第26話 救いの双影
黒装束たちは、ただ数が多いだけの敵ではなかった。
石畳の継ぎ目を踏み分け、倒れた者を盾にも足場にも変え、混乱の流れそのものへ体を滑り込ませる。雑兵の動きではない。実戦を生き延びてきた者の、獣じみた勘があった。
その列の奥から、アルザスが前へ出る。たったそれだけで、戦場の空気が変わった。
悲鳴が遠のく。怒号が鈍る。刃が触れ合う前から、肌の上を冷たい圧だけが這ってきた。
ローザは剣の柄を握り込む。
勝てない――とは思わない。だが、このままでは守り切れない。
敗北の二文字が、脳裏をかすめた。
――その瞬間だった。
白壁の上から、二つの影が降りた。
短槍の穂先が、ほとんど同時に逸れる。何が起きたのか理解するより先に、金属の高い音だけが遅れて耳へ届いた。
ひとつは、まっすぐだった。踏み込みで懐を奪い、刃ではなく柄頭で顎を跳ね上げる。よろめいた敵の手首へ切っ先が落ち、武器だけが石畳へ弾かれた。
もうひとつは、沈むようだった。横合いから滑り込み、腕を取り、関節の向きを変える。力任せではない。暴力ではなく、技そのものが冷たさを帯びて立っていた。
ローザの胸の奥で、その名が鋭く鳴る。
――ネイ!?
「この者たちを制圧する」
マーガレットが言い放つ。
低い声だった。怒鳴りでも威嚇でもない。だが、そのひと言で、場を満たしていた熱が一息で削がれた。
「行くぞ!」
ネイが短く応じる。その一声だけで、張り詰めていた空気がわずかにほどけた。救いは、いつも大声で来るわけではない。
黒装束たちの目が揺れる。初めて、怯みが生まれた。
「何をしている! やれ!」
アルザスが低く喝する。
敵は動く。だが、もう先ほどまでのような揃い方ではない。
ネイは前へ出た。剣は抜いている。だが、人は斬らない。踏み込みで距離を殺し、柄で顎を打ち、肩で崩し、膝で沈める。倒れた相手の手首へ切っ先を置き、すでに次の一人へ移っていた。
「武器を捨てろ」
命令ではない。事実の提示だった。
その間にも、マーガレットは敵列の深みへ静かに沈んでいく。槍は受けずに外し、斧は真正面から止めずに流す。肘が逆らう位置まで追い込み、骨を折れる寸前で止める。
「次に動けば、手を折る。安心しろ。死なせはしない」
静かな宣告だった。それが、かえって怖い。怒りに任せる者より、感情を置いたまま戦う者のほうが、ずっと恐ろしい。
五人が倒れ、三人が武器を落とし、二人が後ずさる。
制圧されたというより、戦う意思そのものを剥がされた顔だった。
アルザスの口元の笑みが、そこで初めて止まる。
彼が見ていたのはネイではない。マーガレットだった。
――だが。
遠くで、ふたたび破裂が鳴った。
今度は小さい。けれど近い。
火薬の匂いが、一拍遅れて鼻へ刺さる。橋の袂で悲鳴が上がり、人波が逆巻いた。逃げる流れと戻る流れがぶつかり、石の街がきしむ。
「別働か!」
ロッシュの声が飛ぶ。ネイとマーガレットが反射的にそちらへ目を向けた、そのわずかな隙だった。
黒装束の一部が散る。橋の裏へ。荷揚げ場へ。白壁の影へ。
統率を失った逃走ではない。最初から刻まれていた退き方だった。
そして、流れるようにアルザスも消える。
人波の切れ目に、赤い外套が一瞬だけ見えた。次の瞬間には、もうない。
「……逃したか」
ネイがそう言いながら、逃走先を遠い目で見つめている。
現場が落ち着いたとき、ようやくローザは息をついた。
手の内が熱い。肩が重い。自分が歯を食いしばっていたことに、そのとき初めて気づく。
ネイが三人へ向き、小さくひとつ頷く。
「ネイ……! やっぱり無事だったか、この野郎!」
ロッシュが弾かれたように駆け寄り、そのまま抱きついた。乱暴に何度も背を叩く手に、隠しようのない安堵が滲んでいる。
「……離れろ。息苦しい。それに痛い」
ネイはそう言いながら、本気では振りほどかなかった。
メグも駆け寄る。目にはうっすら涙が滲んでいる。
「ネイ様……! ご無事で、よかった……」
ネイはほんの少しだけ笑い、メグの頭を一度撫でた。ぎこちない手つきだった。だからこそ、そこに嘘がなかった。
少し離れた場所で、ネイとローザは目が合い、二人は小さく頷く。
それから、ロッシュの視線がネイの隣へ移る。
「……え? ぐ、軍神!? なんでここに」
「今は同志だ」
ネイが短く言う。
マーガレットは最小限の会釈だけを返すと、彼女は地に落ちた剣を拾い上げた。刃を光へ傾け、刻印を確かめる。
「……アンブラージュ製の剣だ」
「なんでそんなもんが、ここに……?」
ロッシュの呟きが終わるより早く、道の向こうで兵たちが左右へ割れた。
その中央を、アージェンスが歩いてくる。
足早だが、走らない。慌ただしさより先に、秩序を連れてくる足取りだった。
「怪我は?」
「問題なし。しかし、残された武器の中に、これが」
マーガレットが剣を差し出す。
「アンブラージュ製……」
アージェンスの眉が、ごくわずかに上がる。
だが、それも一瞬だった。次の瞬間には、もう兵へ指示が飛んでいた。
街が動く。悲鳴は報告へ変わる。報告は命令へ変わる。命令は、散りかけた人の流れをふたたび束ね直していく。
王のいる街は、崩れ切る前に踏みとどまる。
「ベルノア全土に緊急配備の令を敷いた。逃走者を追わせる。だが今は、二次の混乱を抑えるのが先だ」
ロッシュがネイの袖を引き、耳元で囁く。
「ネイ、こ、この方は……」
「ベルノア王だ」
「……本物かよ!?」
ロッシュが腰を抜かしかけ、メグが目を丸くする。ローザもまた、息を呑んだ。
アージェンスはネイの横に立つ三人を見た。
「……なるほど。ネイの“仲間”か」
その声に軽さはない。認めるべきものを認める声音だった。
「礼をさせてほしい。食事と部屋は用意する。この街を救うために動いた君たちを、路上に置いておくわけにはいかない」
ロッシュが「さすが王――」と言いかけて、慌てて飲み込む。メグとローザは小さく頭を下げた。
アージェンスの視線がネイへ戻る。
「ネイ、少し話がしたい。時間をもらえるか」
「ああ」
二人は城へ向かって歩き出す。
白い街路を並んで進む、その背をローザは黙って見送った。
胸の内で、ひとつの線がつながる。
オスカー・ランブラーがアルザスへ言った、「次はベルノア」という言葉。
あれは予告だったのだ。
この爆破は偶然ではない。混乱は起こったのではなく、起こされた。
オスカーが火を撒き、アルザスがその火に道をつけている。
真意は何なのか、明確な答えはまだ見えていない。
白き水都は、今日もなお美しい。だが、その白さの下では、すでに見えない火が走っている。
石の継ぎ目を伝い、運河の陰を抜け、次の場所へ。
まだ煙にもなっていない災いが、たしかにこの街の底を這っていた。
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