第32話 血の道が導く先
ロッシュが戻らない――焦りがネイの胸を締めつける。
「……遅い」
口にした瞬間、自分でその言葉を嫌った。
必ず戻れ、と言ったのは自分だ。約束を投げたのも、その約束を胸の奥へ棘のように刺したのも、他ならぬ自分だった。
ローザは封鎖線の外れ、石段の角を見上げている。街の線を読む視線は平静を装っていたが、瞬きの間隔だけがわずかに短い。
メグは灯の陰で、念のために包帯と止血帯を整えていた。指の震えは隠しきれない。けれど手だけは止めない。布の擦れる小さな音が絶え間なく続き、薬草の匂いが不安の輪郭を薄く覆っていく。
ベルノア兵の小隊長が近づき、礼を崩さぬまま敬礼した。
「封鎖状況、報告いたします」
ネイは姿勢を正し、声を硬く整える。
「合図があるまで、通行を止めていただけますか」
「門と水路側、双方を押さえています。裏の回廊にも見張りを置きました」
「恐れ入ります」
ネイは短く頭を下げ、続ける。
「負傷者が出た場合の搬送路も確保していただきたい。――こちらの合図があるまで、突入は待機で」
「担架を二つ、門内に待機させます。合図があれば、直ちに動けるよう整えておきます」
――何が起きた。
遠く倉庫街の鐘がひとつ鳴っても、ロッシュの足音は戻らない。
火皿の炭がひとつ弾け、砂時計が落ちるように時間だけが過ぎていく。
*
礼拝堂の裏は、日が届かぬぶんだけ古い匂いが濃かった。
欠けた聖印。乾いた蝋。埃に混じる薄い香。祈りの残骸が石に貼りつき、風が抜けるたび、ひやりと剥がれていく。
ロッシュは壁を背に、黒装束たち、そしてアルザスを見つめる。石壁の冷たさが背骨へ染み込み、息を吸うたび、その冷えが遅れて痛みに変わった。
「屋根の上で何をしていた」
黒装束のひとりが言った。声は荒い。だが言葉の運びは妙に整っている。躾けられた荒さだった。
「猫とじゃれていただけさ」
ロッシュは笑う代わりに、唇をわずかに湿らせた。
その直後、黒装束の拳が頬を打った。
星が散る。だが倒れない。倒れたら、起き上がる間に終わる。舌の端に血が滲み、鉄の味が広がった。
「ふざけるな」
「へへ、ふざけちゃ悪いのかよ」
相手の苛立ちが空気に染みる。尋問は答えを引き出すためではない。線を断つためのものだ。ロッシュはそこだけを確信していた。
ならば、口を閉じる“間”を選ぶしかない。間は武器だ。時間を稼ぐ刃だ。隙を探るための、最後の細い命綱だった。
するとアルザスが、薄い笑みを浮かべたまま歩み寄ってきた。
「ひとまず、走れなくさせるとしよう」
一歩、近づく。ロッシュは身を捻る。だが、その動きより先に、アルザスの足がロッシュの支えを払った。重心が崩れ、石の冷たさが背へ叩きつけられる。
次の衝撃は、骨ではなく肉へ来た。
腿の奥へ楔を打ち込むような、鈍く重い痛み。息が喉で詰まり、声が形になる前に歯が噛み合う。剣が刺さっている――殺さず、逃がさず、ただ奪うための深さで。
熱が太腿の内側で脈打ち、指先にまで震えが走った。
ロッシュは呻きを呑み込み、掌を石へ押しつける。指の腹が砂粒を噛む。視界の端で、礼拝堂の壁を這う蔦が揺れていた。揺れているのに、自分だけが動けない。
――ここで終わるわけにはいかねえ。
懐を探られる気配が来る、その前に。ロッシュは外套の裏へ指を滑らせた。小さな袋に詰めた少量の火薬。用途はただひとつ、合図のためだ。
親指で布を裂き、粉を石陰へ落とし、すぐに火打ち金を擦る。
――そして。
乾いた破裂音。
煙が一瞬だけ噴き、礼拝堂裏の空気を白く裂いた。
「何だ!?」
アルザスがわずかに目を見開き、黒装束たちの呼吸も乱れる。ロッシュは痛む腿を抱えたまま、わざと口端を歪めた。
