第24話 水の王都、ベルノア
丘の向こうで、鐘楼が澄んだ音を響かせていた。
ベルメモリーズを発って半日。最後の丘を越えたとき、ネイの眼前に広がったのは、青い海に抱かれた巨大な城壁都市だった。
川を縫うように運河が走り、その水路に沿って白い石の街が幾重にも段を成している。舗道は石灰を磨き上げたように明るく、陽を受けるたび、街路そのものが淡い光を返した。家々の屋根瓦は潮風に灼かれて深い赤を帯び、白壁との境を鮮やかに際立たせている。
「ここがベルノアだ。良い街だろう」
マーガレットが言った。ことさらに誇るでもなく、ただ静かに、そこにある事実を告げるように。
ネイは足を止め、しばしその景観を眺めた。
断崖の上には王城が聳えている。岩山の先端が海へ大きく張り出し、その石の弓の上に載るように、白い城壁と高塔が連なっていた。塔の縁は陽を弾き、遠目には金糸を織り込んだかのように見える。
「こんな景観、初めて見た……」
思わず漏れた声に、マーガレットは少し笑みを浮かべ、短く頷いた。
街中に入り、活気あふれる道を歩く。道の先にある城門前で、アージェンスが待っていた。
外套は簡素だが仕立てがよく、手入れの行き届いた男の身のこなしには、隠しようのない品があった。
ネイは一歩前へ出る。二人は短く笑みを交わし、固い握手を結んだ。
「無事に聖都を出られたようだな。……何があった?」
率直な問いに、ネイはわずかに目を伏せる。
「申し訳ないが、何も言うことはできない」
アージェンスは片眉をわずかに上げたが、それ以上は追及しなかった。
「いいさ。君が無事なら、それでいい」
そう言ってネイの肩を軽く叩くと、すぐに声の調子を改める。
「時間を取ってある。君に見せたい記録がある」
おそらく、灰灯亭で聞いた王紋資料の件だろう。
三人は城内の廊下を抜け、古文書庫へ向かった。白石の壁には必要な彫りだけが施され、床は磨かれて足音をよく返す。文書庫の扉は分厚く、蝶番は重い。開いた瞬間、紙と革と、乾いたインクの匂いが押し寄せた。
アージェンスは棚の間を迷いなく進むと、小さく開けた場所へ出る。中央には卓がひとつ置かれていた。
アージェンスが棚からひとつの冊子を取り、卓上に置く。
革表紙は硬く、角は長い歳月に撫でられて丸い。アージェンスが静かにそれを開くと、紙の擦れる音が、狭い部屋の中で不思議なほど大きく鳴った。
「……ここを見てくれ。挟まれていた請願の写しだ」
紙は乾いた霜のようにざらつき、墨はところどころ薄れている。ネイは指先で行を追った。
私刑を退けよ。罰するかわりに、期限つきの奉仕を課せ。
罰だけでは、人は変わらない。
変化は、“誰かが側に立った”時に起きる。
末尾には王紋の意匠があった。たしかに、王紋と同じだ。
「ある少年が盗みを働いた際、巡礼の途上にあった十二歳のレオン王子が請願した内容だ」
「十二歳……」
十二歳で、“罰ではなく変化”を語る。
十二歳で、“側に立つ”ことを語る。
――これを、わずか十二歳の子どもが書いたのか。
アージェンスは冊子の端を指で押さえ、続けた。
「この請願は通り、少年は処罰の代わりに市場の掃除と港の荷運びを一年課された。監督は教区書記、報告は王城へ上がった」
「……その少年は、変わったのか」
「変わった。確実に。自分が“見捨てられていない”と知った人間は、変わる」
アージェンスの声には、わずかに力がこもっていた。
「そして、その少年はのちに荷運びの組織を興し、今ではベルノア港の要を担っている」
ネイは目を見開いた。レオンが救ったひとりの人間が、今やこの国の骨組みの一部になっている。
「さすがはルクス神の叡智を授かった国の王子。慈愛と聡明さに満ちているとは思わないか」
アージェンスはネイを見た。その視線は、ただの賛意を求めるものではない。確かめるような、静かな問いだった。
「……不思議だが、ロサマリアでの君の行動に似ている」
その言葉に、ネイは思わず目を見開く。
「俺は、ただの戦士。それだけだ」
言葉では否定の形を取ったが、レオンの言葉と行動、そしてレオンが救った少年の結末は、ネイの胸に強く刺さっていた。
短い沈黙のあと、アージェンスは小さく笑い、冊子を閉じた。
「今日は城内に部屋を取ってある。明日、改めて港の記録も見よう。その前に、少し街を歩くか」
アージェンスの提案に、ネイは静かに頷く。
「気分転換ですか」
マーガレットが鼻で短く笑った。
「陛下が案内すると、“情報収集”になる」
「情報収集は悪いことか?」
二人は小さく笑い合い、ネイもその様子を見て笑みを浮かべる。アージェンスはその顔を見て、少し安心したように見えた。
古文書庫を出ると、白壁の路地に潮の風が流れていた。市庁舎の景観、鐘楼の影、青磁色のタイルを敷いた小広場。革細工の店先には古靴が吊られ、印刷所の前では活字箱が開いている。白い石は一色ではない。潮で磨かれた白、石灰の白、夕陽に焼かれた白。その隙間から、運河の深い青がのぞいていた。
美しい景観を眺める中、灰色の法衣をまとった巡礼僧の一団が、運河沿いを遠巻きに流れていく。
最初は、ただの巡礼に見えた。だが、列の端に違和感があった。揺れが少なすぎる。歩幅がそろいすぎている。肩の上下まで、ほとんど同じだ。
訓練された人に見えた。
最後尾の僧が、一拍だけ歩みを止める。次の瞬間には、何事もなかったように進み出す。だが、顔を伏せたままのその姿から、視線だけがこちらへ伸びていた。
――視られている。
*
その夜、ネイは城内の客室に泊まった。
窓の下を運河が流れ、夜半の鐘が水に落ちて、ゆっくりとほどけていく。白い街は闇の中で輪郭だけを残し、赤屋根は黒く沈み、遠い港の帆柱だけが細い線になっていた。
寝台に横たわっても、ネイの胸には、あの請願の一文が残り続ける。
――変化は、“誰かが側に立った”時に起きる。
母が忘れろと言った名。
老人が語った救いの記憶。
紙の上に残された、レオン王子――すなわち父の筆跡。
そして、最後にネイの脳裏へ浮かんだ言葉。
――デラヴイユ王国。
リディアの“事情を説明します”という言葉が、今も胸に刺さっていた。
デラヴイユは、あの遺跡の中に今も生き続けているのか――。
そして翌日。
ネイたちは再び城下町へ出ていた。港の帳面を見に行く前に、アージェンスが、観光名所でもある市場を一度見せたいと言ったからだ。
その途中、鼻腔に違和感が走る。
「……火薬の匂いがする」
ネイが小さく言う。潮と油と石灰の匂いに混じって、ごく薄く、空気の奥が焦げていた。
マーガレットとアージェンスが、ほとんど同時に運河側へ視線を向ける。
次の瞬間、白い壁の向こうで、鈍い破裂音が鳴った。
鐘の音とは違う。
昼を告げる音ではない。
人の腹の底を、遅れて裂く音だった。
叫びが遠くで上がる。鳥が一斉に飛び立ち、運河の水面が細かく震え、石の街に“何が起きたか分からないまま走り出す足音”が満ちていく。
炎は、まだ見えない。
だが、炎になる前の匂いだけが、すでにベルノアの白い石の隙間へ、深く入り込んでいた。
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