第33話 不殺の制圧
無事でいてくれ――その思いは、もはや祈りに近かった。
扉が破られる轟音がベルイシスの石壁を震わせ、ついで盾縁が床石を噛む重い擦過音が続く。ベルノア兵の盾列は先んじて“部屋の輪郭”そのものへ踏み込み、そこに潜んでいた闇の形を押し潰していった。
灯は乏しい。油の匂いが濃い。倉庫の湿りと、帳場に染みついた古紙の匂いが混じり、息をするたび喉の奥へ粘りつく。
「前へ! 不殺徹底!」
ネイの低い号令が走る。盾が一斉に角度を変え、狭い室内で壁となり、楔となった。黒装束が振り向くより早く、制圧の手順が始まる。膝、肘、手首――致命を避け、動きだけを奪うための打撃。盾の角が脛を刈り、棒が肘を折り曲げ、床へ崩れた背へ膝が落ちる。呻きが上がる。
一人が腰を捻り、短剣を抜こうとした。次の瞬間、盾縁がその手首へ横薙ぎに入る。骨が鳴るほどの衝撃。短剣が床へ転がり、銀貨のような乾いた音を立てた。その音が響くたび、抵抗の意思が削られていく。
縄が飛び、鉄輪が嵌まり、黒装束が次々と床へ伏せられる。拘束具を携えた兵たちは、乱れなく関節の角度を定め、反抗の余地だけを削ぎ落としていった。
ネイもまた、一人の腕を斬らずに制した。剣の腹で手首を打ち、柄で肋を押し、体重を預けて武器を床へ滑らせる。
不殺の剣。
それが今、この場を制圧していた。
「逃げるぞ!」
奥から声が飛ぶ。焦りを装いながら、その実、退路へ滑り込もうとする者の声。ネイが顔を上げた、その瞬間だった。
アルザスがいた。
灰色の灯の下、赤い外套だけが妙に鮮やかに見える。彼は戦況を一目で量り終えていた。黒装束の数、盾列の厚み、裏口の気配、こちらの動線――そのすべてを見切ったうえで、わずかに口元を歪める。
「潮時か」
低く呟くと、アルザスは最も近くにいた黒装束の肩を掴み、盾列へ向けて強引に突き飛ばした。
「ぐっ!」
仲間を盾にされた一瞬、兵の手順がわずかに遅れる。その隙にアルザスは帳場の卓を蹴り上げた。重い木卓が横倒しに飛び、帳簿と燭台が宙へ舞う。炎が散り、油が床を走る。
「伏せろ!」
ローザが叫ぶ。
アルザスはその混乱へ身を滑り込ませ、側壁の窓格子へ踏み込んだ。格子を留める古い金具が悲鳴を上げる。次の瞬間、彼は肩から石枠ごと破り抜けた。外気が一気に流れ込み、夜の潮が室内を裂く。
ネイが追おうとした、その耳へメグの叫びが届く。
「ロッシュ!」
奥の地下倉庫。箱が積まれ、帳簿が散らばり、灯がひとつだけ弱く揺れている。そこにロッシュはいた。柱へ縛られ、口元に血を滲ませ、大腿の布は黒く濡れていた。
「……来てくれた、か」
掠れた声だった。笑おうとして、息が途中で切れる。
ネイの視界が一瞬だけ白くなる。そしてアルザスではなく、ロッシュのもとへ駆けた。
「ロッシュ、しっかりしろ!」
ネイは急いで柱を縛る縄を断つ。崩れ落ちかけた身体を支えた瞬間、その軽さが胸へ鈍く突き刺さった。
「ああ、生きてるぜ」
ロッシュは朧げに目を開け、ゆっくりと親指を立てる。
「メグ! 止血を! 腿だ!」
メグは即座に膝をつき、包帯と止血帯を取り出した。手は震えている。だが手順は狂わない。
「出血が多いです。血管を傷つけています……圧迫します。動かないで、ロッシュ」
素早く布を巻き、圧をかける。
「余裕だぜ」
ロッシュは歯を見せた。強がりが、今は意識を繋ぐ。
その傍らで、ベルノア兵に囲まれた男がひとり、なお余裕を崩さず立っていた。オスカー・ランブラー。上質な外套。怠そうな肩。だが目だけが、刃のように冷たい。
「私が、何かしたか?」
丁寧な声音だった。だが、その内側は氷のように冷えている。
ネイは懐から指示書を取り出し、灯の下へ掲げた。
「このベルノア爆破の指示書は、クランベリーで落とされたものだ。そして、あなたはベルノアの事件に関わった黒装束と同じ部屋にいる。状況証拠としては十分だ」
「紙切れ一枚で、随分と乱暴だな」
「乱暴なのは、街を爆破した側だ」
オスカーの煽りに、ネイは一歩も引かなかった。ベルノア兵が前へ出る。
「ベルノア爆破事件の容疑者として拘束する。抵抗は控えよ」
オスカーは笑いを漏らした。
「……まあ、よかろう」
縄がその腕へ回り、鉄輪が嵌まる。彼は抵抗しない。ただ、ネイだけを見ていた。
「若造。なぜベルノアで爆破が起きたか――分かるか」
オスカーがネイへ目を向ける。
「戦争の扇動だろう。平和を脅かす存在は排除する」
ネイは平然と言い放つ。
「綺麗事を。お前は秤の片側しか見ていない。この世界は闇によって均衡が保たれている」
何かを示唆するような言葉に、ネイは眉をわずかに動かす。
「平和になれば救われる者がいる。だが、その底で苦しむ者がいることも忘れるなよ」
詭弁とも取れるオスカーの言葉に、ネイは表情をわずかに歪ませた。
*
担架が運ばれ、ロッシュが慎重に乗せられる。メグが止血帯を確かめ、顔を上げた。
「このままでは旅は無理です。縫合と安静が必要です」
すると、兵が寄ってくる。
「ベルノアに縫合の名医がおります。馬車で搬送しましょう」
ネイが頷くと、ロッシュは担架の上で喉を鳴らした。
「……役に立てたか」
掠れた声だった。
「当たり前だ」
ネイは担架の縁へ手を置く。強く握れば震えが伝わる。だから、軽く触れるだけにした。
ロッシュの口角が、痛みの中でかすかに上がる。
「……なら、よかった」
ベルノア兵が馬車を呼び寄せる。車輪が石畳を鳴らし、御者が担架を受け取った。積み込まれる際、ロッシュの顔がわずかに歪む。だが声は上げない。
馬車の扉が閉まる。乾いた音が、別れのように響いた。
そのとき、門のほうから兵が駆けてきた。顔色が変わっている。
「報告! 門の衛兵二名が倒されています! 外傷は少ないが、顎と喉を正確に打たれて失神――」
ネイの目が鋭くなる。
「アルザスか……」
ローザはすでに街路の先を見ていた。視線が夜の坂道を裂く。
「強引に門を抜いたのね。まだ遠くへは行けない」
メグの目が鋭く光る。
「追いましょう!」
ネイは頷いた。
ベルイシスの夜はなお動いている。水路の軋み、遠い鐘、潮の匂い。そのすべての先に、赤い外套の残像がある。
「行くぞ」
ネイが低く告げる。ローザが無言で並び、メグが短く息を整える。
馬車はベルノアの名医のもとへロッシュを運び、三人はローンズベリー方面へと踏み込んだ。
ベルイシスを抜けた、赤い外套のアルザスを追って。
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