第30話 救えた命、救われた心
甘い風が、頬を撫でた。
ベルノア王国北部、湖畔の町クランベリー。熟れた赤い果実の香りが空気に溶け、桟橋の干し棚と木組みの倉庫看板が、風を受けてかすかに鳴っていた。水面は薄く金箔を散らしたように光り、その静けさが、かえって町の営みの音を遠くまで運んでいる。
ネイたちは湖門をくぐり、町の中心へと足を進めた。
そのときだった。湖門の陰で、靴音が不意に膨れあがる。追うベルノア兵。その前を逃げる黒装束――ベルノアで爆破事件を起こした残党たちだった。
「止まれ!」
ネイが鋭く叫ぶ。だが逃走者の一人は振り返りもせず、火種を弾き、積み荷の縄を断ち切った。
「どけ!」
乾いた破裂音。
次の瞬間、樽が弾け、油がひと息で燃え上がる。干し棚へ炎の筋が走り、さきほどまで町を満たしていた甘い香りは、たちまち焦げた苦味へと塗り替えられた。
「火だ!」
兵の叫びを合図に、町は悲鳴と足音に呑まれた。炎の列の脇、転がったひとつの樽が、細い路地へ逸れて走っていく。
その先に、小さな影があった。
幼い子どもが、目を見開いたまま立ち尽くしている。熱を知らない目。熱が迫る速さも、まだ知らない目だった。
「あぶない!」
真っ先に飛び込んだのはメグだった。石畳の角を蹴り、最短の線を駆け抜ける。だが次の瞬間、靴底がわずかに滑った。体勢が崩れる。胸の奥が冷たくなる。
――いける!
石の角が靴底を噛む。視界が傾ぐ。
――届かない!?
「――っ!」
その瞬間、ネイはメグを追い越し、地を蹴り、息を捨てる。肩で子どもを抱き寄せる。腕の中へ、やわらかな重みが飛び込んでくる。樽の唸りが、耳の底を削った。
ネイは踵で樽の木肌を蹴り、進路を斜めに折る。
そして、湖に水柱が立った。
白い飛沫が夕の光を裂き、水の冷たさが肺へ突き刺さる。だが、腕の中の重みだけが、現実をたしかなものとして引き留めていた。
ネイは水面を割って浮かび上がり、子どもを抱えたまま岸へ押し戻す。子どもを先に上げ、自らはそのあと這い上がった。濡れた外套は鉛のように重い。
「大丈夫か?」
ネイが子どもを降ろす。頬には煤。睫毛には水。泣き出すかと思えば、子どもは唇をきゅっと噛みしめ、涙を堪えるようにして、こくりと頷いた。
「助かった!」
路地の奥から老人が駆け寄ってくる。背は曲がっている。だが脚は驚くほど速い。孫を抱きしめ、何度も何度も頭を下げた。
火はまだ通りを舐めている。だが、合図さえあれば、人は揃う。
「人命優先、消火に回る! ローザは導線! ロッシュは屋根! メグは桶を回せ!」
ロッシュが盾で人の流れを受け、ローザが井戸へ列を寄せ、メグが桶を繋ぐ。湖から水が汲み上げられ、濡れ布が屋根へ叩きつけられ、燃える音は次第に細っていった。
誰かが座り込み、誰かが天を仰ぐ。湖面は灰を映して鈍く光り、風見鳥がようやくひと息つく。――人の息も、少しずつ戻りはじめていた。
そのときだった。
ロッシュの足元に、風に押されて一枚の紙片が転がってきた。濡れた石畳へ貼りつきかけ、宙に浮くように剥がれ、風に吹かれて裏返る。乱暴に折られた跡がある。
ロッシュは指先でその端を摘み、表を確かめた瞬間、眉をわずかに動かした。
「……これは……段取りが書いてある」
ネイが一歩近づく。ローザとメグも視線を寄せた。紙は半ば焦げている。だが文字は、なお生きていた。
箇条書き。
時刻。
合図。
失敗時の対応。
逃走経路。
そして、末尾に短い一行。
――指示書はベルイシスに持ち帰れ。
ベルノアでの爆破事件。その詳細な計画が、そこには記されていた。
「……ベルイシス……か」
ネイは低く言った。女王陛下襲撃の犯人が口にしていた地名だ。
ローザは地図を広げ、指で道筋を辿る。
「ここ。ここから北へ進んで西……。東に行けば、ローンズベリー」
ネイは指示書を折り目に沿って一度だけ畳み直した。
「オスカーとアルザスが、ベルイシスにいるかもしれない」
