第27話 真紅の証、橋をかける者
王城の回廊に、三人の足音が静かに響いていた。
アージェンスはネイの半歩前を歩き、振り返らぬまま言った。
「君の仲間には部屋を用意させている。だが――その前に、話しておきたいことがある」
ネイは黙して頷き、歩幅を揃える。背後に控えるマーガレットは、なお一言も発しない。
やがて通されたのは、小ぶりながらも端正な書斎だった。
アージェンスは椅子に腰を下ろさず、窓辺へ歩み寄って街を見下ろす。
「アンブラージュ製の武器……」
アージェンスは、小さく息を吐いた。
「君たちは、あれを見て何を考えた?」
ネイは一拍置き、正直に答える。
「罠の可能性がある」
マーガレットが短く鼻で笑った。
「刻印ほど、偽りやすいものはない」
その言葉に、アージェンスは初めて、ごく微かな笑みを見せた。それは親しみではなく、理解に対する肯定だった。
「その通りだ。――罠だ」
断言は短い。だが、その一語だけで書斎の空気はわずかに沈んだ。
アージェンスは机上の紙束を指先で弾いた。乾いた音がひとつ、白い部屋へ吸われるように消える。
「まずは斥候の報せだ。アンブラージュでの即位式にて、マリー女王は“平和”を宣言した。――それは事実だ」
ネイの胸の奥が、かすかに波立つ。マリーの声。広場を満たした空気。即位の場で目にしたあの光景が、遅れて胸中に重なった。
「その直後に、わざわざ火種を撒くとは考えにくい。しかも、あからさまにアンブラージュ製の剣を残す」
アージェンスは窓外の景色を見たまま、目を細める。
「“疑え”と書いた札を、わざわざ地に突き立てるようなものだ」
マーガレットは目を伏せ、静かに頷いた。
「そこで、君の意見を聞きたい」
アージェンスは窓辺を離れ、ネイへ視線を据えた。
「マリー女王は、どういう人だ」
王の鋭い眼差しに、ネイは息を呑む。
「慈愛を持った方だ。宣言どおり、陛下は平和を望んでいると、俺は思っている」
その答えに、アージェンスは張っていたものをほどくように小さく笑い、同意するように頷いた。
「獅子王の拡張政策で、我が国が被害を受けたのは事実だ。民は私を“小国王”と卑下し、私自身、領土回復に躍起になっていた時期もあった」
彼は一度、目を伏せる。
「……だが、憎悪の連鎖は国を疲弊させる」
ネイは黙って聞く。理屈だけでは消えない思いが、この王にもあるはずだった。それでもなお、この若き王は平和への道を望んでいる。胸の内で、“守るための剣”という言葉が、また違う角度から鳴り始めていた。勝つための剣ではなく、疲弊の連鎖を断ち切るための剣。――それは本当に、剣で成しうることなのかと。
「過去は過去だ」
アージェンスは静かに続ける。
「新しい王が平和を望むのなら――私は平和への橋をかけたい」
そう言って、彼は机の引き出しから一通の書簡を取り出した。
封蝋は鷲。ベルノアの印。
「マリー女王宛の書簡だ」
ネイが目を上げると、アージェンスの視線は真正面から返ってきた。王の目だ。
「君に、私の意志を託したい」
そして王は、言い切った。
「――頼む」
王がその語を用いるのは、よほどの時だ。その一語だけで、ベルノアの矜持が静かに沈む。沈むからこそ、重みはいや増していた。
「なぜ俺に……俺は今や、ただの流浪の人間だ」
ネイが問い返すと、アージェンスは即座に答えた。
「ロサマリアで君に言った言葉を覚えているか」
ネイの脳裏に、アージェンスの言葉が浮かぶ。
――私は今、信頼できる仲間を欲している。君の信条は私に似ている。同志にならないか――
「私の意志を託せる人間を探していた」
アージェンスの言葉が、ネイの胸に深く刺さる。
「はじめはマーガレットからの君への評価だ。こんなことはなかなかない」
マーガレットは目を伏せ、わずかに笑みを浮かべた。
「そして、女王が君を信頼しているとの斥候の報せ。さらに実際に君と会話したことで、私の心は決まった」
