第31話 迷宮都市の追跡者
商業都市ベルイシスは、まるで迷宮だった。
石段が斜面を縫い、二本の川が海へ注ぐ手前で、街は水を針にして布を綴じるように水路を走らせている。赤茶の屋根、白灰の壁、穹窿を描く石橋。家々の窓と窓のあいだには、細い影が幾筋も落ちていた。
川面には荷船の帆影が滑り、倉庫街の鐘が時を打つたび、石と水が同時に息をする。表通りには商会の紋章を刻んだ石柱が並び、その脇には、人ひとりがやっと抜けられるほどの狭い通路がいくつも口を開けていた。
干し魚と香草、焦げた油、潮を吸った縄の匂い。石畳を擦る靴音、樽の転がる低い響き、帳簿を閉じる乾いた音。笑い声と罵声の隙間を、海からの湿りだけが細く縫っていく。
ベルイシスは“動く街”だった。荷が運ばれ、金が巡り、噂が沈殿する。
ネイは胸の内ポケットの紙を、指先でそっと確かめた。クランベリーで拾った指示書。荒い筆跡。塩と煤の匂い。乾いた泥のついた折り目。
「……複雑な作りをしてやがる」
ロッシュが息を漏らした。視線の先で石段が分かれ、橋が重なり、通りは曲がるたび別の顔を見せる。見えているのに、先が読めない。
「まるで迷路ね」
ローザは短く返した。だが、その目はすでに橋脚の影、路地の入口、窓格子の位置まで読み取っている。
「隠れるには最適な作りですね」
メグが小さく言う。声には、警戒の硬さがあった。
ネイは静かに頷いた。
「だからこそ、潜伏場所に選んだんだろうな」
その直後だった。
市場の人波の向こうを、黒装束が三人、数歩の間を空けて連なって進んでいく。武器は見えない。だが肩の張り、足運び、視線の置き方が“民”ではない。雑踏を盾にする癖が、身体に深く染みついている。
「……奴らだ」
ロッシュが囁く。
「三人か」
ネイは目線だけで追った。
「先に何人かいる。合流点があるはずだ」
ロッシュの声が低くなる。勘ではなく、癖を読む者の声だった。
「接触はしない。まず“行き先”を掴むぞ」
ネイは即座に決めた。
「尾行は俺にやらせてくれ」
ロッシュが半歩前へ出る。ネイは反射的に言う。
「一人では危険だ」
ロッシュは珍しく真面目な顔を崩さなかった。
「四人で動けば目立つ。俺一人なら風景に紛れられる。……見られるのは、俺だけでいい」
ローザが何か言いかけ、結局は飲み込んだ。反対はできる。だが、代わりに最も目立たず流れへ溶け込めるのもロッシュだった。
メグが不安げに外套の縫い目をなぞる。ロッシュはその目を正面から受けたまま、静かに言った。
「正直、今の俺は皆の役に立ってねえ。仕事をさせてくれ」
ネイは短く息を吐いた。
「……必ず戻れ。危険と思えば、迷わず戻れ」
命令であり、祈りでもあった。
「合流は街の入口だ。俺たちは兵に援護を要請して、門周りを押さえる」
「了解」
ロッシュは尾行の邪魔になる盾を外し、ローザへ渡した。
「持っておいてくれ」
ローザはそれを受け取り、しばし盾を見つめたのち、薄く笑った。
「必ず戻って。でないと、この盾、捨てるわよ」
「そりゃ困るわ」
ロッシュは鼻を掻いた。
「頼んだぞ」
ネイが肩を軽く叩くと、ロッシュは黒装束の影を追い、雑踏の奥へ溶けていった。
*
ベルイシスの裏側は、表の顔より古かった。
洗われ続けた石段は丸く削れ、家々は肩を寄せ合い、窓から垂れる洗濯物が空を細く切り取る。川沿いの回廊は薄暗く、水音に紛れて気配が消える。この街の道は、人を守るためにあるようでいて、獲物を追い詰めるためにもある。道を知る者にとって、逃げ道と罠は同じ顔をしていた。
ロッシュは呼吸を浅くする。追うのではない。同じ速さで歩く。真正面では見ない。銅鍋の反射、窓硝子の角度、川面の揺れに視線を預けて、見る。
