第29話 穏やかな夜、別れの朝
穏やかな時間というものが、久しい感覚だった。
夜の王城の食堂には、祝祭の豪奢ではなく、戦時の実務へ寄せた静かな整いがあった。白石の長卓。燭台の火は高すぎず、影は深すぎない。料理は華やかではないが、どれも温かい。焼いた白身魚、香草の煮込み、硬いパン、果実酒。
――腹を満たすための食事。言葉を交わすための食事。ネイは卓につき、久しく忘れかけていた“仲間のいる食卓”の形を、ひとつずつ思い出していた。
ロッシュは最初こそ王を前に背筋を固くしていたが、酒が一口入ると、いつもの軽さを慎重に取り戻していく。その軽さは無礼ではない。メグは礼儀正しく、しかし目だけは絶えず動いていた。矢を番えぬ代わりに、空気の角度を読む目だ。ローザは静かだった。静かなままネイの横顔を一度だけ見て、すぐに杯へ視線を落とす。
アージェンスが杯を掲げた。
「ベルノアは今夜、君たちに礼を言う」
ロッシュが咳払いをして言う。
「いや、俺らは……たまたま居合わせただけで」
「たまたま居合わせて、“たまたま”守れる人間は少ない」
アージェンスは淡々と返した。褒め言葉に余計な飾りがない。マーガレットが小さく笑う。
話題はやがて街へ移る。水路の話。橋の仕組み。造船湾の職人。記録の保管方法。誰も爆破事件を忘れてはいない。忘れていないからこそ、今ここで口にされるのは生活の話だった。生活の話こそが、守るべきものの輪郭を確かめさせる。
やがて食卓の終わりが近づいた頃、ネイは思い出したように三人へ向けて口を開いた。
「そういえば、言っていなかった。俺はアージェンスに請われ、ベルノア特使としてアンブラージュへ向かう」
「は!? マジかよ、どういうことだ!」
ロッシュが椅子から転げ落ちそうになり、メグが目を丸くする。ローザだけが黙ってネイを見ていた。
「ベルノアはアンブラージュと和平を結ぶ。その橋渡し役として、ネイに頼んだ」
アージェンスは杯を傾けながら、皆に言った。三人は少しだけ驚いた様子を見せる。ネイは三人を順に見渡した。
「……お前たちは、これからどうする」
静かな問いだった。来るか来ないかを決める権利を、仲間に差し出す問いだ。
「どうするって……やっと合流できたってのに」
ロッシュは呆れたように言い、ローザとメグを見る。
「そうです。私たち、“ネイ小隊”ですよ」
メグの声は明るい。けれど、その奥には泣き笑いのような熱があった。
ローザは黙って頷き、それからネイへ視線を向ける。
「小さい頃から常に一緒だった私たちが、ここでまた別れるのは……不条理」
声は静かだった。だが、その想いは強く感じられる。
ネイはわずかに笑みを浮かべ、頷いた。その笑みは“まだ一緒に歩ける”という確認だった。
アージェンスはそのやりとりを、ただ静かに見ていた。どこか羨むような目でもあった。
「なら、ネイだけではなく、君たち“ネイ小隊”全員をベルノア特使として扱おう」
その言葉に、ロッシュが思わず背筋を伸ばす。
「お、お墨付きってやつか……?」
「そうだ。王の名で保証しよう」
アージェンスは穏やかに言った。
マーガレットも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「王のお墨付きを得たな」
穏やかな時間だった。ネイは胸の奥に張っていたものが、わずかにほどけるのを感じながら、小さく息を吐いた。
*
翌朝。
ベルノアの空は高く、運河の銀は昨日より静かだった。街は傷を抱えながらも、秩序へ戻ろうとしている。戻ろうとする力そのものが、この街の強さなのだと分かる。
昨日のアージェンスの言葉通り、ローザ、ロッシュ、メグの三人に真紅の鷲、ベルノア特使の意匠が渡された。
城門前。荷は軽いが、決意と託された書簡は重い。
白い石畳の上で、アージェンスがネイに歩み寄る。王は余計な言葉を持たなかった。ただ真正面から手を差し出す。
ネイもまた、その手を取った。
握手は固い。互いの掌にあるのは、礼でも親愛でもなく、それらをすべて含んだ信頼の証だった。
「託したぞ」
「必ず、届ける」
短い言葉だった。だが、それで足りた。
アージェンスは小さく頷く。王としてではなく、一人の人間として信頼を預けた者の顔だった。
その横で、マーガレットが一歩前に出た。
彼女はネイへ右手を鋭く差し出す。
ネイが握り返すと、その手は思っていたより少しだけ温かかった。
「これまでの護衛……感謝する。ありがとう」
ネイは一瞬だけ目を細める。マーガレットはほんの一瞬だけ強く握った。
「その信条を折るな」
彼女は言う。
「前へ進め。お前の剣が、守るための剣である限り」
そして手を放す。
ネイは胸の奥に、小さく鋭い痛みが走るのを覚えた。別れとは、優しいだけのものではない。互いに別の場所で立つと決めた者同士だけが持てる、静かな痛みだ。
やがてネイ一行は踵を返し、城門の外へ歩み出した。
白い街が、背後へ少しずつ遠ざかっていく。
その背が小さくなる頃、アージェンスが隣のマーガレットへ問う。
「彼について行かなくていいのか」
マーガレットは即座に首を振った。
「私は、あなたの騎士だ」
その答えに迷いはなかった。忠誠というよりも、もっと古くて強いもの――同じ景色を守ると決めた者の言葉のように聞こえた。
アージェンスは目を伏せる。
「だが……君の剣は、彼の信条とよく似ている」
返事はない。頷きにも、否定にも見えなかった。
ただ、その背は動かなかった。動かぬ背が、そのままベルノアの輪郭を守っていた。
そして城門の外へ出たネイの懐で、封蝋の手紙が静かに硬く鳴った。
運河の銀が朝の光を砕き、橋の影が水面に揺れる。ベルノアは傷を抱えながらも、なお整列を続けていた。
ネイは歩みを止めず、一度だけ空を見上げた。
白い雲が流れ、北の方角へ細い線を引いている。
背には、白き水都の静かな祈り。
懐には、ベルノア王の書簡。
胸元には、真紅の証。
そして衣の下には、青い薔薇の王紋。
――向かう先は、アンブラージュ王国。
だが、彼が今、運んでいるのは紙一枚ではない。ベルノアの意志。王の信。戦ではない未来へ橋をかけようとする願いそのものだった。
それでも、ネイの胸の中には、もうひとつの国の名が浮かぶ。
――デラヴイユ王国。
事実を確かめに行かねばならない。
その思いだけは、朝の光の中でもなお、胸の底で冷たく燃えていた。
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