アージェンスは真剣な眼差しでネイを見つめる。
「アンブラージュ女王、そしてベルノア王。二人の王から信を置かれている人間は――このローザリアに、ネイ。君以外に存在しない」
ネイは目を見開いた。アージェンスもマーガレットも頷いた。
ネイは書簡を受け取った。封蝋の硬さが掌に触れ、戦場で踏みしめた石の感触を思い起こさせる。
「……分かった。役目を必ず果たす」
アージェンスの肩が、ほんのわずかに落ちた。
だが、王はそこで話を終えなかった。
「もう一つ」
アージェンスは机の脇に置かれていた小箱を開く。中には、赤色の留め具が静かに収められていた。
円ではない。やや縦長の楕円。その表には、真紅の鷲が刻まれている。
「ベルノア特使章だ。流浪の君でこそ、これを託せる」
ネイは息を止める。
アージェンスは留め具を取り上げ、指先で裏面を示した。そこにはベルノアの公印だけでなく、ごく小さく私印が重ねて刻まれていた。表からは見えぬ位置にある、王自身の証だった。
「表は公の証。裏は私の証だ。門、港、詰所、駐屯地――必要な場所でこれを示せば、ベルノアの名のもとに通すよう命じてある」
用心深い王らしい、二重の証だった。
ネイは特使章を見つめる。
「君を、ベルノアの特使として任ずる」
その言葉とともに、アージェンスは一歩近づいた。王自らが、ネイの外套の胸元へ手を伸ばす。
留め具は、音もなく布を噛んだ。
真紅の鷲を刻んだ楕円の意匠が、暗い外套の上にひとつ灯る。
意匠は小さい。だが、その小ささゆえに、かえって重かった。目立つための飾りではない。王意を帯びた者にのみ許される、静かな標だった。
「これより君は、我が意志を運ぶ者だ」
ネイは無意識に、その胸元へ手を当てた。金属は冷たい。だが、その冷たさの奥には、たしかな重みがあった。
ただの戦士ではいられない――そう告げられた気がした。
「……心得た」
返答は短い。だが、その一言には、受け取る覚悟が込められていた。
「今日の事件のことは、どうする」
ネイが問う。
「君は気にしなくていい。自国のことは、自国で片をつける」
アージェンスは机に地図を広げ、赤い印をいくつか置いた。爆破が起きた地点、逃走者が消えた裏路地、荷揚げ場。印が線となり、線が矢のように外へ伸びていく。すでに捜索は動いている。動いているからこそ、その声は落ち着いていた。
「ただ――旅の途中で何か掴めば、知らせてくれ」
アージェンスは薄く笑みを見せた。ネイも静かに頷く。
「君は今の私にとっての“希望”だ。託したぞ」
そう言って、アージェンスは右手を差し出した。ネイはそれを見て、一拍置いたあと、強く握り返す。
若き王の思いは、たしかにネイへ託された。
書簡として。
徽章として。
そして、橋をかけようとする願いそのものとして。
ネイは無言のまま、胸元の真紅の鷲へ触れた。
冷たい金属の感触が、掌へ返ってくる。
それは、もはやただの証ではなかった。
ベルノアの王が、自らの名で託した責務だった。
ベルノアの王が託した書簡。
アンブラージュの女王へ届けるべき願い。
そして、自らの胸に秘めた、青い薔薇の王紋。
交わるはずのなかった二つの印が、今、ひとつの胸の上で重なっている。
真紅と青。
それは敵意の色ではなかった。まだ形を持たぬまま、それでも確かにそこにある、“戦ではない未来”の兆しだった。
その相反する色を抱いたまま、“白”い百合を掲げる国へ橋をかける。
だが、橋をかける者は、ただ剣を振るうだけでは足りない。
守り、運び、届け、そして結ばねばならない。
ネイはゆっくりと顔を上げた。
この手で運ぶのだ。ベルノアの真紅を。アンブラージュへ向かう願いを。その先にあるかもしれない、まだ名もない未来を。
――次に踏み出す一歩は、もはや彼ひとりのものではなかった。
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