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双貌のローザリア  作者: あかまる
第2章 痕跡

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第26話 救いの双影

 黒装束たちは、ただ数が多いだけの敵ではなかった。


 石畳の継ぎ目を踏み分け、倒れた者を盾にも足場にも変え、混乱の流れそのものへ体を滑り込ませる。雑兵の動きではない。実戦を生き延びてきた者の、獣じみた勘があった。


 その列の奥から、アルザスが前へ出る。たったそれだけで、戦場の空気が変わった。


 悲鳴が遠のく。怒号が鈍る。刃が触れ合う前から、肌の上を冷たい圧だけが這ってきた。


 ローザは剣の柄を握り込む。


 勝てない――とは思わない。だが、このままでは守り切れない。


 敗北の二文字が、脳裏をかすめた。


 ――その瞬間だった。


 白壁の上から、二つの影が降りた。


 短槍の穂先が、ほとんど同時に逸れる。何が起きたのか理解するより先に、金属の高い音だけが遅れて耳へ届いた。


 ひとつは、まっすぐだった。踏み込みで懐を奪い、刃ではなく柄頭で顎を跳ね上げる。よろめいた敵の手首へ切っ先が落ち、武器だけが石畳へ弾かれた。


 もうひとつは、沈むようだった。横合いから滑り込み、腕を取り、関節の向きを変える。力任せではない。暴力ではなく、技そのものが冷たさを帯びて立っていた。


 ローザの胸の奥で、その名が鋭く鳴る。


 ――ネイ!?


「この者たちを制圧する」


 マーガレットが言い放つ。


 低い声だった。怒鳴りでも威嚇でもない。だが、そのひと言で、場を満たしていた熱が一息で削がれた。


「行くぞ!」


 ネイが短く応じる。その一声だけで、張り詰めていた空気がわずかにほどけた。救いは、いつも大声で来るわけではない。


 黒装束たちの目が揺れる。初めて、怯みが生まれた。


「何をしている! やれ!」


 アルザスが低く喝する。


 敵は動く。だが、もう先ほどまでのような揃い方ではない。


 ネイは前へ出た。剣は抜いている。だが、人は斬らない。踏み込みで距離を殺し、柄で顎を打ち、肩で崩し、膝で沈める。倒れた相手の手首へ切っ先を置き、すでに次の一人へ移っていた。


「武器を捨てろ」


 命令ではない。事実の提示だった。


 その間にも、マーガレットは敵列の深みへ静かに沈んでいく。槍は受けずに外し、斧は真正面から止めずに流す。肘が逆らう位置まで追い込み、骨を折れる寸前で止める。


「次に動けば、手を折る。安心しろ。死なせはしない」


 静かな宣告だった。それが、かえって怖い。怒りに任せる者より、感情を置いたまま戦う者のほうが、ずっと恐ろしい。


 五人が倒れ、三人が武器を落とし、二人が後ずさる。


 制圧されたというより、戦う意思そのものを剥がされた顔だった。


 アルザスの口元の笑みが、そこで初めて止まる。


 彼が見ていたのはネイではない。マーガレットだった。


 ――だが。


 遠くで、ふたたび破裂が鳴った。


 今度は小さい。けれど近い。


 火薬の匂いが、一拍遅れて鼻へ刺さる。橋の袂で悲鳴が上がり、人波が逆巻いた。逃げる流れと戻る流れがぶつかり、石の街がきしむ。


「別働か!」


 ロッシュの声が飛ぶ。ネイとマーガレットが反射的にそちらへ目を向けた、そのわずかな隙だった。


 黒装束の一部が散る。橋の裏へ。荷揚げ場へ。白壁の影へ。


 統率を失った逃走ではない。最初から刻まれていた退き方だった。


 そして、流れるようにアルザスも消える。


 人波の切れ目に、赤い外套が一瞬だけ見えた。次の瞬間には、もうない。


「……逃したか」


 ネイがそう言いながら、逃走先を遠い目で見つめている。


 現場が落ち着いたとき、ようやくローザは息をついた。


 手の内が熱い。肩が重い。自分が歯を食いしばっていたことに、そのとき初めて気づく。


 ネイが三人へ向き、小さくひとつ頷く。


「ネイ……! やっぱり無事だったか、この野郎!」


 ロッシュが弾かれたように駆け寄り、そのまま抱きついた。乱暴に何度も背を叩く手に、隠しようのない安堵が滲んでいる。


「……離れろ。息苦しい。それに痛い」


 ネイはそう言いながら、本気では振りほどかなかった。


 メグも駆け寄る。目にはうっすら涙が滲んでいる。


「ネイ様……! ご無事で、よかった……」


 ネイはほんの少しだけ笑い、メグの頭を一度撫でた。ぎこちない手つきだった。だからこそ、そこに嘘がなかった。


 少し離れた場所で、ネイとローザは目が合い、二人は小さく頷く。


 それから、ロッシュの視線がネイの隣へ移る。


「……え? ぐ、軍神!? なんでここに」


「今は同志だ」


 ネイが短く言う。


 マーガレットは最小限の会釈だけを返すと、彼女は地に落ちた剣を拾い上げた。刃を光へ傾け、刻印を確かめる。


「……アンブラージュ製の剣だ」


「なんでそんなもんが、ここに……?」


 ロッシュの呟きが終わるより早く、道の向こうで兵たちが左右へ割れた。


 その中央を、アージェンスが歩いてくる。


 足早だが、走らない。慌ただしさより先に、秩序を連れてくる足取りだった。


「怪我は?」


「問題なし。しかし、残された武器の中に、これが」


 マーガレットが剣を差し出す。


「アンブラージュ製……」


 アージェンスの眉が、ごくわずかに上がる。


 だが、それも一瞬だった。次の瞬間には、もう兵へ指示が飛んでいた。


 街が動く。悲鳴は報告へ変わる。報告は命令へ変わる。命令は、散りかけた人の流れをふたたび束ね直していく。


 王のいる街は、崩れ切る前に踏みとどまる。


「ベルノア全土に緊急配備の令を敷いた。逃走者を追わせる。だが今は、二次の混乱を抑えるのが先だ」


 ロッシュがネイの袖を引き、耳元で囁く。


「ネイ、こ、この方は……」


「ベルノア王だ」


「……本物かよ!?」


 ロッシュが腰を抜かしかけ、メグが目を丸くする。ローザもまた、息を呑んだ。


 アージェンスはネイの横に立つ三人を見た。


「……なるほど。ネイの“仲間”か」


 その声に軽さはない。認めるべきものを認める声音だった。


「礼をさせてほしい。食事と部屋は用意する。この街を救うために動いた君たちを、路上に置いておくわけにはいかない」


 ロッシュが「さすが王――」と言いかけて、慌てて飲み込む。メグとローザは小さく頭を下げた。


 アージェンスの視線がネイへ戻る。


「ネイ、少し話がしたい。時間をもらえるか」


「ああ」


 二人は城へ向かって歩き出す。


 白い街路を並んで進む、その背をローザは黙って見送った。


 胸の内で、ひとつの線がつながる。


 オスカー・ランブラーがアルザスへ言った、「次はベルノア」という言葉。


 あれは予告だったのだ。


 この爆破は偶然ではない。混乱は起こったのではなく、起こされた。


 オスカーが火を撒き、アルザスがその火に道をつけている。


 真意は何なのか、明確な答えはまだ見えていない。


 白き水都は、今日もなお美しい。だが、その白さの下では、すでに見えない火が走っている。


 石の継ぎ目を伝い、運河の陰を抜け、次の場所へ。


 まだ煙にもなっていない災いが、たしかにこの街の底を這っていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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