまでとは違う。追い詰められた獣の息が混じっている。
ネイとローザが同時に止まる。
メグの肩が強張る。けれど悲鳴は上げない。唇をきつく引き結び、呼吸だけを浅く整えていた。
「離せ」
ネイの声は低く沈んだ。怒鳴れば事態が悪化することを、身体が理解している。
「離してほしければ、剣を捨てろ」
アルザスは笑った。だがその笑みは、もはや最初の余裕ではなかった。追い詰められた末に掴んだ、最後の藁だ。
「やはりな。貴様ら、本当に殺せんのだな」
ローザの目が細くなる。
「それがどうしたの」
「どうもしないさ。甘いと思っただけだ」
刃が、メグの喉へわずかに沈む。皮膚が薄く裂け、赤い筋がひとつ浮いた。
ネイの呼吸が止まりかけた。
「ネイ様……」
メグが絞るように声を出す。震えている。だが、折れてはいない。
月明かりの下、時間だけが異様に薄く引き延ばされる。
ネイは剣を捨てた。ローザもまた、目を見開いたまま同じように剣を落とす。
――アルザスは、どう動く。
そう思った、そのときだった。
アルザスの身体が、ふいに強張った。喉の奥で、空気が潰れるような音がした。短剣がかすかに揺れる。メグの目が見開かれる。
次の瞬間、アルザスはゆっくりと膝から崩れ落ちた。
「……え?」
メグが解放され、よろめきながら前へ転がる。ローザが即座に駆け寄って抱き留めた。ネイは剣を構えたまま、倒れたアルザスの背後の暗闇を見る。
そこに、黒髪の女が立っていた。
巡礼僧の灰色の法衣。だが、その裾は夜気にも揺れない。手には細身の刃。月光を受けたその刃先から、血が一筋だけ落ちた。
ローザの顔色が変わる。
「……ベロニカ」
呼びかけは、昔の名を確かめるように静かだった。
女――ベロニカは、ゆっくりとローザへ目を向けた。
その目だった。幼い記憶の底に沈んでいた、あの静かな黒い目。けれどそこに、再会の温もりはない。驚きも、懐かしさもない。ただ、任務の途中で障害物を見るような冷たい静けさだけがあった。
ローザは一歩、前へ出る。
「ベロニカ……本当に、あなたなの」
返事はない。
メグは喉元を押さえながら息を整え、ネイは倒れているアルザスへ一瞬だけ目を落とした。背から深く刺された傷。助からない深さだった。思わず唾を飲み込む。
ネイの声が、低く落ちる。
「なぜ、アルザスを殺した」
ベロニカはネイを見た。
その声は平坦だった。感情が削ぎ落とされすぎて、かえって底知れない。
「こいつはアルザス様ではない」
一拍。
「英雄アルザス様の名を騙った、穢れた者だ」
夜の空気が、凍る。
ローザの指先が、わずかに震える。メグも息を呑み、ネイは目を細めた。
偽りの名。
英雄の名を騙る者。
そして、それを“穢れ”と断じる女。
風が吹き抜け、倒れたアルザスの赤い外套の裾をわずかに揺らした。
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