そのとき、煤だらけの老人と、先ほど助けた子どもが、何度も礼を言いながら近づいてきた。
「本当に助かった。ありがとうございます」
「……助けてくれて、ありがとう」
二人が礼をし、ネイは穏やかに笑って頭を下げる。
「恩を返させておくれ。日も暮れる。今夜は私の宿へ」
老人の提案に、ネイ一行は素直に従った。
*
宿の名は、赤礁亭。
湖へ突き出した桟橋の根元に建ち、木の梁には紅い果実の彫り飾りが下がっている。外壁は湖風に晒されて白く褪せ、その白の上に、赤い彫りだけが灯のように浮いていた。
扉を開けば、干した香草と燻した板の匂い。天井の梁は太く、古い綱が巻かれ、漁具の浮き玉が飾りとして吊られている。壁には、湖の地図を焼き印で描いた板。囲炉裏には火が落ち、湯気の立つ鍋の中で湖魚が煮えていた。香草を浮かべた澄まし汁。焼いたパンの硬い匂い。奥の棚には、赤い果実酒の瓶が並んでいる。
助けた子どもは、宿の主人の背に隠れたり、そっと覗いたりを繰り返していた。
「今日は……ごめんなさい」
メグが膝を抱え、視線を落とす。
「あんなところで転んで……役に立てなかった」
唇を噛み、目に涙が滲む。ローザが静かに肩へ手を置いた。
「メグ。救えたのだから」
すると子どもが、すっと近づいてきて、メグの手を小さく握った。
「お姉ちゃんが、いちばん先に助けにきてくれた」
「……え?」
「こわかった。でも、お姉ちゃんの姿が見えたとき、大丈夫って思った」
メグの肩が震え、堪えていたものがほどけた。涙は少しだけ。ローザがそっと手巾を差し出し、ロッシュは照れくさそうに鼻をかく。
ネイが言った。
「メグが走らなければ、俺は気づけなかった」
メグは顔を上げる。
「先に動く者が、道になる。――その道を、メグが作ったんだ」
短い言葉だった。だがその一言は、失敗の記憶に覆われかけていた彼女の胸へ、まっすぐ届いた。
ローザもロッシュも、子どもも、主人も、笑顔を見せて頷く。
メグは涙の隙間から笑い、煤の跡を指先で拭うと、小さく頷いた。その笑みはまだ少し幼い。けれど、たしかに強かった。
*
皆が眠りについたあとも、ネイだけは眠れなかった。
椅子に腰かけ、火の残る囲炉裏を眺める。火は小さい。だが、小さな火ほど影をくっきりと作る。
主人が、ネイに歩み寄って言った。
「さきほどのお仲間への言葉。寄り添いの気持ちがこもった、良い言葉でした」
ネイは無言のまま、首を横に振る。
「思い出したことがありましてな。昔、巡礼の途上でここへ寄ったデラヴイユのレオン王子を」
ネイは目を見開き、主人へ視線を向ける。
主人は囲炉裏の火を見つめ、遠い夜をたぐるように続ける。
「浜で喧嘩沙汰がありましてな。暴れる若造に殴られて、客が血を流した。従者のグラウカ殿は、剣を抜こうとした。だがレオン様は――その腕を押さえたんだ」
主人の声が、昔日の光景をまざまざと照らし出していく。
「ここで斬れば、斬ったことしか残らない」
ネイの目が、わずかに開く。
「……そう言って若造に向き直って、静かに聞いた。“あなたの心の痛みは何なのか、教えてほしい”、と」
ネイの胸の奥で、何かが強く鳴った。
「若者の痛みに寄り添おうとしたんでしょうな。すると不思議なもので、その若造は泣きながら謝って、自分のことを話しはじめました。剣より、言葉が効く夜もある、と知りました」
――父は、剣より先に言葉を置く人だった。
ネイは湯飲みを静かに置き、深く頭を下げた。
「……良い話を、ありがとうございました」
主人は屈託のない笑顔で頷く。
「レオン様を思い出せました。礼を言うのは私の方です」
ネイは返事をしなかった。返事の代わりに、胸の王紋を握りしめる。
様々な人の記憶の中でなお生きる、顔も知らぬ父のことを、もっと知りたい。
その思いは、胸の奥に静かに灯っていた。
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