「これしきのことでビビるとは、英雄さんも大したことねえな」
アルザスの目が、そこで初めて怒りへ変わる。次の瞬間、拳がロッシュの腹へめり込んだ。息が抜ける。視界が揺れる。だが煙はもう十分だった。
あの一発が、街のどこかで――仲間たちの耳に届くなら。
「連れて行くぞ」
アルザスが命じた。指図する声の向きが変わる。ここで終わらせるのではなく、移す気だ。
ロッシュは引きずられながら、唇の内側を噛んだ。血の味がする。血は道になる。石の上に擦れた赤が、細い線を引いていく。
この血の道が、ネイを呼ぶはずだと。ロッシュはそれだけを、痛みの底で祈った。
*
乾いた破裂音が、遠くの石壁に当たり、二度、三度と跳ねて戻ってきた。
ネイは反射で顔を上げた。耳の奥が先に震える。音は短い。だが“街が鳴った”種類の音だった。――意図のある破裂だと、身体が先に結論を出す。
ローザはすでに動いていた。封鎖線の隙間から街の奥を見やり、足先をわずかに回す。風の通りを測るように鼻で息を吸い、石段の反響の向きを拾う。
「あそこだ!」
ローザの確信が、指先の方向に示される。ネイは頷いた。
「小隊長殿」
ネイはすぐ隣のベルノア兵へ向き直る。
「封鎖は維持のままで頼みます。こちらは少数で突入します」
小隊長は一瞬だけ眉を動かし、すぐに整えた。
「了解。封鎖は維持します。こちらから盾列を四、拘束具を携行する者を六、同行させます。負傷者搬送路も、門内から確保いたします」
「恐れ入ります」
ネイはなおも礼を崩さない。
ローザが先導し、狭い石段へ入る。メグは薬嚢を抱えて続く。ベルノア兵の盾が後ろを固め、足音の重みが街の腹へ沈んでいく。
二つ目の角を曲がったとき、石畳に暗い点があった。血だ。新しい。点は続き、途切れ、また続く。切れ目は、引きずられた身体が一度持ち上げられた証だった。
メグがしゃがみ込み、指先を近づける。
「新しいです。滴り方が……走りながらじゃない。引きずられています。血量が多い……」
ネイの胸の奥で、何かが硬く鳴った。“必ず戻れ”。あの言葉の裏側が、いま血になって石に残っている。
「急ぐぞ!」
ネイは短く言った。命令の形にしなければ、声が震えた。
血痕はやがて、古い帳場跡のような建物の裏口へ収束した。扉の下に薄い血の筋。壁に擦れた跡。縄の繊維がいくつか落ちている。
「ここだ」
ネイの声が低く落ちる。“逃げ場なし”――それは追われる者の言葉ではない。追い詰める側の言葉へ、ここで反転する。この扉の向こうに、ロッシュがいる。そう考えた瞬間、喉の奥が自然と乾く。
ネイは扉を見たまま、ベルノア兵に告げる。
「出口封鎖を優先にお願いいたします。裏口、抜け道、水路側――すべてです。中にいる者は不殺で拘束してください。それと、負傷者がいる可能性が高い。突入後、医療班が通れる道だけは開けてください」
「了解」
兵は即座に手を振り、盾列を二手に分ける。ひとつは入口へ、ひとつは裏の回廊へ。縄と鉄輪を持つ兵が後ろへ回る。水路側には槍ではなく、鉤と綱が渡される。逃げ道を“殺さず”に塞ぐための、手順ある封鎖だった。
ローザが耳を澄まし、指を二本立てる。
「奥に……人の気配。怒鳴り声。――ロッシュがいる」
ネイは一度だけ目を閉じた。祈りではない。確認だ。自分の剣が、どこへ向くべきかの。
――守るために抜く。迷宮の喉を、こちらから裂く。
「行くぞ」
扉の向こうで、怒鳴り声が石壁に噛みついていた。
不殺の封鎖――その“手順”の第一歩を、ネイは守るために踏み抜いた。
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