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双貌のローザリア  作者: あかまる
第2章 痕跡

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第29話 穏やかな夜、別れの朝

 穏やかな時間というものが、久しい感覚だった。


 夜の王城の食堂には、祝祭の豪奢ではなく、戦時の実務へ寄せた静かな整いがあった。白石の長卓。燭台の火は高すぎず、影は深すぎない。料理は華やかではないが、どれも温かい。焼いた白身魚、香草の煮込み、硬いパン、果実酒。


 ――腹を満たすための食事。言葉を交わすための食事。ネイは卓につき、久しく忘れかけていた“仲間のいる食卓”の形を、ひとつずつ思い出していた。


 ロッシュは最初こそ王を前に背筋を固くしていたが、酒が一口入ると、いつもの軽さを慎重に取り戻していく。その軽さは無礼ではない。メグは礼儀正しく、しかし目だけは絶えず動いていた。矢を番えぬ代わりに、空気の角度を読む目だ。ローザは静かだった。静かなままネイの横顔を一度だけ見て、すぐに杯へ視線を落とす。


 アージェンスが杯を掲げた。


「ベルノアは今夜、君たちに礼を言う」


 ロッシュが咳払いをして言う。


「いや、俺らは……たまたま居合わせただけで」


「たまたま居合わせて、“たまたま”守れる人間は少ない」


 アージェンスは淡々と返した。褒め言葉に余計な飾りがない。マーガレットが小さく笑う。


 話題はやがて街へ移る。水路の話。橋の仕組み。造船湾の職人。記録の保管方法。誰も爆破事件を忘れてはいない。忘れていないからこそ、今ここで口にされるのは生活の話だった。生活の話こそが、守るべきものの輪郭を確かめさせる。


 やがて食卓の終わりが近づいた頃、ネイは思い出したように三人へ向けて口を開いた。


「そういえば、言っていなかった。俺はアージェンスに請われ、ベルノア特使としてアンブラージュへ向かう」


「は!? マジかよ、どういうことだ!」


 ロッシュが椅子から転げ落ちそうになり、メグが目を丸くする。ローザだけが黙ってネイを見ていた。


「ベルノアはアンブラージュと和平を結ぶ。その橋渡し役として、ネイに頼んだ」


 アージェンスは杯を傾けながら、皆に言った。三人は少しだけ驚いた様子を見せる。ネイは三人を順に見渡した。


「……お前たちは、これからどうする」


 静かな問いだった。来るか来ないかを決める権利を、仲間に差し出す問いだ。


「どうするって……やっと合流できたってのに」


 ロッシュは呆れたように言い、ローザとメグを見る。


「そうです。私たち、“ネイ小隊”ですよ」


 メグの声は明るい。けれど、その奥には泣き笑いのような熱があった。


 ローザは黙って頷き、それからネイへ視線を向ける。


「小さい頃から常に一緒だった私たちが、ここでまた別れるのは……不条理」


 声は静かだった。だが、その想いは強く感じられる。


 ネイはわずかに笑みを浮かべ、頷いた。その笑みは“まだ一緒に歩ける”という確認だった。


 アージェンスはそのやりとりを、ただ静かに見ていた。どこか羨むような目でもあった。


「なら、ネイだけではなく、君たち“ネイ小隊”全員をベルノア特使として扱おう」


 その言葉に、ロッシュが思わず背筋を伸ばす。


「お、お墨付きってやつか……?」


「そうだ。王の名で保証しよう」


 アージェンスは穏やかに言った。


 マーガレットも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「王のお墨付きを得たな」


 穏やかな時間だった。ネイは胸の奥に張っていたものが、わずかにほどけるのを感じながら、小さく息を吐いた。


 *


 翌朝。


 ベルノアの空は高く、運河の銀は昨日より静かだった。街は傷を抱えながらも、秩序へ戻ろうとしている。戻ろうとする力そのものが、この街の強さなのだと分かる。


 昨日のアージェンスの言葉通り、ローザ、ロッシュ、メグの三人に真紅の鷲、ベルノア特使の意匠が渡された。


 城門前。荷は軽いが、決意と託された書簡は重い。


 白い石畳の上で、アージェンスがネイに歩み寄る。王は余計な言葉を持たなかった。ただ真正面から手を差し出す。


 ネイもまた、その手を取った。


 握手は固い。互いの掌にあるのは、礼でも親愛でもなく、それらをすべて含んだ信頼の証だった。


「託したぞ」


「必ず、届ける」


 短い言葉だった。だが、それで足りた。


 アージェンスは小さく頷く。王としてではなく、一人の人間として信頼を預けた者の顔だった。


 その横で、マーガレットが一歩前に出た。


 彼女はネイへ右手を鋭く差し出す。


 ネイが握り返すと、その手は思っていたより少しだけ温かかった。


「これまでの護衛……感謝する。ありがとう」


 ネイは一瞬だけ目を細める。マーガレットはほんの一瞬だけ強く握った。


「その信条を折るな」


 彼女は言う。


「前へ進め。お前の剣が、守るための剣である限り」


 そして手を放す。


 ネイは胸の奥に、小さく鋭い痛みが走るのを覚えた。別れとは、優しいだけのものではない。互いに別の場所で立つと決めた者同士だけが持てる、静かな痛みだ。


 やがてネイ一行は踵を返し、城門の外へ歩み出した。


 白い街が、背後へ少しずつ遠ざかっていく。


 その背が小さくなる頃、アージェンスが隣のマーガレットへ問う。


「彼について行かなくていいのか」


 マーガレットは即座に首を振った。


「私は、あなたの騎士だ」


 その答えに迷いはなかった。忠誠というよりも、もっと古くて強いもの――同じ景色を守ると決めた者の言葉のように聞こえた。


 アージェンスは目を伏せる。


「だが……君の剣は、彼の信条とよく似ている」


 返事はない。頷きにも、否定にも見えなかった。


 ただ、その背は動かなかった。動かぬ背が、そのままベルノアの輪郭を守っていた。


 そして城門の外へ出たネイの懐で、封蝋の手紙が静かに硬く鳴った。


 運河の銀が朝の光を砕き、橋の影が水面に揺れる。ベルノアは傷を抱えながらも、なお整列を続けていた。


 ネイは歩みを止めず、一度だけ空を見上げた。


 白い雲が流れ、北の方角へ細い線を引いている。


 背には、白き水都の静かな祈り。

 懐には、ベルノア王の書簡。

 胸元には、真紅の証。

 そして衣の下には、青い薔薇の王紋。


 ――向かう先は、アンブラージュ王国。


 だが、彼が今、運んでいるのは紙一枚ではない。ベルノアの意志。王の信。戦ではない未来へ橋をかけようとする願いそのものだった。


 それでも、ネイの胸の中には、もうひとつの国の名が浮かぶ。


 ――デラヴイユ王国。


 事実を確かめに行かねばならない。

 その思いだけは、朝の光の中でもなお、胸の底で冷たく燃えていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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