子どもが走れば、その影に紛れる。荷車が止まれば、自分も止まる。追跡は“意思”が見えた瞬間に終わる。だから意思を消す。
黒装束は倉庫街を抜け、石段を折れ、やがて古い商会所の裏手へ回り込んだ。正面は客用の門。裏手は荷口。石壁沿いに細い階段が上へ伸び、低い屋根が連なっている。
――上から見られる。
ロッシュは踊り場から倉庫の屋根へ這い上がった。濡れた瓦は滑る。腰を落とし、指先で縁を掴み、音を殺して進む。
上へ出た瞬間、ベルイシスの街が一枚の地図になった。水路の銀、石壁の白、屋根の赤。高所の風は冷たく、耳の奥で海が鳴る。
見下ろした中庭に、黒装束が三人並んでいた。やがて奥の扉が開く。
現れた影を見た瞬間、ロッシュの背中から体温が引いた。
赤い外套。群衆の中でも、戦場の只中でも、曖昧にならない立ち方。一歩引いているのに、その場の芯がそこへ寄る。
――アルザス。
見間違えるはずがなかった。
黒装束のひとりが頭を垂れる。
「クランベリーでは、何とか撒けました」
アルザスは口元だけで笑った。
「指示書は」
「申し訳ございません。逃走の際に落としました」
一拍の沈黙。だがアルザスは怒りもしない。ただ細く目を眇めただけだった。
「仕方ない。何が起きるかわからん。監視を怠るなよ」
その声は低く、乾いていた。怒鳴りもしない。だが、その静けさがかえって冷たかった。
そのときだった。
屋根瓦の隙間から、灰色の塊が跳び出した。痩せた猫だった。驚いたのは向こうも同じだろう。
だが爪は容赦なく、ロッシュの手首を引っ掻いた。
「いてっ――」
ロッシュは即座に口を押さえたが、遅かった。
中庭の黒装束が、同時に顔を上げる。アルザスがゆっくりとこちらを見上げた。その目だけが、氷のように冷えていた。
「見られたな」
低い一言だった。
ロッシュは屋根の向こうへ転がる。瓦が鳴る。最悪の音だ。次の瞬間、下から怒号が上がった。
「追え!」
迷宮の街が、一斉に“狩り”の場へ切り替わる。
ロッシュは赤茶の屋根を走った。濡れた瓦は足を裏切る。滑れば落ちる。落ちれば終わる。だが止まれば、もっと終わる。
屋根の端で身を翻し、細い路地へ飛び降りた。足首が痺れたが、骨は鳴らない。まだ走れる。
狭い路地。急な石段。曲がり角の連続。背後で靴音が増える。三つ、四つ、五つ。呼吸が追いつく速さで迫ってくる。壁が迫り、空が細い。吸う息のたび、喉の奥が塩辛い。海が、近い。
ロッシュは古い家並みの隙間へ滑り込み、人ひとり分の抜け道を駆け抜けた。石の回廊。低い天井。湿気が肌に貼りつく。
「こっちだ!」
怒号が石壁を打つ。抜けた先は小さな中庭だった。樽、縄、格子窓。逃げ道は三つに見えて、実際は二つ。ひとつは行き止まりの罠だ。
ロッシュは川音のする方へ折れた。
川沿いへ出る。低い石橋。濁った水。左右は高い壁。
逃げ道は一本。
「囲め!」
声が反響し、数が増えたように聞こえる。
ロッシュは歯を食いしばった。
街の迷路に呑まれ、合流地点への道筋が見えない。
――くそ……本当に迷宮だぜ……!
橋を渡りきる寸前、背後で刃が抜かれる音がした。風を裂く気配。身を捻る。刃先が外套の端を掠め、裂けた布が宙に鳴る。
石段を駆け上がる。肺が灼ける。膝が笑いかける。それでも止まれない。
最後の曲がり角を抜けた先は、古い礼拝堂の裏だった。
――行き止まり。
高い壁。塞がれた窓。乾いた蔦。欠けた聖印。風が通るたび、蝋と埃と、消えた祈りの匂いがかすかに漂う。
背後から足音が迫る。刃の擦れる音。荒い息。笑い声。
ロッシュは振り返り、唇を噛んだ。
「誰かと思えば……奇遇だな」
黒装束たちの背後で、アルザスが静かに笑みを浮かばせていた。
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