第2話 運命への岐路
祈りの言葉が、胸の奥に熱く灯っていた。
「――どんな形になっても、生き延びろ」
落とされたあの言葉が、いまも魂の深いところを揺さぶり続けている。
ソレイユが踵を返した先では、特務隊がすでに馬を揃えていた。革の鞍が鳴り、金具が短く煌めいている。彼らの動きに迷いはない。号令がなくとも、列は自然に整っていく。
その列の端で、黒髪の女隊士がこちらへ視線を向けていた。
装備の収まりも、手綱さばきも無駄がない。腰の位置、膝の角度、呼吸の長さまで狂いがない。鞘口の布は白く擦れ、幾度の実戦を経た手練れの証を残している。
ローザの視線が女と交わり、ローザの眉が、かすかに動いた。
ほんの一瞬、呼吸が詰まる。
女は何も言わず、列の奥へ消える。ローザはその背を見送ったまま、目を逸らさない。まるで「確かめる」ように――けれど、確信だけが掴めない様子だった。
ネイはローザの異変に気付いたが、あえて問わなかった。問いすぎないことも、この四人の距離感だ。
角笛がひとつ、長く鳴り響く。
鎖の軋む音が空へ昇り、出兵の城門が上がる。装備は門の内で整えられ、やがて行軍が始まった。
*
公国を出た獅帝戦団は北のアンブラージュ城下で、獅子王率いる本軍と合流し――西のローンズベリーへ向かう。
後背の王都の鐘が、遠くで二度鳴った。
列は長い。投石機、補給車、騎兵と歩兵。鉄と革と木の匂いが混じり、吐く息の白さが朝の空気を薄く曇らせる。
馬の蹄が同じ調子で泥を噛み、鎧の金具が細く鳴る。歩調は規律で保たれ、隊列は一本の黒い川のようになった。
「ローンズベリー、遠いな。日が暮れちまうぜ」
ロッシュが欠伸まじりに、気怠そうにぼやく。
「手前のファウンテンで野営の予定だ」
ネイは視線を前に向けたまま、馬上で短く答える。
道を挟んで、メグがぽつりとこぼした。
「……ちゃんと動けるかな。みんなの足を引っ張ったらって思うと、不安になる」
初陣を迎えるその声は、かすかに震えていた。肩が硬く、呼吸が短い。緊張は明らかだ。
隣のローザは前だけを向いたまま、少し間を置いて言う。
「不安なのは普通。私も同じ」
メグは目を瞬かせ、張っていた肩の力を少し抜いた。
ネイはメグへ視線を移し、不安を取り除かんとするように言う。
「人は失敗する。そして失敗を糧に成長する。はじめから完璧な人間なんていない」
言葉を選びながら、さらにひとつ足す。
「……それに、俺たちは失敗を補い合える」
言い切ったあと、その言葉はネイ自身の胸にも落ちた。孤児院の長机。割ったパン。分け合った毛布。あの頃から彼らは、互いの欠けを埋め合って生きてきたのだ。
グロワールの声が、そこへ重なる。
――命令に従いすぎるな。最善を選べ。仲間を守れ。導け。
小隊長とは、指示を待つ者ではない。指示を与え、最善へ連れていく者だ。メグを励ますどころか、自分を奮い立たせているようだった。ネイは、わずかに笑みを浮かべる。
「まあ、大きく構えてろ。俺のこの盾で、お前ら全員守ってやる」
ロッシュが肩を竦める。軽口の調子は崩さない。それでも、その一言には小隊の一員としての覚悟が宿っていた。
メグが小さく笑みを取り戻し、頷く。
ネイは前を向いたまま、静かに言う。
「俺のこの剣は、守るための剣だ。……皆を守ってみせる」
三人が短く頷く。
言葉が、絆の結び目になる。戦の手前で、小隊の結び目は目に見えぬところで結び直されていった。
*
日が傾き、空は茜色に滲んでいた。
森が途切れ、視界がひらける。
風が変わる。土の匂いが薄れ、石と水の匂いが混じった。
そして目の前に広がっていたのは、まるで別世界だった。
夕陽を背に受けた半球の建造物は、砕けてなお月の器のような輪郭を保つ。崩れ落ちた白い支柱と壁面に、赤黒い滲みが残っている。過ぎ去った戦火の記憶だけが、色として貼りついていた。
そこへ巡礼僧の列が、石段の影をゆっくり進んでいく。ここはルクス教の最終巡礼地。
――デラヴイユ王国遺跡。
創世の時代に、ルクス神から祝福という名の叡智を授かり、“神の国”と呼ばれた。その特異な科学技術で栄華を誇りながら、外界との接触を断ち続け、“謎の国”とも囁かれた。そして獅子王率いる軍勢に侵攻され、一夜にして焦土と化した――そう語られている。
けれど眼前の景色は、ただの“亡国”ではないように見えた。
崩れた石の隙間から、低い響きが生まれる。耳を澄ませば、絶えることのない水流の音。滑らかな曲線を描く水路に川が流れ、斜陽を受けて赤く光る。その水脈は血管のように遺跡全体へ広がり、水を通し続けていた。
明らかに死している国が、まだ密かに息をしている。そんな錯覚に、胸の奥がざわつく。
「かぁ……絶景だな」
ロッシュの軽口は、最後だけ少し掠れた。
「初めて見た……すごい」
メグの声が上ずる。畏れと驚きが、同じ息の中に混じっていた。
ローザは無言のままだった。眼差しは遺跡に向いているのに、どこか遠いものを見ている。さっきの黒髪の女隊士を思い出しているようにも見える。
やがて日が沈み、満月が空の支配を奪う。
そのとき、空の一角が薄く緑に震えた。
漆黒に染まりかける夜の上で、細い光の帯がゆっくり流れ始める。淡い緑はほどけるように重なり合い、縫うように広がって、夜の天蓋へ静かな幕を引いていった。
「……きれい」
ローザが呟いた。少女のような眼差しは、孤児院で雪を眺めていた頃の顔に戻っていた。
淡い緑色の極光。
正典の文言が、記憶の底から浮かび上がる。
――帳が下りるとき、人は試されん。
試されるのは、これからだ。
ネイは胸元の装飾を静かに握りしめた。心を鎮めるためではない。決意のためだ。
だがこの時のネイは、気付いていなかった。
自分がすでに、過酷な運命の岐路に足を踏み入れていたことを。




